「禅修行における作務の醍醐味」2017年3月【No.165】
拙寺である光雲寺では、南禅寺本山からの寄託を受けて「南禅寺禅センター」の看板を掲げて一般の方々、特に修学旅行の生徒さんたちの坐禅研修を行っておりますが、それ以外にも25年以上続く月二回(原則として第二、第四日曜日)の月例坐禅会(午前8時より午後2時半まで)、毎土曜日の午後8時より9時までの無料坐禅会(午後7時50分までに入堂のこと)などを行っております。
禅センターの研修でもごく稀に作務(さむ、労務)を希望されるグループもありますが、通常は月例坐禅会の場合にのみ一時間半ほどの作務を行ってもらいます。小衲の経験から申せば、坐禅だけよりも、作務も併修した方がかえって良い坐禅ができるように感じます。禅修行では作務も坐禅に劣らず重要な修行の一環です。中国唐代の名僧・百丈懐海(えかい)禅師は「百丈清規(しんぎ)」を作って叢林の規矩(きく)を定められた方ですが、禅師が老齢になられても作務を一向にやめようとされないので、弟子たちが気遣って作務の用具を隠したところ、百丈禅師は終日食事をとられず、「一日不作一日不食」(一日なさざれば一日くらわず)との名言を吐かれたと言われております。
それ以来、「作務」は禅宗では殊に重要視されており、僧堂で長年修行された方はみな、庭木の刈り込みや畑の畝(うね)を耕したり、また色んな料理を作るのも得意とされる方が多いものです。僧堂生活を経験した者が感じる有難味です。南禅寺の山内にも、いつ伺っても作務三昧にいそしんでおられる和尚様がおられます。小衲が隠侍をやらせて頂いた二代前の建仁寺管長の竹田益州老師は、それこそ百丈懐海禅師に勝るとも劣らぬほどの作務三昧のお方でした。何しろ出家されたのが日露戦争勃発の歳で、和尚から真冬に「頭から井戸水をかぶれ。禅僧はいざとなれば脇腹に短刀を突き立てるくらいの覚悟がなければできるものではないぞ。」と叱咤激励され、頭から水をかぶってその寒さに震え上がられた経験をお持ちの方です。戦後生まれの我々とは格段に違った厳しい修行生活を送られたでありましょう。八十代半ばを過ぎられても、なお連日の作務三昧をやめようとはされませんでした。或るときお風邪を召されたので、「今日は作務を休まれるだろう」と思っておりましたところ、股引をはいて開山堂の草引きをされていたのには正直感嘆致しました。口でとやかく説くよりも、身を以てする「以身説法」はずば抜けた感化の力があります。管長さんのその当時の気高い行履(あんり)は、小衲の眼に今でもはっきりと焼き付いております。
つい先日の月例坐禅会の作務では、お寺の畑の除草を参加者の皆さんにやって頂きました。十数人の人たちが一時間半の間熱心にやって頂いたお蔭で、生い茂っていた雑草がほとんど抜かれて畑が見事にきれいになりました。そこで小衲も、坐禅会が終わった午後三時頃から二時間ほどかけて堆肥を
ひっくり返して山のように積まれていた落ち葉や抜かれた雑草などを堆肥に混ぜて、まわりを綺麗に箒で掃きました。驚いたことに、通常は小衲が畝を耕している間に二人の二十代の若者にやらせている堆肥の作業を、実に楽に行うことができました。小衲はこの一月に、数えで言えば「人生七十、古来稀なり」といわれた古希を迎えたのですが、これほど楽に重労働の作務を行うことができたのは意外でした。
もとより小衲よりもはるかに年長の方々でも、職業上この程度の労働をわけなくこなしている方々も数多くおられることでしょう。別にわが身のこの経験を自慢するつもりで申し上げたのではありません。しかしどうしてかくも楽に作務を行うことができたのかに関して自分なりに考えてみると、何といっても作務を仕事と思わず、楽しみながら力を抜いて淡々とやっているからということに帰すると思います。15年ほど前のことでしょうか、ドイツ人の女性が禅の修行をしたいと言って小衲のところに訪ねて参りました。当時はまだ南禅寺の塔頭に居候をさせて頂いておりましたが、彼女は通いでやって来て作務や坐禅に励みました。或る日、小衲が朝から庭園全体の刈り込みを行ったあとで訪ねてきたドイツ人女性と一緒に刈り込んだ枝葉を掃除し始めて二時間くらい経った頃でしょうか、彼女は「これはいくら何でも一日の作務の分量としては多すぎます」と苦情をもらしました。小衲はとっさに、「それは君が作務をしているからだ」と答えたのです。分別して考えた上で吐いた言葉ではありません。その時の境涯で、とっさに出た言葉です。彼女はそれに対して、「それは貴方は専門の禅僧だから楽にできるのでしょう」と反論しましたので、小衲は「君はいつも弁解ばかりだ」ときつい言葉を投げかけると、彼女の顔の血の気がサッと引いたことを覚えております。ただ彼女はそののち良い境地に達して帰国したことを付記しておきます。
真に作務三昧に成り切ってやっていれば、「作務をしている」という意識はなくなります。一流のピアニストは自分の手を意識することなくピアノの演奏をしているはずです。ただ、禅の臨済宗では公案に四六時中目の色を変えて取り組むことを課せられておりますので、作務をしながら坐禅中よりも深い禅定に入ることが良くあります。「動中の工夫」の重要性は古人も再三力説されているとおりです。小衲も良く工夫三昧で作務をしていて、えも言えぬ佳境に入ったことが幾度となくあります。
肝心なことは行住坐臥に関わりなく工夫三昧になることです。その法悦たるや、「知り人ぞ知る」醍醐味があります。どうぞ出家・在家を問わず、一人でも多くの方がこの三昧境を味わって、充実した人生を送って頂きたいものです。合掌。
(なお、三月の月例坐禅会は、26日の第4日曜日に塔頭の法要がありますので、12日の第2日曜日のみとさせて頂きます。)