「禅の修行と体験(2)」2021年06月【No.215】
コロナ感染がなかなか収まりそうもありません。特に変異ウイルス感染によって、近畿では、大阪を初め、兵庫と京都で感染が急拡大したのは、ご存知の通りです。そして緊急事態宣言も6月20日まで延長されることとなりました。こうした状況が続けば、規制により甚大な影響を受ける職種に従事しておられる人々はもとより、一般の人たちも日常生活に活気や潤(うるお)いがなくなるのも無理からぬことかも知れません。しかしこうした苦境のときでも、自分のまわりにささやかな喜びや楽しみを見いだして行くことは大切なことではないでしょうか。
拙寺である光雲寺では下宿している学生さんたちと、連日の掃き掃除のあとで、草引きや畑作りなどの作務(さむ)をします。身体を動かすのは健康増進にもなりますし、お寺の内外も清浄(しょうじょう)になるので、気持ちの良いものです。農薬や除草剤などを一切使わない生活ですから、琵琶湖疏水の流れに乗って、蛍の餌となるタニシ、カワニナ、瀬田しじみなどが増えて、それに伴い、夕闇が迫ると、蛍がそこかしこに乱舞して、桃源郷を現出してくれます。緊急事態宣言で閉塞感のある日常からの気分転換を求めて、何人もの人たちが蛍見物に来られます。ただ、コロナ感染には細心の注意を払いながらであることは申すまでもありません。
さて、「禅の修行と体験」についてですが、西田先生が透過された「無字の公案」についてお話いたしましょう。この公案は、中国唐代の120歳まで長命された名僧・趙州(じょうしゅう)和尚に対して、ある僧が、「犬に仏性(ぶっしょう)がありますか」とたずねたのに対して、趙州和尚が「無」と答えたという問答です。この「無」をどのように工夫して体得するかというのが主眼となるのですが、これは禅の修行のもっとも基本的な、したがってまた、もっとも重要な公案と見なされております。
釈尊(お釈迦様)が12月8日の明けの明星(金星)をご覧になって、「奇なるかな奇なるかな、一切衆生ことごとく如来の智慧徳相を具有す」(不思議なことだ、不思議なことだ、すべての生きとし生けるものは、ことごとく如来の智慧徳相をそなえている)と断言されている以上、犬にも仏性があるのは言うまでもないことです。それなのに、どうして趙州和尚「無」と答えたのでしょうか。
肝心なことは、有無の分別を入れることなく、ただひたすら「無―」と無字三昧になり切ることです。しかしそうは言っても、よほど真剣に工夫しなければ、真の三昧境に入ることは至難のわざです。この公案工夫に関して、南禅寺の管長や僧堂師家を勤められた南針軒・河野霧海老師(元治元年—昭和十年、1863−1935)は次のように述べておられます(『壷庵余滴』)。
「皆もなぁ、一生懸命やっているつもりかも知れないが、わしの目から見るとサッパリなっとらん。ええ、容易なことでこの一大事がいけると思うのが間違いですぜ。わしもなぁ、若いときに釈迦達磨以来おれほど骨を折ったものがあるかと嘆かれるほど骨折ったが、それでもこればかりは中々いけなんだ。」
「コレ初心な人、よく聞いときなさい。皆いっかど骨折ってやっとるつもりでいるかも知れんがなぁ、真乎(しんこ)に自分がそう成るまでやらんからどうにも仕様がない。無字一枚、無字一枚(公案三昧)と口ではいうがな、本当にそうなっとらんじゃないか。真乎に『大地寸土無し』というまでやれさ。おれもよう忘れんが、凍てついた冬のことじゃった。歩いとると何もありゃせん、自分もなけりゃ歩くということもありゃせん、まして道も池もあるはずがない。見れども見えず聞けども聞こえずじゃ。知らんうちにザブザブザブと虎渓の臥龍池の中へ歩いて行ってしまったが、しかし自分ではそれがまだ解らん。後の方で誰かワイワイいうて、どこへ行くどこへ行く、早うこの竿(さお)の先につかまれ、と騒いでいる声にハッと我に返ってみると、池の中にいるではないか。やっと竿の先につかまって皆に引っ張り出してもらったことがあったが。ええ、皆どうじゃ。そこまで行ったらもう気づくもつかぬもない、自分がそのまま無字じゃないか。そこまでやれやれ。そこから出てきた奴じゃなけりゃほんま者じゃァないと思うがいい。」
やはり本当に骨を折られた霧海老師のお話は足実地を踏んでいて、迫力があります。それでは私自身の体験をお話し致しましょう。
看護していた本師の和尚が遷化(せんげ)した後、私は今一度道場に入門して一から修行し直したい気持ちに駆られました。この時分には公案の調べもほとんど済んではいたのですが、さらに徹底を期して坐禅三昧に邁進して禅定を練り上げたいという願いをぬぐい去ることはできなかったのです。そのためには別の道場で新米僧として一から修行するのが一番でした。私はあえて相国寺の宗忍老師のお許しを得て、備前岡山の名刹曹源寺に掛搭しました。
140年前の江戸時代末前後には名僧を輩出して天下第一の道場であった曹源寺は、もはや正規の専門道場ではありませんでしたが、そこを選んだのは、一年に十三回の大摂心があるという理由からと、山田無文老師の法を嗣がれた優秀な老師がおられるというのを伝え聞いたからでした。臨済宗の通常の僧堂では一年に七回というのが普通です。曹洞宗はもっと少ないと聞いております。真の「坐禅三昧」を行じるためにはなるたけ大摂心の数が多い方が良いのは言うまでもないことです。曹源寺で私は文字通り決死の覚悟で坐り抜きました。公案もすでに透過した「無字」の初関を老師にお願いしました。建仁寺時代の後輩が二人ほどすでに来ていたのですが、私は他人のことには目もくれず、自らの工夫の充実だけに心を注いで、四六時中「無、無、無」と工夫し抜くように心がけました。ただひたすら単純な「無」に成り切ることに努めた結果、図らずも昼間に休息したり、夜に横臥したりすることを忘じてしまったのです。そしてほとんどの大摂心のたびごとに、それまで体達した境地を凌駕(りょうが)する禅定に入ることができました。
そうして三ヶ月ほどが過ぎた頃に、私はひどいのど風邪をひいて咳が止まらなくなりました。しかし当の本人は一向に平気で日々の三昧境の充実を心から楽しむ毎日でした。もとより坐禅の最中にも咳は出ましたが、それで禅定が乱れることは決してありませんでした。とはいえやはりこう咳が続いては他の修行者達(その多くは海外からの在家の人達であったが)の迷惑になると思い、早く咳を治そうと思って夜の二時間だけ横寝することにしました。だが結局のところ、咳が続いて睡眠をとることはほとんどできなかったのです。同僚の中には、私が死んでしまうのではないかと危惧した者もあったと聞きましたが、実に不思議なことに、私自身は何等の辛さや疲れを感じることもなく、廻りの世界も八面玲瓏(れいろう)として透徹し、法悦の日々を過ごしていました。
こうして心を「無」の一点に集中して月日を過ごしていた或る日のこと、私はいつものように「ゴホン」と咳をして本当に驚きました。「咳をしている自分が無い」のです。どこをどう探しても自分を見つけようがない。咳を機縁として「身心脱落」して「無の自己」に出くわしたのです。これまで幾度となく禅定に入って「無我」の境地を味わってきたつもりでしたが、この時ばかりは正直言ってびっくり仰天するような体験でした。古人が何かの機縁によって悟られたということが偽りではないことがはっきりと分かったのです。そして初めて、知らないうちに「これほどまでに自我を空じて無我になっていた」自分を自覚したのです。「三昧は三昧を知らず」といいますが、自我の殻は「思わず知らずに」脱落して行くのが本当であり、それがまだ意識できるうちは真の三昧は育っていないと言えます。
現在の臨済宗の室内では、数多くの公案を数えることが普通になっておりますが、もっとも肝要なことは、一則の基本的公案を徹底的に工夫し抜いて、真の三昧境を育てることではないかと、私は考えております。坐禅工夫される方々は、どうか真剣に工夫されて三昧境の法悦を心底味わって頂きたいものです。