「跼天蹐地」(月刊コラム【No.86】2010年7月)

表題は、中国の五経のひとつに数えられる『詩経』小雅という、周の宮廷の賀歌を収録した篇にある「正月」と題する詩中の句である。「天、けだし高しといえども、あえて跼(せぐぐま)らずんばあらず。地、厚しといえども、あえて蹐(ぬきあし)せずんばあらず」(天が高くても遠慮がちに身をかがめ、地が厚くても遠慮がちに抜き足して歩かねばならぬ)という、戦々兢々としてわが身に何か落ち度がないかを恐れ慎むさまのことである。

現代人の中にはこういう言葉を聞くと一笑に付する人もあるかも知れないが、われわれ禅の修行で鍛えられ苦労したものにとっては、まことに有難く、身に沁みる言葉である。東京の白山道場の名僧・南隠老師は蚊帳を吊るされる際に、いつもご自分の顔につかんがばかりに低くされたが、それを怪訝(けげん)に思って「高く釣った方が気持ちが良いではありませんか」と尋ねた弟子に対して、南隠老師は上述の一句を引いて、「そんな了簡(りょうけん)ではいけぬ」と戒められたという話を読むと、名僧の行履(あんり)の気高さに身の引き締まる思いがする。

さて、先月のコラムは「作務の法悦」と題していたが、どうも弟子たちには今ひとつよく浸透していないようで、大いに反省することがあった。「植治(七代目小川治兵衛)の庭」を復元するべく、庭師さんたちが入って中庭の築山や苔張りをしていた時のことである。梅雨に入ってからますます雑草が伸びて除草の必要が増大したが、植えたばかりの苔の中に生える草を除くには、細心の注意がなければ苔を傷めることになりかねない。そこで、小衲が一人で中庭の除草をし、他の五、六人は境内内外の掃き掃除のあと、墓地の除草に専念してもらった。

四、五日たって中庭の除草がひと通り終わったので、墓地の方ももうほとんど終わっているだろうと思い、出かけて見ると、何と、「一体どこをやったのか」と思われるほど、あちこち雑草だらけでさっぱりできていないではないか。さっそく厳しく訓戒し、率先垂範して三日でやり終えたのである.

禅の専門道場では、「働きがある」かどうかということがよくいわれる。不器用な小衲などは、最初の道場では、なかなか働きができずに苦労し怒られもしたのであるが、次の道場では、自分自身の工夫と法悦も格段に進み、それに比例して自分なりに働きが自然についてきたという経験がある。

よい働きができるためには、その場所全体の状況を見て、どこからどういう手順で行えばよいかを瞬時に判断できなければならない。全員が思い思いのところを漫然と除草しているようでは、たいした成果が上がらないのも無理からぬことである。毎回注意しているのではあるが、それがまだ弟子たちに身についていないのは小衲の指導の不徹底である。

「戦々兢々」の配慮が必要なのは、たとえば人のお宅に訪問する時などでも同じことである。約束の時間に遅れることはあってはならないことであるが、さりとてあまり早く着くのも迷惑なことである。どんぴしゃりの時間が理想的であるが、そうはいかない場合もある。時間が遅れたり早まったりする時には、当然のことながら相手方に電話して了承を得るのが常識であるが、中には非常識と思えるほど約束を違える人も稀にいるものである。

少し前のことであるが、以前に施工をお願いした工務店の支店長が工事責任者を伴ってこちらの問題の箇所を見に来るという約束をして、当日の二時間前に、「では午後四時に二人で参ります」という電話があった。冬場のこととて、当方では三十分前には暖房を入れ、十分前には線香を立て、抹茶と菓子を準備して待っていたのであるが、いつまで待っても一向に来る気配がない。結局、その日は何の連絡もないままであった。こんな無礼なことはない。

小衲はそれで彼を見限って、「これ以後は出入り無用」の伝言を携帯電話の留守電に入れておいた。翌日早朝に彼はやってきて玄関に背広のまま土下座して無礼を謝したが、小衲はけんもほろろに応対して決して許すことはなかった。人によれば、このような応対振りはあまりにも非情に見えるであろうが、約束を守らない人物と信頼関係を築けという方が無理である。特に禅寺では時間厳守が厳格で、そうした現場を見聞したことが小衲には一再ならずある。連絡なしに十五分遅刻した或る本山の管長が、先輩格の僧堂の老師から痛烈な一喝を喰らった場面は、いまでも眼に焼きついている。

ただこの支店長の場合、救いなのは、「何というひどい仕打ちだ」などと当方の対応を恨むより、自らの非を悟って、それ以来連日、出勤前の早朝にやってきては郵便ポストに挨拶代わりの名刺を入れ続けたことである。彼にとってこの苦い経験が良薬としてこれからの人生の糧になることを願ってやまない。

それにしても、われわれはいかなる順風満帆・得意絶頂のときでも、戦々兢々たる「跼天蹐地」の念を忘却せぬように心がける必要があるであろう。「天、けだし高しといえども、あえて跼(せぐぐま)らずんばあらず。地、厚しといえども、あえて蹐(ぬきあし)せずんばあらず」である。

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