「禅宗の徒弟教育について」2023年02月【No.235】

 先月のコラムで私に18歳の道心堅固なドイツ人の弟子ができたということをお伝え致しました。この秋に専門道場に掛搭するまでの間、光雲寺で予備的な禅教育をする必要があります。今回はそのことについてお話し致しましょう。

 最近は自性徹見(見性、自分の本心本性を自覚すること)を目指して、在家から出家する若者がめっきり少なくなりました。禅寺の住職となるためには僧堂に何年か行く必要があるから、という理由で行く人が多いように感じます。ですから、僧堂生活を何年かすればこと足(た)れりとして下山してしまう人がほとんどかと思われます。それでは禅の命脈はとても保たれるものではありません。
第一、自分自身が安心立命できないはずです。

 見性を目指して出家した人なら、修行が徹底するまで何年かかろうとも、また道場での修行がどんなに過酷なことがあろうとも、意に介せずに工夫三昧の生活を続けるべきだと思います。もちろん道場を移り変わることは問題ありません。古人も「行脚(あんぎゃ)歴参」「病は一師一友のもとにあり」とも言われておりますし、かく申す私自身も何ヶ所かの道場で修行した経験があります。大切なことは向上の一路を目指す道心をどこまでも保持することです。

 僧堂の生活は工夫三昧になって連日過ごせば、おのずからえも言われぬ法悦に包まれる日々を過ごすことができるようになります。粗食で睡眠時間が極端に少なくても、四六時中の工夫の功徳により、頑張ろうと思わずともごく自然にいつの間にか三昧境の法悦が育って行くので、面白いものです。「自分は寝ないで頑張るぞ」と力まなくても、工夫の醍醐味に満たされているうちに、時間が経(た)っているものです。円覚寺の今北洪川老師に或る在家の修行者(居士)が、「古人の逸話を読むと、寝食を廃して修行に打ちこまれたと申します。私もそうしたく思いますが、なかなかそのような訳には参りません」と申し上げると、老師はすぐさま、「それはお前心得違いだ。別に寝食を廃そうと思わずとも、工夫三昧になっていればおのずから寝食を忘ずるようになるものだ」と諭(さと)されたそうですが、もっともな話だと思います。

 私もドイツ人の青年に何とか本当の修行をしてもらいたいがために、深夜に携帯電話で、「無の工夫を続けていますか?無―無―無―と四六時中の無字三昧の工夫を忘れないようにして下さい」とメールを送ると、彼から「はい、頑張ろうと思わずに頑張ります」という返信がまいりました。これは私の修行時代に「間断なく工夫せよ」と手厳しく注意してくれる老師がおられなかったために、時として工夫に隙(すき)ができたという反省を踏まえてのことです。

 彼には他の在家の学生さんたちには決して言わないような事細かな日常生活での注意をしております。彼は実に素直に聞き入れて、毎日を晴れやかに過ごしているように見受けられます。後日、多くの人たちが見上げるような「妙峰」(すぐれた人物)に育って欲しいと願う毎日です。徒弟教育に関してお伝えすることがあれば、また申し上げることに致しましょう。

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