「川上哲治氏と野球道」2013年11月【No.125】

南禅寺の境外塔頭である光雲寺では再三申しあげている通り、南禅寺本山からの委託で「南禅寺禅センター」の看板を掲げて、多くの坐禅希望団体を受け容れている。もとより小中高の修学旅行生が一番多いのであるが、一般成人の参加者もよく見える。年々坐禅希望者は増加の一途をたどり、遂にこの十月にはこれまでで最高の二千九百人に達するほどになった。

この春に大リーグのニューヨークヤンキースの選手数名が東北大震災の慰問に行ったあとで、「京都の禅寺でぜひとも坐禅を経験してみたい」ということで、テレビ東京が撮影に入ったことがあるが、坐禅のあとに法話をする際に、そのことも引き合いに出して生徒たちに最近よく話しているのは、川上哲治氏のことである。

「皆さんは王、長島さんの巨人軍選手時代に九年連続して日本一になった時の監督が誰か知っていますか。ほとんどの人は知らないと思いますが、川上哲治監督です。この人は鬼叢林といわれた岐阜の正眼寺という禅寺で、専門の修行僧と一緒に厳しい坐禅修行の生活を送って、その結果、遂に『ピッチャーの投げるボールが止まって見えた』という体験のある人で、『打撃の神様』と呼ばれた人です」。このように話始めると、全員がこちらのいうことに関心を持って集中して聞いているのがよく分かる。

川上氏のことをもっと知りたいと思い、氏の著書『禅と日本野球』や『球禅一如の野球道・勝機は心眼にあり』を取り寄せたちょうどその日に、川上氏が九十三歳で逝去されたという報道があったので、奇しき符合に一驚したのである。小衲は別に讀賣巨人軍のファンではないが、長島や王が選手として活躍していた頃の監督であった川上哲治氏の圧倒的な存在感は脳裏に染みついている。氏が伊深の正眼寺で修行される有様を写真で拝見した遠い記憶がある。「背番号16」という永久欠番の番号は、或る年齢以上の多くの人たちにとって忘れることのできぬ印象を残しているはずである。

上記の著書を読んで、「ボールが止まって見えた」というのは禅修行の結果ではなく、選手時代の一心不乱の鍛錬により得られた体験であったことに知った。氏は「打撃三昧というのでしょうか、すべての雑念を忘れ、ただただ無心に球を打っている時に、球が止まって見えるということがあった。もうその時は無我の境地だったと思います」(『球禅一如の野球道』14頁)と述べておられる。

川上氏が正眼寺に出向いて梶浦逸外老師に相見したのは、選手として力の限界を感じて正力松太郎氏に相談した結果、「一度逸外老師に参禅せよ」と勧められたものらしい。初相見で、氏がそれまでやってきた野球生活を老師に話したところ、逸外老師から「よお分かった。野球の方ではよくも一所懸命に真剣にやってきたな。君の野球の方の境涯は山岡鉄舟の五剣でいうなら絶妙剣ぐらいのところへ来てるように思う。そこら辺のうちで修行している雲水よりも、まだまだ野球の方ではしっかりやったと思う。けれでも、絶妙剣だけじゃ駄目なんだ。まだその上に金翅鳥(きんしちょう)王剣というものがあって、無刀というところまで広がっていかなゃいかんから、ここではひとつ、そういうことを身につけてもらいたい。せっかくここで修行するなら、『野球道』というものをつくる覚悟で修行してもらわねばならない。・・・・野球と禅で『野球道』というものを日本の野球でつくり上げるということでやってくれるというならば、うちで修行させることにしよう」というご宣託を頂いた。

老師の話を拝聴するうちに、川上氏は「いっぺんに師と仰ぐ気持ちになり」、正眼僧堂での修行を続けていくうちに、「『ああ、いままで選手の時に探していた心の安心感というようなものは自分の心に修行して身につけるということなのであって、それはこういうところにあったんだ』ということを知り、もう一途に、『これだ、これだ』と、夢中になっていったわけです」(前掲書17頁)と述べておられる。その川上氏は正眼僧堂での修行を20年間続けたといわれる。

川上哲治氏の逝去の報に接して、金田正一、長嶋茂雄、王貞治など数多くの傑出した野球人が氏を絶賛している。王氏などは「打撃の神様ではなく野球の神様だ」といい、金田氏は「川上さんこそは国民栄誉賞にふさわしい人だ」という。14年の監督生活で11年にわたり日本一に耀き、名監督の名をほしいままにして多くの野球人から畏敬される川上氏は、確かに禅との出逢いにより充実した人生を送られた見事な生涯であったといえるであろう。一般の方々も川上哲治氏のこうした高邁な見識を見習って頂きたいものである。

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