「禅堂の修行生活(その7)」2018年8月【No.182】
先月のコラムの最後で、今月は曹源寺時代の修業についてお話しすると申し上げましたが、一番長く修行した建仁寺時代の修行生活についてまだ語り尽くせないことがありましたので、今月はそのことについてお話しさせて頂きたいと思います。
小衲は、申し上げました様に、親切心からであったとは思うのですが、最初の専門道場では策励があまりに度を過ぎていましたので、却って思う存分に三昧境に入ることができませんでした。警策も背中がいつも内出血するような打ち方は逆効果でしかないと感じます。これに対して鎌倉の建長寺ではほとんど警策を打たれることはなく、工夫が妨げられるようなことなく法悦の禅定に入ることができたのは、本当に有難いことでした。
素堂老師について京叢林の建仁寺僧堂に移ってからも、できるだけ四六時中の公案三昧・工夫三昧に打ち込むようにしました。急に僧堂の人数が増えたお蔭で、雲水が大勢であの広い境内の雑草を抜くという作務が連日おこなわれたものですが、小衲はこれこそ公案工夫の絶好の機会と考え、「無−、無—」と無字になり切ることに全力を傾注致しました。その結果として、期せずして坐禅中よりも深い禅定に入れたことが幾度となくあります。
動中で得た禅定力を以て静中の坐禅でも禅定力が向上して来ました。こうなるとますます佳境に入ってきて、寸暇を惜しんで坐禅に励むようになります。堂内の時は勿論のこと、常住と呼ばれる役付きの時でも閑があれば部屋で坐禅をしていました。老師の隠侍をしているときには、お食事をお出ししたあとで、小方丈の庭に面して座布団なしに結跏趺坐を組ながら「無—、無—」と無字三昧の佳境に入ります。
小衲は28歳で出家する前に、勝れた禅僧の伝記が書かれた漢文体の『禅林僧宝伝』を拝読して古尊宿の猛烈な修行振りを知っておりましたので、自分も何とかそうしたずば抜けた修行をして痛快な見性をしたいものだと常日頃思っておりました。工夫が純熟した或る大摂心の最中に、小衲は今北洪川老師が回顧しておられるような「絶妙の佳境」に入っておきました。この工夫を続ければ必ずや見性できるという確信を持てるような充実した工夫ができてきたのです。小衲は参禅にも行かず、結跏趺坐も解かずに極致目指して工夫を続けました。
すると突然、小衲の横に坐っていた在家の居士が「ああ、脚が痛いな。ああ、辛いな」などとわめき始めたのです。恐らくこの居士は、雲水全員が参禅したら足を解いて横着をするつもりだったのでしょうが、小衲が参禅せずに坐り続けたので、足を解くことができず、弱り切っていたものでしょう。こんな雑音など無視して工夫を続ければ好かったのですが、あまりにわめきまくるので、小衲はついに「静かにせんか」と低い声で注意したのです。
その瞬間から、折角佳境に入って向上一辺倒だった工夫は次第にしぼんで行ってしまいました。雲水の工夫の妨げになるような修行振りの居士の参加など不要です。またそれと共に、道心の無い居士に工夫の純熟を妨げられるようなことでは、小衲もまだまだ道心堅固であったとは言えなかったと大いに反省しております。
こういう真の工夫の佳境に入ることはなかなかありませんので、坐禅工夫を志す方々は、そうした時節が到来しましたら、出家在家を問わず、万難を排して獅子奮迅の勢いで工夫に邁進して頂きたいものです。