「禅修行のすすめ」2013年6月【No.120】

この光雲寺では再三申しあげている通り、南禅寺本山からの委託で「南禅寺禅センター」の看板を掲げて、多くの坐禅希望団体を受け容れている。もとより修学旅行生が一番多いのであるが、年々増加の一途をたどり、遂に先月にはこれまでで最高の2700人以上に達し、今月も2400人を超えそうな勢いである。

学校が生徒たちの修学旅行の際に「京都の禅寺で坐禅を体験する」という企画をするのは、とても意義あることである。ほとんどが坐禅体験が初めての生徒たちであるが、中には背中を老人のように曲げて若者らしからぬ坐相の者も見受けられるものの、結跏趺坐してこちらが感心するほど端然と坐っている生徒も必ずいるものである。

坐禅の後の法話の時間になると、生徒たちはおそらく学校でも見せたことのないような真剣な面持ちでこちらの話を聞いてくれる。釈尊や達磨大師の話をして、眼を外ばかりに向けるのではなく、廻向返照して坐禅工夫をすることにより、どういう多忙な時節に遭遇しようが、いかなる難事に直面しようが、浮き足立つことなく足が実地を踏むような着実な生き方ができるなどというと、全員の視線がこちらに集中しているのを感じる。ひとりひとりの反応をよく見ると、こちらのいうことに「うんうん」とうなずきながら熱心に聞き入ってくれている人もいる。また中にはそういうことは初めて聞いたとばかりに、驚いて眼を見張っている若者もいる。坐禅指導の醍醐味を感じる一瞬である。

坐禅体験者はこうして確実にすそ野が広がっている一方で、自ら出家してこの無上道を極めようとする願心をもった青年が一向に現れてこないのが、何とも不可思議で残念なことである。釈尊が直面されたような生老病死という有り方の超克の必要性や、通常の分別意識的有り方の根本的問題点などを痛感するという法理がはっきりしていれば、すべてをなげうってでも本格的に禅修行に志そうという若者が増えても不思議ではない。

わが光雲寺が寛文六年(1664)に中興された際には、英中禅師のもとに50人の修行者が参集したという。総人口が現在の四分の一以下の3000万人足らずの時代の話である。青年たちにはどうかいにしえの名僧の伝記などを読んで道心を起こして頂きたいものである。盤珪禅師や白隠禅師の伝記などは中でも出色のものであろう。この無上道が断絶しないがためにも、どうか道心を持つ若者たちの出現を待望せずにはいられないのである。

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