「跼蹐の情」2016年7月【No.157】

標題に掲げましたのは難しい漢字ですが、「跼蹐(きょくせき)の情」と読みます。中国六朝の梁の武帝の長子である昭明太子の編纂した『文選』には、「高天に跼(せぐぐま)り、厚地に蹐(ぬきあし)す」(張衡「東京賦」)という句が見えますが、『禅林句集』などに載っているのはこちらの方です。

しかしもともとこの「跼蹐」という語は、五経のひとつである『詩経』の「小雅」という、周の朝廷の賀歌を収録した篇にある「正月」という詩中の句で、そこでは、「天蓋(けだ)し高しと謂えども、あえて跼(せぐくま)らずんばあらず、地蓋し厚しといえども蹐(ぬきあし)せずんばあらず」(大空は高いけれども,背をかがめて行かねばならない。大地は厚いけれども、足音を立てぬように抜き足して歩かねばならない)と、君子平生の万事に慎み深い様子を形容する言葉として使われております。

剣禅書の達人である山岡鉄舟居士と親交のあった南隠全愚老師(天保五年~明治三十七年)(1834—1904)は東京文京区に白山道場を建立されて坐禅指導をされた名僧です。或るとき、真夏のこととて蚊帳を使用しておられた老師が、その蚊帳をお顔すれすれになるほど低く釣り下げておられたのを見て、隠侍が「どうしてそんな窮屈なことをされずに、もっと上の方まで上げられないのですか」と不審に思って尋ねると、南隠老師は、『「天蓋し高しと謂えども、あえて跼らずんばあらず、地蓋し厚しといえども蹐せずんばあらず」という言葉をお前は知らんのか』とたしなめられたということです。

今どきの禅修行などしたことのない若者からすれれば、一笑に付すような逸話かも知れませんが、明治の中頃生まれの名僧方の薫陶を受けた私たちから見れば、この南隠老師のお言葉はまことに身の毛もよだつような有り難さが感じられるのです。南隠老師はまたお風呂などには入られずに、ただ湯桶一杯のお湯でお身体をぬぐわれるだけであったと伝えられております。

先月のコラムで言及しました『雛僧要訓』には、相国寺の名僧・大典(梅荘顕常)禅師(享保四年—享和元年)(1719−1801)のご垂戒として、「福を慎むべきこと」を述べられ、「我等従来過分に福を消(しょう)し来たることを恥ずべし、畏るべし」と力説しておられます(十六丁表)が、まさしく上述の南隠老師の気高い行履(あんり)は「福を慎むべきこと」の実践躬行です。

『雛僧要訓』や『論語』や『近世禅林僧宝伝』などを一緒に勉強している青年たちに、「福を慎むべきこと」の実例として南隠老師の逸話を披瀝し、「高天に跼(せぐぐま)り、厚地に蹐(ぬきあし)す」という句を伝えましたが、それを肝に銘じて行うのは一朝一夕では不可能です。

この言葉を伝えたあとで、ワゴン車で外出した際に、若い学生さん三人が雑談を始めたのです。しばらく聞いておりましたが、これは聞き捨てならぬと思い、「君たちはわしと一緒に車に乗っていて、そのような雑談をすることは慎まねばいかんではないか。『雛僧要訓』を読んだばかりなのに、そんなことでどうするのか。気を抜いているからそうなるのだ」とその場で叱責した次第です。同様の忠告を何人もの若者にしたのは、これで三度目になります。このように高僧の優れた行いを学んでも,それを我が物とすることはなかなか困難です。まさしく「高天に跼(せぐぐま)り、厚地に蹐(ぬきあし)す」という心持ちで常日頃を過ごす必要を感じます。

最後に、菅原道真公が太宰府に左遷された折りに詠まれた「門を出でず」と題された漢詩をご紹介致しましょう。そこには道真公の慎ましやかな「跼蹐の情」が如実に言い表されております。

「一たび謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就きしより、万死兢兢(きょうきょう)たり跼蹐の情、都府楼わずかに瓦色を看、観音寺ただ鐘声を聴くのみ」
(ひとたび罪を科せられてこの太宰府に左遷され、このあばら屋に住むようになって以来、わが身に着せられた万死に当る罪に畏れおののき、身の縮まるかのような思いで、少しも外出する気にもなれず、太宰府官庁の楼閣はわずかに瓦の色を見ているだけで行ったこともなく、観音寺はただ鐘の声を聴くだけで訪ねたこともない。)

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