「無字三昧の法悦」2019年11月【No.196】

小衲は月例坐禅会を始めてもう三十年以上になるかと思います。その間、多くの人たちの参禅を聞いて参りましたが、なかなか本当の三昧境に入れる人は現れません。僧堂での修行生活をして専門にそのこと一筋に打ち込んでいるはずの雲衲でも、真箇の禅定に入れる人はごく稀なのですから、それも無理からぬことでしょう。しかし在家の居士・大姉の方でも常日頃真剣に工夫に心がければ、三昧境の法悦を得ることは可能です。小衲の経験から申せば、決して難しいことではないと断言できます。小衲の坐禅会でも無字の工夫によって法悦のメールを送って来られる人もおられます。坐禅会のメンバーの方が次第に工夫の醍醐味を体得されていくのを知るのは、実に嬉しく楽しみなことです。

中でも米人哲学者のリチャード・カーター氏は七十五歳を越えた高齢でありながら、しかも足に故障を抱えて正規の坐禅はできず、やむを得ず椅子坐禅をされていました。そして坐禅会には参加することなく自宅で工夫三昧の日々を送られ、米国に帰国してからも工夫に没頭された結果、遂には三昧境の法悦に到達されました。小衲は「悦峰(The Peak of Joy)」の居士号を授けたことです。氏からは何度法悦のメールを受け取ったことでしょう。明日が大手術の日であるというのに、氏は手術に対する不安など一言も漏らされず、わが身が体験した法悦の歓喜に満ちあふれたメールが送られてきたので、受け取った小衲も感激一入でした。氏の真摯な人柄が脇目も振らずに真っ正直な工夫に邁進される基(もとい)になったものと思われます。八十三歳で亡くなられた後、ご子息から「光雲寺の永代供養塔に入れて欲しいというのが、父の遺言でした」という連絡がありました。

在家の居士で大悟徹底された方としては、京都大学教育学部名誉教授であられた片岡仁志先生がおられます。北海道帝国大学時代に肺結核に罹患されながら、病院のベッドの上で坐禅三昧に打ち込まれて弱冠二十歳で見性(お悟り)されたのです。その後、京都帝大の西田幾多郎博士の元で哲学を学ばれながら、相国寺僧堂に通参され、後には僧堂の侍者寮に住んで、雲水や居士・大姉達の「縁の下の力持ち」となられた稀有なお方です。小衲よりも四十五歳以上年長の明治35年(1902)生まれの片岡先生とお話ししているときは、いつも共に三昧境に入っていく思いがしたものでした。先生は生涯独身を貫かれましたが、その高邁な御生涯は在家の方でもこれほど禅修行に徹底できるという好模範ともいうべきものでした。

 とはいえ、「無字三昧の法悦」などといっても、禅修行をしたことがない一般の方々にとっては何のことやらお分かりにならないと思います。禅の臨済宗では、初心のうちは師家に参禅せずに、丹田呼吸をしながら呼吸を一から十まで数えることに専念する数息観や、数えることなく呼吸にひたすら集中する随息観を行い、習熟してくれば、「公案」と称する古人の悟りの機縁にひたすら集中して、それ三昧になることによって、自性徹見(見性)することを目指します。参禅の際に師家に最初に与えられる「初関」と称する典型的公案が、「趙州無字」の公案です。これは百二十歳まで長命された中国唐代の名僧・趙州禅師に或る僧が、「狗子(くし)にかえって仏性ありや、また無しや」と尋ねたのに対して、趙州禅師が「無」と答えられたという問答です。「無字の公案工夫」というのは、この「無」を頭でとやかく分別することなく、「無―、無−」とひたすらなり切ることにより自己を空ずる三昧境に入ることを主眼と致します。南禅寺の管長になられた南針軒・河野霧海老師は真箇の修行に邁進された名僧ですが、「無−、無―と明けても暮れてもやるがいい」と垂訓されております。

 臨済宗では「公案の調べ」というものがあり、近年では初関を徹底すること無しに、公案の数を数えるだけの修行に堕している傾向があるようです。徹底していない修行者に対して、いとも簡単に最初の関門透過を許すとすれば、それは不親切といわざるを得ないでしょう。無門慧開禅師や無学祖元禅師はいずれも無字の初関に六年もの間、心血を注(そそ)がれたことを忘れるわけには参りません。先述の片岡先生も「公案は無字ひとつで足りる」と明言されていましたし、江戸時代初期の名僧・澤水長茂禅師も「公案は一則を徹底すべきである」と力説されております。

 ただ昨今は禅修行の醍醐味を満喫しようとわが身を賭してこの道に邁進する若者が地を払っていなくなってしまったように思えるのは、まことに「この道、今人捨てて土の如し」ともいうべき危機的状況と申しても過言ではありません。南禅寺開山・大明国師(無関普門禅師)は八百年以上も前に生まれられた方ですが、七歳からお寺での修行生活を始めて十三歳で得度され、四十歳まで日本国内で修行された後、中国に渡られ、十年以上の修行を積まれた後、七十歳で初めてお寺に住山された方です。僧堂での修行生活を一刻でも早く切り上げ、お寺の住職にすぐになりたがる昨今の雲水とは雲泥の差があります。願わくは、一人でも二人でも、「無字三昧の法悦」の佳境を体得するために一身を擲ってこの道に進む、道心ある若者の出現を大法のために切に期待するものです。

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