禅の「無の境地」に対する誤解について2013年7月【No.121】
先月の中旬くらいのことである。たまたまつけたBSプレミアムの「英雄たちの選択」という番組で、「勝海舟の秘策 江戸城無血開城への道」ということをテーマにして放映していた。以前から関心のあるテーマでもあったのでしばらく見ていたところ、何人かの識者の相手をしていた司会者の磯田道史(いそだみちふみ)氏が、勝海舟、西郷隆盛、山岡鉄舟という江戸城無血開城を実現した三人の共通点として、「この三人はいずれも禅に造詣が深かった。ということは何もかも無くなってもいいという虚無主義に陥りかねない危険性があった」と自説を述べたので、唖然としてしまった。さらにあきれたのは、この浅薄な見解に対して出席者の誰からも何の反論も出なかった点である。
磯田道史氏といえば、茨城大学准教授で日本史の専門家であり、『武士の家計簿』、『日本人の叡智』など巷(ちまた)では評判のよい著者で、江戸時代の三人の人物をテーマにした『無私の日本人』という著作もある人である。日本の歴史を通じて「禅」は明らかに大きな潮流のひとつであり、専門家ならば知識の上でなりとも的確な把握が必要なことはいうまでもあるまい。氏はたとえば、天龍寺の滴水禅師のもとで大悟徹底し、「剣・禅・書の達人」といわれる山岡鉄舟の行跡を綿密に学んだことがあるのか。悟境が虚無の境地であるなどと聞けば、少し禅の修行をした人、いな、少し禅をかじった人なら、誰しも失笑するであろう。
禅でいわれる「無」や「空」を有無の無であるとか虚無であるなどと受け取るのは、その本人が分別的理解しかできず、しかも自らは穴のぞきしたこともない禅的体験に対する謙虚さが足りないことが見て取れるではないか。禅の代表的な公案集である『無門関』の「第一則 趙州無字」の評唱では、「無字」の公案に関して無門慧開禅師が「昼夜提撕(ていぜい)して虚無の会(え)を作(な)すこと莫れ、有無の会を作すこと莫れ」と分別的受け取り方を厳に戒めておられる。
そもそももし禅が氏の言うように「虚無主義」を主眼とするものであったなら、海舟・南洲・鉄舟という三人の偉大な人物が信奉して、その修行に邁進したであろうか。
それでは「無の境地」とはいかなるものであろうか。それに関しては著者のこのホームページで色々と述べてあるので、それをご覧頂ければ幸いである。ただ次の箇所を特に引用させて頂こう。
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それは誠に摩訶不思議な状態である。長い間殆んど寝ていなくても、何ら疲れを感じることがないばかりか、全身に気が充実して八面玲瓏(れいろう)になり、自分の周りの事象も全て透徹して来るのである。外から見れば、疲労困憊(こんぱい)して憔悴しているように見えもするであろうが、当の本人は充実と法悦の極みである。
そして時を忘れて心を一点に集中してすべてを空じ尽くしているうちに、時節因縁が純熟して、何かの機縁に触れて「無の自己」が徹見できるのである。これを「見性」(自性徹見)という。
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ただ一人でも多くの人がご自分で工夫して真実の「無の境地」を体得して頂きたいと念願するのみである。