「師匠看護と仏道修行」2016年8月【No.158】
今月は前回と前々回のコラムでお話し致しました青年たちと学んだ中から、ひとつの大切な問題を彼らに提起して考えてもらっていることをお話ししようと思います。(現在は彼らの中の一人は見聞を広めるために海外旅行中で、今一人は九州の自坊にお盆などの荷担のために帰省しております。)
さて、『雛僧要訓』の中に、「世尊成道の初め説きたまう華厳に、父母師僧に孝順せよ、孝順は至道の本(もと)なりと有り」という一節があります。それとの連関で小衲は、道元禅師の『正法眼蔵随問記』の中で、道元禅師が、老病のために死の床にある師匠を見捨てるような形で入宋求法(にっそうぐほう)された明全和尚のことを「真実の道心」の持ち主であると称賛されている箇所を取りあげました(岩波文庫版、百十五頁)。非常に大切な問題が含まれていると思われますので、少し長くなりますが、当該箇所を全訳させて頂きます(ただし少し分かりやすいように敷衍して訳します)。
道元禅師は或るとき、次のようにお示しになりました、「先師明全和尚が入宋されようとした時、本師である比叡山の明融阿闍梨は重病が起こり、病床でまさに瀕死の状況であった。その時にこの師は弟子の明全に向かい、わしはすでに老病が起こり死去するのも間近だ、どうか今しばらく入宋するのを待って、病を看護してわしが遷化した後に本意を遂げてはくれないか、と懇願された。そこで先師明全和尚は弟子や法類の和尚方を集めて話し合いの場をもたれて次のように言われた、私は幼少の頃から出家して両親の膝元を離れてから、この明融阿闍梨の養育のたまものでこのように成長することができた。その養育のご恩はこの上なく重いものだ、また仏法の教えを色々と学び、同輩にも越えた名誉を得たこと、また仏法の道理を知って今入宋求法の志を起こすことまでも、ひとえにこの師匠の恩でないものはない、しかるに今年すでに年老いて重病の床に臥しておられる、余命も再会も期しがたい故に強いて入宋するのを止められたのである、師の命も背きがたいが、いま私が命をなげうって入宋求法しようとするのも菩薩の大悲利生のためである、師の命に背いてまで宋の国に行くべき道理はあるであろうかと。」
この時、その場のすべての列席者は、今年の入宋は留まられて、師匠の遷化ののちに入宋した方が、師命にも背かずまた師恩にも報いる道だと意見を述べましたが、それを聞き終わって明全和尚は次のように言われました、「おのおの方の評議はみな、留まる方がよいという道理ばかりである、私の思うところはそうではない。今回たとえ私が留まったとしても、師匠が死ぬべき運命ならば、それによって命が長らえるわけでもないし、また私が留まって看病したとしても苦痛が止むはずもない。・・・ただ命に従って師の心を慰めるだけである。このようなことは出離得道のためには一切無用である。錯って私の求法の志を妨げるようなことがあれば、師匠にとって罪業の因縁となりかねない。しかしもし入宋求法の志を遂げて一分の悟りを開くことができたならば、師匠一人の煩悩の情念に背いたとしても、他の多くの人を得道させる因縁となるであろう。この功徳が優れたものならば、これこそ師恩に酬いるというものである。・・・師匠ひとりのために失いやすい時を空しく過ごすことは、仏の本意にかなうことではあるまい。それゆえ、私はこのたび思い切って入宋することを決心した」と言って入宋されたのです。
先に述べたように道元禅師は先師明全和尚のこの様な決心を「真実の道心」だと称賛し、「それであるから、現在の修行者も父母のためや師匠のためであるからといって、(看護などの)無益のことをおこなっていたずらに時を空費して、諸道に勝れた仏道を差し置いて空しく光陰を過ごすべきではない」と力説されております。明全和尚や道元禅師のような名僧方に対して批判的愚見を述べるのは恐れ多いことですが、小衲は果たして師匠看護が「無益」なことであり「時の空費」になるかどうかは一概には言えないように思いますが、皆さん方はいかが思われるでしょうか。
幼い頃から手塩にかけて徒弟教育を受けた恩師に対する言葉として、明全和尚の「今回たとえ私が留まったとしても、師匠が死ぬべき運命ならば、それによって命が長らえるわけでもないし、また私が留まって看病したとしても苦痛が止むはずもない。・・・ただ命に従って師の心を慰めるだけである。このようなことは出離得道のためには一切無用である。」というお言葉は、いささか酷薄に過ぎはしないかという気が致します。
このお二人の名僧方は、師匠看護をすることと仏道修行とを別物だという風に考えられておられるように受け取られるのですが、心をこめて師匠のお世話をすることもまた仏道修行の一環だとは言えないでしょうか。小衲も実は修行時代の絶頂期に、明全和尚と同じく、師匠看護の問題に遭遇致しました。小衲の場合には実は(そのお寺に一日たりとも暮らしたことのない)名義を拝借しただけの師匠だったのですが、明全和尚の事例をも考慮に入れた上で、「ここで看護から逃避したのでは自分は駄目だ」と決断して、師匠をお見送りした上で再度行脚修行を致しました。当時を想起すれば不充分で至らぬことばかりで申し訳なく、いま一度看護をやり直したいという思いがぬぐえません。白隠禅師の伝記を拝読して、禅師が心をこめて師匠看護をしながら坐禅弁道をされ、また不祥事があって放逐された兄弟子を迎え入れて面倒を見られたというのを知って感動したことがあります。師匠看護は必ずしも仏道の妨げとはなるまいと思うのですが、いかがでしょうか。
重病の恩師の懇願を振り切って入宋求法された明全和尚は、入宋三年後に病のために天童山の了然寮で遷化されることになります。建仁寺開山栄西禅師に嗣法された明全和尚のものと伝えられるお墓が建仁寺の開山堂の傍らに寂しげに建っております。曹洞宗の方々がときおり墓参に見えられるようですが、了然寮で遷化される直前、明全和尚の脳裏には自らが看護を見放してきた先師明融阿闍梨のことが去来したのではないかという思いが致します。
この明全和尚のことを若い二人に話し、小衲の見解を披瀝しましたところ、「たとえ名僧の言われることでも、そのまま鵜呑みにせずに自らの体験に照らし合わせて考えるべきだということですね。」という反応が返って参りました。こういうやりとりができるというのが『雛僧要訓』を学ぶことの醍醐味かも知れません。