「儒教の困学」2021年09月【No.218】
最近読んだ本の中に、儒教における「困学」ということが述べられておりましたので、ご紹介したいと思います。その書物の表題は『古書先賢』といい、近藤啓吾という先生(1921−2017)の書かれたものです。講談社学術文庫の吉田松陰著『講孟箚記(さっき)』の全訳注をされたお方だと言えば、もしかしてご存知の方がおられるかも知れません。近藤先生のご高名は、先生に親炙(しんしゃ)していた友人から、ずいぶん以前に聞いておりました。山崎闇斎(あんさい)の学派の研究に邁進された方です。闇斎の他に、浅見絅斎(けいさい)、若林強斎(きょうさい)に関する大部の優れた研究書を著された方です。
「困学」と題する一文は、山崎闇斎の孫弟子に当たる若林強斎について書かれたものです。戦後になって儒教や儒者に対する関心はますます下降線を辿ったといって良いかと思います。山崎闇斎はともかくも、浅見絅斎や若林強斎の名を知る若い人はほとんどいないのではないかと思います。禅では、「古人刻苦光明必ず盛大なり」という言葉を吐かれた慈明楚圓禅師のように、厳寒の中で横寝せずに股に錐を刺して夜坐に励まれたような骨折りをされた名僧が、幾人もおられます。しかし「困学」を拝読して、儒者の人たちの刻苦精励も尋常ではないことを知りました。
「困学」とはもともと中国の朱子がその住まいに題したもので、「自ら困苦を求め、困苦の中にあって、これに打ち克(か)って学問に励む」という意味です。こうした生き方のもとには、孟子の「天のまさに大任をこの人に降さんとするや、必ずその心志を苦しましむ」という、魂は艱難に耐えて光を発するという思想があると思われます。戦前の日本人にはこの言葉を受け入れるような質実剛健な気風があったように思われます。
浅見絅斎がまだ山崎闇斎に従学していた時、あまりの苦学から血を吐くに至ったのを見て、同門の一人がみかねて、絅斎の病状を述べて、「少し休ませてやって頂けませんでしょうか」というと、闇斎は、「浅見がそういうのか」と尋ねたので、「いや、そうではありませんが」というと、「それでは放っておけ」と応答したと申します。絅斎が病にもめげずにますます勉学に励んだ結果、やがて快復したのを知って、闇斎はかの門人を呼び出して、「浅見は自分の力で治ったではないか。お前は学問する者の気を弱くしようとするのか」と叱責されたそうです。
この家風を引き継いだ絅斎が、門人を鍛練する仕方もいささかの容赦もなかったと申します。若林強斎は20歳頃から10数年もの間、絅斎のもとで学問に励んだのですが、寓居していた大津の微妙寺を早朝に出て京都まで3里の道のりを隔日に風雨や病をものともせずに通いとおしたということです。「もし大津街道で行き倒れの者があれば、必ず自分だと思ってくれ」とは、強斎が当時、友人に語ったところです。勉学に生死を賭けた古人の風格が偲ばれます。家には病父と母や姉を抱え、貧窮の底にあって、わずかにつま楊枝を削って販売し、これを生活費にあてていたということです。さすがの絅斎も、「若林の如き者は真の丈夫というべきものである」と讚(たた)え、「強斎」の号を与えたということです。
近藤啓吾先生によれば、道元禅師の真面目を知らんとすれば、弟子の懐奘(えじょう)の編纂した『正法眼蔵随聞記』をひもとかなければならず、ゲーテの人物を見るには、エッカーマンが忠実に記録した『ゲーテとの対話』があるが、江戸時代の書物で、一人の卓越した人物の平生の言行を忠実に記録し、まさにその人に接する思いあらしめるものは、山口春水がその師である若林強斎の言行を記した『雑話』及び『雑話続録』であろうということです。古書店から取り寄せたこの書物は、和綴じで10冊ある大部のものです。これから秋の夜長に時おり拝読して、優れた古人の風格をじっくりと味わいたいものです。