「若者たちの心の荒廃とその打開」2016年2月【No.152】
拙寺に坐禅に通っておられる教職員の人たちから最近うかがって、本当に驚いたことがあります。今どきの小学校などでは、授業中に窓から出入りしたり、ゴミ箱を蹴飛ばしたり、子供たちの好き勝手し放題が蔓延しており、ベテランの先生方も如何ともし難いほどの荒れようの学校があるそうです。これも道徳などの「徳育」をおざなりにした戦後の自由放任主義的教育の当然の帰結であるとは言えないでしょうか。
学校教育ばかりではなく、家庭でもそうです。親子が友だち感覚で暮らしていて、昔のように両親が子供を厳格にしつけている家庭はあまり見かけなくなりました。その結果として、禅の修行道場ですらも、以前では考えられないくらいの勝手気ままな振る舞いをする雲水もいるという話をよく聞きます。まことに嘆かわしい時代になったものです。
ただこうした状況に対処するには、問題のある生徒をただ単に頭ごなしに否定するのではなく、彼らがそういう行動に走らざるを得ない理由を胸襟を開いて理解してあげ、もっと楽しく充実して他人からも悦ばれる生き方があるということを教えてあげることが大切なのではないでしょうか。これまで家庭でも学校でも生き方の規範を教わってこなかったがために、若者たちはどのように生きるべきかが分からなくなっているのではないでしょうか。
拙寺は本山からの委託のもと、「南禅寺禅センター」という看板を掲げて年間一万五千人以上の坐禅研修者を受け容れておりますが、その多くは修学旅行の生徒さんたちです。小衲が現今の小学校の悲惨な状況を聞いて心から驚いたのは、これまでの小学校・中学校・高等学校などの生徒さんたちの坐禅指導をしてきた経験からは、そのような気配は生徒さんたちからいささかも見て取れなかったからです。荒れた生徒さんたちを相手にしている先生方は、逆に生徒さんたちがそのように規律正しく坐禅研修を行うということに驚きを禁じ得ないようです。
坐禅研修の法話で、禅寺の修行体験などを話すと、全員が眼を耀かせてこちらの方を見ます。彼らも自分たちの生き方を模索して、「どのように生きたらいいのか」を知りたいと求めているように感じます。現在は一流大学に在籍しているものの、小学生の時には0点を取るほど荒れていた学生さんに、当時の心の状況を聞きますと、「勉強するということが一体どんな意味があるのかということが分からなかったので」という答えが返ってきました。彼は「好成績をとるようになってからも、その解答がなかなか見つかりませんでした」と述懐しています。
その答えを得るための一つの方法は「温故知新」です。優れた先人が歩んだ人生の軌跡を謙虚に学ぶことです。最近、江戸時代中期の神澤杜口(かんざわとこう)の『翁草』について聞いてこられる人があり、色々と読み返しました。原著そのものは非常に大部のものですが、参考文献としては立川昭二著『足るを知る生き方 神澤杜口「翁草」に学ぶ』という本が優れているように思われます。杜口を「人生の達人」として敬慕する立川氏は、丹念に『翁草』を読んでそこから杜口の心のひだに触れるような達意の文章をものされています。是非一読をお勧めしたい本です。
杜口は「若い頃から養生をもっぱらにすべきである」といい、殊に内面の病に関しては、「思の一字さえ工夫すれば、煩うことはない」といっています。「気を養うのを養生の第一とする」という杜口は、「すべての人は物に深く執着するがために気が休まる暇がなく、そこから色んな病や災いが起こる」と指摘して、気を養うためには何よりも物事に執着しないことを力説していますが、これはまさしく私たちが禅の修行において常日頃生徒さんたちに対して申し上げていることです。
私たちは通常は外にばかり目を向けているから、色んな喜怒哀楽の感情を起こし、それにとらわれます。そしてそれが悩み苦しみのもとになります。ところが真剣に数息観なり随息観なり公案工夫なりをしてみると、まわりの物事がまったく気にかからず、八面玲瓏の心境になってきます。自分の心境などを他人に対して自慢げに話す人がありますが、それもまた執着に他なりません。本当に呆(ほう)けて、人様に馬鹿にされるくらいの、良寛さんのような「大愚」の境涯が望ましく思われます。
明治天皇が元田永孚(もとだながざね)に命じて編纂させられたわが国最初の修身の書というべき『幼学綱要』という本があります。「人として生きる道」に関して色々と大切なことが述べられています。
若者たちが生き方の指針を見つけるための一助となるかと思い、前述の先生方と共に現代語訳を校正する予定です。暗中模索してもがき苦しんでいる生徒さんたちが、一人でも多く光明を見つけられるようにしてあげたいものです。