新年のコラム「是什麽」2022年01月【No.222】

新年明けましておめでとうございます。昨年後半からコロナ禍がだいぶ下火になり安堵していましたら、またもやオミクロン株の感染拡大で、第6波の到来が危惧されるようになってきております。特に欧米では一日の感染者が過去最大になったということで、このままでは一体いつになったらコロナが収束するか、一向に先が見えません。しかし、そうした状況の中で、何とか日々充実して過ごす手立てを見つけることも、大切なことのように思えます。

 拙寺の光雲寺では下宿している5人の学生さんたちが年末年始に帰省し、お寺には二人の住人しかおりません。そこで普段は朝の6時半から8時までしていた掃き掃除と草引きなどの作務(さむ)を、日が昇って明るくなり、また暖かくなってからに変更することに致しました。このようにすると、氷点下前後の凍てついた中でヘッドランプをつけながらする作業よりもはるかに捗(はかど)りますし、落ち葉などもよく見えるので、身体もリズムに乗り、ますます充実感が増してまいります。

 禅宗では、中国唐代の名僧・百丈懐海(えかい)禅師の有名な「一日作(な)さざれば、一日食らわず」という言葉に言い表されているように、作務をして清浄伽藍(しょうじょうがらん)を維持することが当然のように伝統として行われております。それが期せずして参詣来訪する人々の心を清めるということにもなるかと思います。小衲(しょうのう、私の意)も管長に就任したからといって、日々の作務を欠かすわけには参りません。それどころか、率先垂範の気持ちをもって以前よりも熱心に作務に取り組むようになって、一層の体調の良さを覚えます。とはいえ、禅僧は掃き掃除や草引きをしていても、ただ単にそれをするだけではなく、工夫三昧を続けながらの毎日です。

 今月の標題に掲げました「是什麽(これなんぞ)」という言葉は、よく茶掛けの軸物などで、一円相の贊として使われることが多いのですが、私はこの言葉を、「即今ものを見たり聞いたりしている自分の本性はどのようなものか」という自問自答の言葉として使っております。禅の最も基本的な無字の公案(禅の問題)に取り組む参禅者に対しては、「無―と無字三昧の工夫をする自分は何ものか」と疑団を起こして取り組むようにと注意しております。禅では自分の頭に火が点(つ)いたのを消すくらいに真剣に工夫に取り組めと申しますが、本当に目の色を変えて工夫三昧に没頭する人は極めて稀です。

 先月のコラムで言及いたしました澤水禅師は、「大疑情を起こして工夫をすれば、悟道見性に到達するのに時間や歳月がかるはずがない。・・・一夜でも悟ることができ、1,2時間でも悟ることができるであろう。」と述べておられます。

皆さん方もいささかの分別知解(ふんべつちげ)も加えることなく鈍工夫して、痛快な境地を体験されませんか?

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