「臘八大摂心」(月刊コラム【No.114】2012年12月)

12月1日から8日の早朝(鶏鳴)に至るまで、釈尊が明けの明星を見て大悟された芳躅を慕い、臨済宗の各専門道場では不眠不休で坐禅三昧の日々が続く。仏祖に劣らぬ悟りを開くべく命がけの骨折りをするのである。曹洞宗でも臘八大摂心は行われるようであるが、不眠不休の臨済宗ほどの厳しさはないようである。

最近は臘八大摂心最中の寒さはそれほどでもなくなったが、われわれの修業時代には雪が大層積もったりして、身を切るように寒い日々があった。禅堂の窓の障子は夜の八時くらいまでは開けっ放しで、寒風吹きすさぶ中で必死になって坐禅に励んだことが思い出される。或るときはあまりの強風のために役位が窓の障子を閉めることを特別に配慮してくれたが、それを察知した老師が「臘八中に窓を閉めて坐るとは何事か」と一喝したので、再び窓を開けて坐ったことがある。一同みんな気合いが入っているので、病気になる者などいない。たとえいたとしても、病僧寮である延寿堂を閉めて決死の覚悟で臨むので、病僧などできないのである。

さて、小衲の禅定がすこぶる熟したある歳の臘八大摂心中のことである。何とかして本当の見性に到達したいと思い、眼の色を変えて無字の工夫三昧に余念がなかった。間断無き工夫を心がけているうちに遂にえもいえぬ佳境に没入した。僧堂では臘八大摂心中は何度も参禅がある。老師の室内に入って与えられた公案の見解(けんげ)を呈するのである。しかし工夫三昧の佳境にある小衲は、参禅など無視して結跏趺坐を解かずに無字の工夫に邁進した。

文化十三年(1816)生まれの今北洪川老師は、相国寺での修業時代、鬼大拙とあだ名された悪辣の老師の接得のお蔭で痛快に見性されたが、ちょうどその時の状況に似たような三昧境が小衲にも現前してきた。歓喜に絶えず「無—無—」と上り詰めて行った小衲の耳もとに、突然「ああ痛いな痛いな。つらいな、たまらんな」とわめく居士の声が聞こえた。どうやら小衲の隣に坐っていたらしい居士が、小衲が参禅に行けば足を解こうと横着を決め込んでいたにもかかわらず、行かなかったがために解くに解けずにわめいたものであると思われた。くだんの居士がいつまでもわめくのをやめないので、小衲は遂に低い声で「黙って坐れ」と一喝したが、そのためそれまでせり上げてきた三昧境は途切れてしまうことになった。その三昧境にはもう戻ることができなかったのはまことに残念なことであった。

道心のない在家の者が中途半端な気持ちで専門道場の大摂心に参加するのは不謹慎で、妨げ以外の何ものでもない。しかしその居士のことをとやかく恨むよりも、その臘八大摂心中にそれ以上の三昧境に入ることのできなかったわが身の不甲斐なさを反省しなければなるまい。

最近は雲衲の在錫年数が短くなっているという話を、よく僧堂の老師から伺うことがある。本人もさることながら、どうやら父親である師匠の方が息子を厳しい修行から早く解放してやりたいと思うようで、困った事態である。僧堂での生活は法悦を体得する絶好の機会である。子を思う真の親心があるならば、なるだけ長く僧堂修行を勤めるように進言するべきではなかろうか。

近頃ある僧堂の老師が、「老師のこれでよかろうというお許しが出るまで弟子を道場で修行させて頂きたいといってくれた師匠がいました」と喜びの表情で語られたことがあった。僧堂時代が一番の華である。臘八大摂心中の雲衲方にはどうか工夫専一となって、痛快な法悦を得て頂きたいものである。

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