「地蔵菩薩の悲願」(月刊コラム【No.95】2011年5月)
光雲寺にはお厨子に納まった地蔵菩薩の立像がある。以前から気になっていたのであるが、両手が取れるなど痛み方が激しかったものの、何ともいえない品格のあるお顔の相好(そうごう)である。ちょうど「京の冬の旅」の長期拝観により皆様方からのご志納を頂いたので、そのお像を修復することにした。修復を依頼した仏師は、東福門院様の聖観音像念持仏の時と同様、由谷倶忘師である。
修復がなったお像を拝見すると、ますます気高く見えて本当に修復してよかったと納得した次第である。由谷師も「いいお顔ですね」と感嘆しておられた。来客の方々も例外なく驚嘆の声を上げられる。ただ残念なことには、このお像の由来を示すような記録は修復に際して見つからなかったということである。耳から推察するに南北朝時代、すそを見ればもう少し時代が下る、恐らくは桃山時代の製作年代でしょうということであった。
地蔵菩薩で思い出す話がある。江戸中期の臨済宗中興の名僧である白隠慧鶴禅師の高弟であった東嶺円慈禅師は、「八歳の時に父に従い山寺に行き、地蔵菩薩が地獄の衆を済度すること限りない図を見て心に憧れ慕う気持ちを生じ、自分も地蔵菩薩のように苦しむ衆生を救いたいものだと思いました」と師に述懐したところ、白隠禅師は、「わしは地獄の苦悩を怖れて出家したが、それはわが身ひとりの解脱を求めるものであり、師匠であった正受老人から厳しく叱責を受けた。奇特なことに、お前の初発心は衆生済度に邁進する菩薩の悲願を具備するものであり、わが師、正受老人の意にかなうものである」と大いに賛嘆されたという。
地蔵菩薩は釈尊の付嘱を受け、弥勒の成道に到るまでの無仏の世に住して、声聞の出家の姿をもって衆生を教化する菩薩である。わが国では平安時代中期以降、観音信仰と並んで盛んとなり、重要な民間信仰となった。この菩薩が幼くしてあの世に召された子供たちを救う賽の河原の救護者として子安地蔵・子守地蔵などとして理解されるのは俗説であるが、いまでも京都などの関西の町々では盛夏の頃に地蔵盆が行われている。子供たちの無事息災を祈願する子供たちの祭りといってよい。
「一切衆生を果たさなければ、自分は菩薩界には戻らない」という高邁な悲願を立てて、本来は子供たちのみならず苦悩する人々を救うという地蔵菩薩が、今回の東関東大震災の悲惨極まる惨状をご覧になったら一体どのように思われるであろうか。
自らが莫大な利権に群がりたいがためにかくも危険な原発を野放しにしてきたこれまでの政府や電力会社や御用学者たちを、厳しく糾弾されることは間違いあるまい。「想定外」という言い訳に終始する責任者たちを決して許されることはないであろう。大災害は想定を遥かに超える規模で起こるものである。殊に原発の如きは、いったん壊滅的な打撃をこうむれば、わが国全土はもとより、人類全体を滅亡の淵に追い込む危険をはらんでいる。
今回の大震災以来、原発に関する色んな書物を読んだが、すでに何人もの人たちが以前から声高に警告を発していたことを知った。作物を作れない農家の人たちや放射能のために故郷の地を離れることを強制された人々の苦悩は如何ばかりであろうか。破損した原発の状況は予断を許さないが、何とか一日も早く解決して頂きたいものだと、地蔵菩薩の大慈大悲に祈願せずにはいられない。
(なお、修復がなった光雲寺の地蔵菩薩像は、11月21日より12月4日までの京都観光協会主催の秋の紅葉の特別拝観の際に、皆様方のご覧に供する予定でおります)。