「作務の法悦」2015年1月【No.139】

新年明けましておめでとうございます。本年が皆様方にとりまして良いお年であることを心からご祈念申し上げます。

この光雲寺では昨年11月21日から12月7日までの18日間、京都市観光協会の協賛により4年ぶりの特別拝観を行いました。期間中は総計で4500人ほどの方々が来訪されました。この場を借りまして篤く御礼申し上げます。ことに関東などの遠方から、「この光雲寺の拝観だけを目的に京都にやって来ました」といって見えられた方が何人もおられたのは、とても有難く感じた次第です。これも光雲寺をご自分の菩提寺として再興された東福門院様(後水尾天皇の皇后、徳川二代将軍秀忠公ご息女)の遺徳のしからしむるところでしょう。伝運慶作の「聖観音像」を初め、東福門院ゆかりの寺宝が陳列の中心を占めたからです。

光雲寺の庭園は小規模ながら疎水からの流れを取り入れた、七代目小川治兵衛(「植治」)作の「京都市指定の名勝庭園」です。半年前くらいから、庭師さんに頼んで杉苔の補充などの庭園整備をしてもらったお蔭で、秋の拝観の頃には植えた杉苔も庭になじんで自然な趣きになりました。とはいえ、紅葉も日が経つにつれて次第に落葉の度合いが増してきます。早朝の日々の掃き掃除は欠かすことはできません。

掃き掃除といいましても、何でもかんでも綺麗に掃けばよいというものでもありません。利休居士が落ち葉ひとつないほどに掃き清められた庭を見て、弟子に「駄目だ」といって木を揺すって枯れ葉を落としたという話はあまりにも有名です。葉っぱ一枚もないほどに綺麗に掃かれた庭よりも、多少の落ち葉があった方が風情があるというものです。今回の特別拝観中でもその感を深くしました。

しかしそうはいっても晩秋にもなると落ち葉は次から次へと増えていきます。一般の方は毎日落ち葉を掃くという経験をされた人は少ないかと思います。小衲が粥座(朝食)後の早朝に柴犬二匹を連れて下宿中の学生さんと一緒に散歩する途上で、いつもご近所の道路を自発的に掃き掃除をしているご婦人がおられます。風の強い日などは落ち葉が一杯で「大変ですね、ご苦労さんです」と自然にお声をかけます。この方にこのたびの光雲寺拝観のご招待券を差し上げると、とても喜ばれました。やはり自発的にそういう功徳を積む方はお顔の骨相が円満でふくよかで、潤いがあります。そうしたお顔をされながら掃除をされて、ご近所の方々の心をも同時に清められるとすれば、これは素晴らしい徳行になるのではないでしょうか。

これに反して、よく世間で見聞するのは、何かにつけて自己主張ばかりが目立ち、物事をとかく否定的に考える人です。そういう人はいつも不満を胸の内に抱いて心安らかな日はないことでしょう。問題があればすぐに他人のせいにしがちで、外見もギスギスした容貌になるのではないでしょうか。「自分に対しては厳しく、他人に対しては寛容に」が実践できれば申し分ないのでしょうが、それはいうべくしてなかなかできることではありません。

しかし強風で一杯になった落ち葉を掃きながら、「どうしてこんな落ち葉を掃かなければいけないんだ」などという不平不満の念をいささかももつことなく、かえって「落ち葉のお蔭で作務ができ、健康増進にもなる。ありがたいことだ」と感謝の気持ちをもつならば、作務の時間が楽しみの時間になるはずです。

禅ではなおその上に「公案」というものがあります。四六時中寝ても覚めても作務の最中でも、それ三昧になることで余人のうかがい知れない法悦が得られるのです。昨年末に「無字の公案」工夫で歓喜を得て、矢も楯もたまらずにメールをしてこられた女性の坐禅会参加者の方がいます。小衲はこの方に次のように返信致しました。

*   *   *

いよいよ無字の工夫が熟してきましたね!

そうです、それが「法悦」というものです。
私が日頃申し上げていることが嘘偽りでは無いことがお分かりになったでしょう。

しかしそこにも安住せずに、さらに「無ー、無ー」とやっていくと、
もっともっと深い境地が出てきますよ。

たとえ釈迦達磨が眼の前に出現されたとしても、一顧だにせずに
「無ー」と工夫を続けていくのが重要です。

その調子でますます乗りに乗って無字三昧の工夫を続けていって下さい。

*   *   *

皆さんも一度この様な法悦の境地を得たいとは思われませんか。

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