「薫風、南より来たる」2013年4月【No.118】
よく禅僧の茶掛けなどに見られる句に「薫風自南来、殿閣生微涼」(薫風、南より来たり、殿閣、微涼を生ず)という有名な句がある。春から初夏の光景と思われるが、この対句はもともと唐代の文宗皇帝が作った起承の二句である「人皆苦炎熱、我愛夏日長」(人は皆炎熱に苦しむ、我は愛す、夏日の長きことを)に対して文人の柳公権が転結としてつけた語である。一般の人が苦悩するようなことでも、わが身の心がけと受け取り次第では楽しんで受け容れることができるというのは、われわれも日常よく見聞するところである。
小衲が住職を拝命している光雲寺では、去る2月、3月と続けて90歳のご婦人が逝去された。お二人ともお寺のために何かとお力添えを頂いた方で、まことに痛恨の極みであった。3月末に亡くなられたご婦人は盆暮れのご挨拶に添えていつも達筆でご鄭重なお便りを寄こされた。ご主人を見送られてから丹波篠山の市街地で独り暮らしをされていたが、60歳を過ぎてからコーラス一筋に打ち込まれたという。コーラスといっても民謡のようなものではなく、ベートーベンの第九の合唱という本格的なものであり、しかも最優秀賞をお受け取りになったほどの出来映えであったということをお聞きして、感服した次第である。
葬儀の当日は合唱団の人たちがエレクトーンの生演奏で、棺を取り囲んで「兎追いし彼の山、小ぶな釣りし彼の川」と唱歌である「故郷」を心をこめて歌い、実に大勢の人たちがお別れを惜しまれたのは、故人の遺徳であろう。逝去されたご婦人はご主人亡き後の人生を決して悲観することなく、まさしく「人は皆炎熱に苦しむ、我は愛す、夏日の長きことを」を実践しておられたといえよう。
また2月上旬に亡くなられたご婦人は長らく檀家総代の一員としてお寺のために色々とご尽力を頂いた方である。お電話をするたびに心地よいほどのはきはきした声で話されるので、いつも何かすがすがしい気持ちにさせて頂いた。総代会議の後で弟子にお宅まで車でお送りさせた際には、ご自分で折られた折り鶴や宝船などを弟子に進呈して頂いたものである。このお方もご主人を亡くされてから、「一緒に住みましょう」という娘さんたちからの勧誘を断られ、「娘には迷惑を掛けたくない」といって、独り暮らしを続けられたのである。ご長女が作られた「御会葬御礼」を拝見して、なるほどやはりそういう方であったのかと醍醐を飲む思いがしたので、ご承諾を得て、以下に転載させて頂くことにする。
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「我が家における太陽のような存在だった母を偲んで」
人と話をするのが大好きで、初対面の方ともすぐに仲良くなれる母は、家族だけでなく周りの皆様からも親しまれてきました。長年連れ添った伴侶を亡くした後、その胸には寂しさを抱えていたことでしょう。
それでも前向きな気持ちで日々を過ごし、食事の支度や掃除、洗濯など身の回りのことを可能な限り自分でする姿に、頭の下がる思いがしたものです。一方で家族に迷惑をかけまいとしているようにも見え、いくつになってもしっかり者の性分は変わらぬままでした。子ども好きでもありましたので、大きくなった孫や可愛いひ孫が会いに来てくれるのを心待ちにしながら過ごしていた光景もほほえましく思い出されます。・・・・
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この檀家総代のご婦人に関して小衲が実に感心したのは、京都の或る名のある茶道流派のお家元代理までされるほど抹茶のお手前に造詣が深かったにもかかわらず、抹茶茶碗をご覧になっても抹茶をお出ししても長年にわたり一言たりとも蘊蓄を披瀝されなかったことである。そのため亡くなられてからご長女にそのことを伺って初めて、それほど茶道を究められたお方であったのかと知った次第である。えてして自分の見識や経歴を吹聴したいのが人の世の常であるが、一言も洩らされなかったこの方は、よほど円熟した人格であられたのであろうと往事を偲ぶことしきりである。
小衲にとってはこれらのご婦人方の存在がまさしく「薫り高き春風が南の方より吹いてきて、部屋中に清涼感が満ち満ちる」思いがする。それというのもこの方たちが苦境を苦境として受け取らずに、「転じて福となす」を臨機応変に実践されていたからであろう。わたしたちもお互いこうした前向きな人生を送り日々を楽しんで過ごしたいものである。