「随処に楽しむ」2014年9月【No.135】

先般ご招待を受けて或る書家の方の回顧展に伺った。心が洗われるような闊達自在ですばらしい書で非常に感銘を受けたが、その中で「揮毫忘我」と「随處楽」という二句が心に残った。読みは「毫(ふで)を揮(ふる)うに我を忘ず」「随処に楽しむ」でよいかと思われる。それは半切や茶掛けや屏風などのように、著名な古人の語句からの引用というのではなく、おそらくはこの卓越した書家の方自身の境地を自らの言葉で言い表したものだと推測された。

筆を手にして書をかくことで我を忘ずるということと、どこにあってもいかなる状況でも「楽しむ」という境地を保持できるということとは連関することであろう。自我に執着し、我見我慢をたくましくしている人は、眼が外にばかり向いて自分の周りのことが気にかかり、常に不平不満を感じたり、他人のことを悪しざまにいうことになりがちである。そうした根本姿勢を変えない限り、心の安らぎや安楽の境地を手に入れることは難しいことになる。

禅宗史上最大の八十四人ともいわれる嗣法の弟子を打ち出した中国唐代の名僧である馬祖道一禅師の示衆に「色の空なるを知るが故に、生は即ち不生なり。若し此の意を了せば、乃ち時に随いて著衣喫飯し、聖胎を長養して、任運に時を過すべし。更に何事か有らん。」とある。空や無我の境地を体得すれば、あとはただ任運自在に時を過ごせばよいという。「任運」とは自然のまま、法が自ずから運び動くに任せてなんらの造作や思慮分別を加えないことである。

越後の良寛和尚が「任運騰騰(とうとう)」という語を好んで漢詩などに使用したことは良く知られている。すでに玉島の円通寺の国仙禅師が十一年修行した良寛和尚への印可の偈頌の中で、「良也如愚道転寛、騰騰任運得誰看」(良や、愚の如く道転【うた】た寛し、騰騰任運、誰か看るを得ん)と述べておられるのは、さすがに良寛和尚の境地の真髄を喝破したものと感心せざるを得ない。
任運騰騰の境涯とはまた「大愚」の境地である。このホームページの「大愚のすすめ」にある良寛さんの「起き上がり小法師」と題する漢詩を想起して頂きたい。
「 人の投げるにまかせ、人の笑うにまかす。さらに一物の心地に当たる無し。語を寄す、人生もし君に似たらば、よく世間に遊ぶに何事か有らん」( 玩具のダルマは人に投げられても投げられたまんま、笑われても笑われたまんまで、それに対して何らの感情や妄想を起さない。もし我々人間も君のような生き方ができるならば、人生を暮らすのに何の苦労もないであろうに。)

最初に述べた書家の方は晩年には脳溢血のために半身不随になられたというが、揮毫して我を忘じて、随処に楽しむ極意を身につけておられた方であるから、おそらくはその苦境にあっても「日々是好日」の充実した晩年を送られたに相違なかろうと拝察するのである。

われわれもまた眼前のものごとに成り切って我が身を忘じて、任運騰騰」とした楽しみの日々を享受したいものである。

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