「君子可八」2022年09月【No.230】
コロナの感染者は次第に減少傾向にありますが、死亡者の数は著しく増加しており、油断はできません。拙寺に住まう学生さんも、外で感染した人が2名出ましたので、土曜の夜坐禅と月2回の月例坐禅会を、少なくとも9月一杯まで休止と致しました。知り合いにも「私も実は感染しました」という人が数多くいるので、驚かされます。20代の若い人でも感染の後遺症がきついという傾向があります。一体いつになったら収束するのか、第8波が来ないことを願うばかりです。
こうした事態の中でも禅宗寺院では草引きなどの作務を怠ることは1日たりともありません。朝のお粥を食べた6時半から8時まで全員で連日草引きをするのですが、何しろお寺の境内は厖大ですから、まさに「猫の手を借りたい」ほど雑草が生えて参ります。もちろんそれ以外の時間でも暇を見てやってはいるのですが、引いた尻から草が生えてきます。考えようによっては、落ち葉や雑草のお蔭でこうして毎日身体を動かして作務をすることができるのは、身体の健康のためにも良いことだと感謝しております。
特に何人もの20代の若者たちと一緒に作務をするのは元気が出ます。私は現在74歳になりますが、除草をしても彼らに引けを取るどころか、少なくとも2倍以上のスピードで行うことができます。彼らの全員がなぜそのように草引きのスピードが遅いのか、私には理解できかねます。自分の持てるエネルギーを集中させることなく草を引くからでしょう。真剣味が足りないように見受けられます。公案工夫をしながら目の色を変え必死になって草引きをすれば、おのずからはかどるはずです。しかもその除草後に点検すれば、驚くほどの引き忘れがあり、始終注意してやり直しをさせております。真剣に仕事をおこなったあとを見れば、「光を放っているのが分かる」というのが修行時代からの私の持論です。
話は変わりますが、最近は立場上よく墨蹟の揮毫(きごう)を頼まれます。先日は「君子可八」という語を書きました。これは「君子は八なるべし」と読み、意味は「君子は十成(じゅうじょう)を忌む」ということだと、長岡禅塾の森本省念(しょうねん)老師から伺い、心に残った言葉です。この語の出典は存知ませんが、「君子は忘八(放蕩者)ならず」という意味だという人もあり、また「君子は仁義礼智孝悌忠信の八を可(よ)くす」という意味であるともいうことですが、やはり森本老師が言われた「君子は何でもあまり完全に行うことを慎む」の意味で味わいたいと思います。
このことで想い起こされるのは、田沼意次(おきつぐ)のあと寛政の改革を断行して幕府を建て直そうとして厳しい政策を行った松平定信に辟易して、「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」という歌が残されております。清廉潔白で窮屈な定信の政策よりも、賄賂の横行した田沼時代の濁りのあるおおらかさの方が住みやすいという意味でしょう。もっとも最近では田沼意次は賄賂など受け取らずに、蝦夷地開拓や印旛沼の干拓などの大事業をして商業重視の政策を行ったとして再評価する人もあるということです。いずれにしてもあまりに厳しい規律や政策はかえって逆効果になる場合が多いようです。
或る僧堂の老師が雲水の飲酒を厳禁したので、夜行して飲みに行くものが多く、山内の和尚の中には、「老師のあの飲酒厳禁というのはよくないな」という人もあったということです。私はそうした経験から、学生さんたちのお寺での飲酒を禁じてはおりません。しかしとはいえ、心を込めて草引きに邁進するという点に関しては一歩も譲るわけには参りません。
本当に真剣に集中して草引きをしてみれば分かることですが、実に気分爽快になり、気力が充実致します。色んな悩みをもって、それを克服したいがために坐禅会に参加する人がありますが、そういう方はまず無心に草引き三昧に没頭すれば、悩みは雲散霧消することでしょう。お寺で草引きをしたいと思われる方は喜んで受け容れますので、どうぞご連絡下さい。