「照顧脚下」2022年02月【No.223】

コロナ禍の第六波は深刻な感染拡大を招いております。全国の感染者数は8万5千人を超えようかという勢いです。第五波のあとで感染者が激減したときには、これで次第にコロナも収束に向かうのではないかと希望的観測を持たれた方々もおられたかと思います。ですが、オミクロン株の感染力は凄まじく、軽々と第五波の感染者数を越えてしまいました。ただ救いなのは、重症者や死亡者がかなり少ないことです。当然のことながら、これまでの対処の仕方を変える必要があると思われますが、どうも政府の対応が機敏ではありません。これは第一線で患者に接する医者の意見を虚心坦懐に聞いていないからではないでしょうか。

 閑話休題(それはさておき)、今から180年前の天保年間に編纂された『雛僧(すうそう)要訓』という和本があります。その当時の七人の名僧方が慈悲心から、これから僧堂に入って禅の修行をして、一人前の禅僧になろうとする雛僧に対して、心構えの数々を説かれたものです。私もこれから僧堂に入門する予定の若者数名に対して、この書物を読み聞かせたことがあります。今拝読しても身の引き締まる思いがする内容に出くわします。京都八幡にある円福僧堂の海山老師が序文を書かれていますが、「この訓戒を実践して怠らなかったならば、後日必ずやお悟りを開いた明眼(みょうげん)の老師でさえも、その威風を見ただけで後ずさりするような高峰の如き妙(たえ)なる禅僧になることができるであろう」と言われています。何と有難いことではないでしょうか。

この『要訓』の中に次のような箇所があります。「日ごろ戸や障子の開け閉めは、必ずひざまずいてしなければいけない。また履き物(はきもの)をぬぐときは、必ず気をつけて乱れないように並べて置かなければならない。日ごろからこのように心がけなければ、人との交わりの場でも荒々しい態度になってしまうものである。すべて日ごろの戸や障子の開閉の仕方や履き物の脱ぎ方で、その人の心が知れるものであるから、恥を知らなければならない。そのほか、器物などを取り扱う際にも、使い終われば必ず元の場所に戻さなければならない。何事にしてもこのようなあと始末(しまつ)をおろそかにする人は、一家を相続することはもちろん、学問や坐禅修行でも成就できるはずがない。幼少よりの心がけが大切である。」何と懇切丁寧な訓示ではないでしょうか。

拙寺でも作務の終了時には「道具の忘れ物のないように」と毎回注意しています。私が何かの事情で作務に参加できない場合、後始末を点検して回ると、箒が忘れられていたりすることはよくありますし、落ち葉を積んで堆肥にした中から除草道具などが出てくることは、幾度となくありました。

 禅寺の玄関先にはよく「照顧脚下」の文字板がかけられております。履き物を乱すことなく脱ぎそろえるというのは、専門道場(僧堂)で嫌というほど注意され、和尚方は誰しも身にしみて肝(きも)に銘じているはずです。しかし、内輪の恥をさらすようですが、だいぶ以前に或る法要に参列して、東司(とうす、お手洗い)を使用した際に、履き物のスリッパが乱れまくって脱がれている様を見て、我が眼を疑うほど驚いたことがあります。その東司は和尚方専用のはずです。履き物をそろえるというのは、禅僧としての基本中の基本の心得です。それができないということは一体どういうことか。『雛僧要訓』の慈悲心溢れる垂示を何と心得ているのでしょうか。これは禅界の凋落ぶりを如実に示す出来事ではないでしょうか。
 とはいえ、他人の欠点はよく見えても、我が身の至らぬところはなかなか気づかぬものです。「照顧脚下」(足元を照らし顧みよ)の基本に立ち返って、私たち日常生活のひとつひとつを心して点検したいものです。

 (なお、光雲寺では現在月二回の月例坐禅会と毎土曜の坐禅会を行っておりますが、昨年と同様に、緊急事態宣言が発令されれば、休会とする予定です。)

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