「三昧境への誘い」2020年02月【No.199】

禅の修行道場のことを僧堂と申しますが、最近はどの僧堂でも雲水さんの数が激減して老師方は嘆いておられます。或る老師が永久暫暇(下山)を切り出した雲水に「もう少し僧堂に残って修行に励むように」と勧告したところ、その師匠である父親の和尚が憤慨してやって来て、「うちの息子は早く僧堂を引かせてお寺のあとをやってもらいたいと思っているのに、どうして引き止めるのか」と居丈高に抗議したという話を聞いて、唖然としてしまいました。

 その和尚は本当に弟子である息子さんのことを思っているのでしょうか。ただ数年の修行をして住職資格をとればそれでこと足れりと考えているのでは、弟子に対して不親切で、みすみす禅定を練る好機会を逃したも同然です。きっとその和尚は僧堂時代に真剣に三昧境に入る工夫をせずにいたからこそ、法悦を体験できなかったのでしょう。三昧境の法悦を体験した人は僧堂生活の有難味が身に沁みて分かるはずです。大切な弟子にはなるだけ長く僧堂で真剣に工夫に励むように進言してこそ、本当に親切な師匠と言えるのではないでしょうか。

 最近は宗門内部でも僧堂の掛搭者減や在錫年数短縮問題を議題にして、臨済宗黄檗宗各派合議所の主催による会議が開かれ、意見交換がおこなわれ、諸事情から短期で僧堂を去る雲水に対して「彼らがもう一度掛搭できる環境作りを」という意見が出されたそうです(ちなみに、「掛搭」とは昔は錫杖をついて行脚し、道場に入門時にはそれを搭鉤[とうこ]にかけることから来た言葉で、道場への入門を意味します。また「在錫年数」とは錫杖をかけてその道場に留まる期間のことを意味しております)。小衲にはそれは環境云々などという問題ではなく、真剣な工夫の欠如こそが問題であり、工夫三昧の悦びを体験すれば自然と禅定を極めようという願心が湧き出てくるものと思われます。

 拙寺の光雲寺は決して僧堂ではありませんが、毎土曜日の夜8時からの坐禅においても、月二回の月例坐禅会においても最近益々「真剣に工夫すれば必ずや三昧境に入ることができる。これは私自身が体験したことであるから自信をもって言える。くれぐれも気の抜けた坐禅をして時間を浪費することのないように」と力説することにしております。そうした訓誡を聞いて発憤する人もいるようです。どうか一人でも二人でも真の三昧境の法悦が出て頂きたいものです。

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