「画餅飢えを充たさず」2018年10月【No.184】
どうも今年に入ってから異常高温や記録的暴風雨をもたらす台風の相次ぐ襲来など、自然がこれまでにない猛威を振るっております。最近は、こうした異常気象が、実は決して異常ではなく普通になりつつあるというのが専門家の見解のようで、まことに前途が危惧されます。しかもこのような状況は何もわが国だけに留まらず、全世界的傾向だということです。さらにこの日本では、死者35万人、被害総額が国家予算の10倍の140兆円という未曾有の被害が想定される南海東南海地震が差し迫っているというではありませんか。このような状況に直面した場合、私たちは一体どのような心持ちで対処すべきでしょうか。
まず言えることは、付け焼き刃のような空理空論では、このような難局に直面して到底何らの力になり得ないということです。標題に掲げた「画餅(がびょう)飢えを充(み)たさず」というのは、「絵に描いた餅では空腹が満たされるはずがない」ということで、足、実地を踏んだ確固たる体験を欠いた空理空論を翫(もてあそ)んでいては、心底からの安心を得ることはできないことを力説するものです。
最近、学問に専念することに疑問を感じて休学している学生さんたちを数名知っております。いずれも一流の国立大学や大学院の哲学科の在籍者です。彼らに対して小衲は、先述の「画餅飢えを充たさず」ということを話した次第です。小衲も同様の疑問を感じて25歳から禅に参じ、28歳で在家から出家したので、彼らの気持ちが良く分かるのです。確かにドイツ語・フランス語・英語などの哲学の原書を読むことに没頭するのはそれなりの充実感を得ることはできるでしょう。しかしそのことによって、「臍(ほぞ)落ちする」という心からの安心が得られるべくもありません。
小衲の場合には、「これを克服するためには禅の修行をするのが最善である」と決意して出家したのですが、それには禅の修行をしておられた主任教授からの影響もありました。彼らの場合、禅に出逢っているものの、果たしてこの満たされぬ思いを克服する方途を禅に求めて、一身を擲(なげう)ってその道に邁進するのかどうかはまだ未定のようです。これは他人からとやかく言われることではなく、本人自身が「何としてもこの道以外には自分の進むべき道はない」と決断できるかどうかにかかっております。
禅の修行は自分自身の本心本性を自覚することを目指しております。いわゆる「見性」・「自性徹見」です。四六時中工夫三昧、公案三昧になることによって、普段は外ばかりに目を向けて色んな感情を起こし、心をかき乱されるというあり方を転じて、足が地に着いた心境に達することができるようになります。
勿論、在家の人達の中にも、工夫三昧を心がけて、かなりの三昧境の法悦を得ている人達がいるのも事実です。小衲の坐禅会には何人かそういう方がおられます。とはいえ、禅の修行に邁進する若者が激減している今の禅界で一番求められているのは、出家・在家の指導者となるだけの修行を積んだ力量ある本物の禅僧ではないでしょうか。「南禅寺禅センター」の坐禅研修に参加する若者は数多くいるのですが、そうした人達の中から、ひとりでもわが身を擲ってこの道に進もうという勇猛心溢れた青年の出現を期待して止みません。