「公案工夫の妙味」2014年12月【No.138】

先月のコラムに、最近の雲衲の道心低下の克服について、道心を養うこと、法理会得の必要性、公案工夫の実践について言及させて頂いた。公案工夫に関しては、高峰原妙禅師のような勇猛心を奮い立たすことができれば申し分はないのであるが、なかなか最初からそのような気概を持つことができないという人は多いであろう。

そもそも公案とは「公府の安牘(あんとく)」の略といわれ、私情を容れることなく遵守すべき公(おおやけ)の法則条文を意味しており、転じて学人が分別を放下し身命を賭して参究すべき禅の真実である。もとより本来は修行者が自分自身で見出すべきそのような問題を師家の方から与えられるのは、人為的作為的であるのはいうをまたない。

禅も当初は「自然孵化」が一般的であった。例えば、臨済禅師が黄檗禅師のもとで、三たび仏法的的の大意を問うて三たび黄檗禅師に痛棒を喫することにより、黒漫漫地の大疑団に遭遇して遂には大愚禅師の「黄檗は何と老婆親切な奴だ」という一句を聴いて言下に大悟し、「元来黄檗の仏法多子無し」と思わず叫んだが如きは、典型的理想的な「自然孵化」的修行過程である。

しかし時代が下り、学人の機根が低下した結果、学人自らの自然的純熟を待っていたのでは多くの者を済度することが難しくなったので、古人開悟の機縁を「公案」として与えることにより、多くの学人が見性する途を開いたことは確かである。とはいえ、近世にあっても、正受老人のように、若年で「お前の胸の中には生きた観音様がおる」といわれて満身疑団になった挙げ句の果てに、ついに階段から落ちた途端に「胸の内なる生きた観音様」にお目見えした例や、また盤珪禅師のように「大学の道は明徳を明らめるにあり」という一句を知って即座に疑団を起こして、この難問を解決するために十三年間にわたって命を削ってようやく「不生の仏心で一切がととのう」ことを悟った例などは、理想的な修行過程であり、できるならばそのような仕方で眼を開くことができれば、それに越したことはない。

しかし公案という「古ほうぐ」(盤珪禅師)を用いて人為的工夫をしたとしても、白隠禅師を初めとして、幾多の名僧のようにずば抜けた境涯に至ることができるということもまた事実である。公案工夫の醍醐味や恩力を知れば、その批判をする気にはならぬものである。

最近、小衲の主宰する月例坐禅会の参加者で工夫が次第に佳境に入ってきている人が何人かいる。その一人は、気張らずに楽しみながら四六時中公案工夫に邁進するようにという小衲の忠告を守って、「最近は歩いていても乗り物に乗っていても、頑張ってというよりも気持ちよく楽しんで公案工夫をおこなっております」とメールで報告して来られた。また今一人の人は「公案工夫は命懸けのことと思っております。無字の公案に取り組ませていただける縁を頂戴したことに感謝の日々です」と連絡してこられたが、この言葉を拝見するだけで真剣に公案工夫しておられることがよく分かる。

公案工夫も極処に至れば、単に「楽しみながら」をいうことを越えて、それこそ目の色を変えて決死の覚悟で真剣にならねばならない。しかしその真剣な工夫がそのままでえも言えぬ法悦の時節であることも動かしがたい体験である。公案工夫のこの妙味、醍醐味をひとりでも多くの人が味わって頂きたいものである。

月刊コラム(毎月更新)

楽道庵住職ブログ

facebook

臨済宗大本山南禅寺

× 閉じる