「直指人心、見性成仏」2019年10月【No.195】

先月のコラムは体調不良のために失礼致しましたことをお詫び申し上げます。何人かの方々からお問い合わせがありましたので、私事になりますが、少し経緯を述べさせて頂きたいと存じます。先月末から咳が続き、てっきり風邪かと思い、手製のカリン酒を飲んでいたのですが、一向に咳は収まる気配がありませんでした。これまでは通常の風邪ならカリン酒でまず快復したのですが、今回はどうもなかなか改善しません。これはどうもおかしいと思い、或る呼吸器科医院を受診しましたところ、どうやら喘息らしいという診断でした。お陰様で初期の軽いものでしたので、今はほとんど咳が収まっております。皆様方もどうぞお身体ご自愛下さい。

閑話休題。法類の寺院から依頼されて毎歳お盆の棚経参りをしているのですが、先般伺ったおりに或るお宅で次のような相談を受けました。その方は平安神宮の近くに住んでおられ、絵も見事で、短歌の心得もある気品のあるご婦人です。どういうきっかけか、毎日散歩して浄土宗総本山の知恩院の早朝法話を聞きに行かれることが日課になっておられるということで、「禅宗寺院の檀家である私が果たして他宗の法話を聞きに行って良いものでしょうか」というお尋ねでした。小衲は「よろしいんではないですか。」と返答申し上げました。知恩院開山の法然上人は一日六万遍の念仏を唱えられ、真に三昧発得の境地に入られた経験のある名僧です。禅宗のわれわれも法然上人の全集を拝読して「さすがは体験底の方だ」ととても感銘を受ける逸話が多くあります。

これに対して、禅宗の祖師方は漢文の偈頌や法語があっても、平易な法話などはあまり残っておりません。例えば、南禅寺開山の大明国師(無関普門禅師)は漢文の難解な偈頌や法語が少し伝えられているだけです。妙心寺開山の無相大師(関山慧玄禅師)に到っては、「慧玄が這裡(しゃり)に生死無し」(わしのところには生き死にの沙汰はないわい)と「栢樹子の話に賊機有り」と二句が残されているだけです。

というのも、禅宗では「教外別伝、不立文字、直指人心、見性成仏」を標榜して、教えの根本にある禅の根本体験そのものが重要であり、いたずらに文字に表すことは文字に拘泥する人を増やす危険がある、それよりもずばり自己の本心本性を徹見して自らが成仏することこそ肝要であるというのです。小衲は禅のこの見識に感激し、共感して、出家し、この道に入ったものです。

ただ、禅宗でも法語が全く無いわけではありません。小衲がだいぶ以前に現代語訳した「澤水法語」は160歳まで長命された名僧・澤水長茂禅師の法語です。禅師はその中で、文字言句にとらわれることなく、自己の本性を徹見する必要を説いておられます。大悟徹底した名僧の痛快な法語を味わって頂くために以下にその一部を引用して、今月のコラムを結びと致します。

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二、誰もが心を明らめる修行をする必要が
  あることを示すこと

 或る人が来り参じて問うて言うには、仏法信心のことですが、私は元来武家の生まれですから、仏法を信ずることはふさわしくない。仏法信心や坐禅工夫はただ出家のみがなすべきことで、在俗の我々がしなければならないということは、どうも合点が行きません。

 師が言われた。それは仏法という言葉の真意を、いまだ明眼(みょうげん)の師から聞かれたことがないための誤解である。仏法という言葉の真意さえ、容易には知られ得ないものである。一切の経や論、諸子百家をことごとく記憶している大学者といえども、知ることは難かしい。元来仏法は、分別学(ぶんべつがく)解(げ)のよく及ぶところではないからである。それゆえに教外(きょうげ)の玄旨と云うのである。円覚経には、善知識や善友を尋ね求めねばならないとはあるが、学者を尋ねよとは説かれていない。

 たとえ字がうまく、諸経を広く見て、詩や文章に達者であるからといって、知識とは名付けない。知識というのは、一句一字を学んだことがなくても、実に仏祖のごとく根本の一心を明らかにした人を、知識というのである。こういうことも、聞いたことがなければ考え違いすることが多い。

 さて、仏法というのは、貴賤や男女の区別なく、草木瓦石に至るまでそれぞれが十分に具えている仏法であり、何も出家だけが信ずべきことではない。ただ今手を動かし、足を動かし、目に色を見て、耳に声を聞いている、こうして老僧が庵室へ来たり去ったりする。これは一体何の道理であろうか。これこそ人々(にんにん)具足(ぐそく)の仏法の妙用(みょうゆう)に外ならない。

 仏法というのは人々の一心の名である。一心の名であるということを知らないで、自分は出家ではないから仏法など信じ難いと言ったり、そしり憎んだりすれば、それは取りも直さず自分の一心を嫌い憎むことになるのである。これは大層愚かなことではないか。
 もし儒者の身でありながら仏法をそしるならば、それは儒道の極意(ごくい)をいまだ知らない人である。神道の人が仏法をそしるならば、それは神道の極意をいまだ味わったことのない人である。仏法者でありながら儒道や神道をそしるならば、それは仏法を夢にも知らない仏法者である。仏門中で相対立して宗論を争わせることは、語るに足らぬまことに恥ずべきことである。そのゆえに、仏法は武道の極、歌道の根本である。その他の諸道百芸も、その究極的核心に到っては、すべて一心に帰着するのである。

 さて坐禅工夫は、しっかり坐禅しながら、耳で聞く主を工夫しようと思う人は聞く主を工夫し、その外、古則公案のいずれでもよいから、ただ一則の公案をはっきりと定めて、路を行くにも工夫し、寝てもさめても深く疑いを起して工夫すべきである。工夫疑団というのは、知ることのできない所を深く考えることである。深く考える所を、工夫とも、坐禅とも、疑団とも、観法とも、観念とも、禅定とも、思惟とも、三昧とも、大信心とも、大菩提心とも言うのである。そのほか工夫の異名は枚挙にいとまがないほどである。

 坐禅のことであるが、坐っているばかりを坐禅とは言わない。行住坐臥を通して深く公案を疑うのを、真実の坐禅というのである。どれほど長坐不臥で端正に坐っているといっても、深く疑う心がなければ、坐でもなく、禅でもなく、黙照の邪禅である。六祖大師は、「道は心に由(よ)って悟る。どうして坐に在るであろうか」と言われている。このことから知らねばならない、坐禅はただ深く疑うことをさせて、自性(じしょう)を悟らせるためだけの方便なのである。

 悟りというのは、一心を明らかにすることである。明らかにするとは、自分の心が明らかになるということである。従って、一心があるものは、一心の修行をしなくてはならない。武家は武道の中で工夫をし、百姓は耕しながら工夫をし、貴踐や男女もその職業に従事しながらなさねばならない仏法信心である。

 そうであるから、信心とはまことの心と書くのである。まことの心となって困るという人は、諸宗諸道諸芸のうちで一人もないはずである。一心を明らかにせずに心が暗くて邪(よこしま)で善いという人は、諸宗諸道諸芸のうちで一人もないはずである。このことから知られるのは、仏法信心は世間一切の人のすべてがしなければならないということである。

 仏法とは一心の名である。信心というのは自分の一心を信じることである。坐禅工夫というのは、格別に変ったことであるかのように人は皆思っているが、ただ一心を明らかに磨くための修行にほかならない。この工夫信心は、手足を使うこともなく、道具も必要ではなく、ただ心中で行なう信心であるから、仏法信心が数多くある中でも、最も行ない易い信心である。

 もし実際に工夫をして、大疑がにわかに破れ、大悟発明するときには、抜隊法語にあるように、一字を見ることなく、七千余巻のお経を一度に読み尽くすことができる。七千余巻というのも、ほんの一部に過ぎない。儒道の一切の書物や神道や歌道の書物など、あらゆる書物の真意をことごとく徹見することができる。

 老僧がこのように言うのを少しでも疑う人は、直ちに自分が大疑団を起し、即今(そっこん)自性を見得して知らねばならぬ。古人は、「終日喫しても未だ曾て一粒の飯を食べたこともない。終日歩いても未だ曾て一片の地も踏んだことがない」と言っている。実にこの言葉通りの境地に到れば、たとえ百万騎の敵陣にひとりで飛び込んだとしても、前後左右に人がいるとも思わないであろう。何と痛快なことではないか。

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