「心の修養ということ」2014年3月【No.129】
先般のソチオリンピックでは日本人選手もなかなか頑張って、冬期オリンピック史上第二位のメダル数だったという。もっともそれは競技種目が格段に増えたことを度外視してみればということらしい。それにしても今回のオリンピックでは金メダル最有力候補といわれた女子ジャンプ競技の高梨沙羅選手がまさかの4位に終わったのは、誰しも予想しなかったことであろう。高梨選手は「今回の試合では自分の力不足を痛感した。技術はもちろん、精神面も磨いて、もっともっとレベルアップしたい」と述べているが、日本全国の期待を担った重圧は察するに余りある。「オリンピックの怖さを初めて知った」というのは偽らざる気持ちであろう。
男子フィギュアスケートの羽生結弦選手はショートで実に見事な演技を見せ、歴代最高得点をあげた。東北高、早稲田大で先輩・後輩の間柄である金メダリストの荒川静香さんは羽生について、「チャンスを確実にものにすることができるメンタルの強さ」を持っており、「これまでの日本男子にはいないタイプ」と評している。しかしその彼でさえもフリーでは二回転倒してほとんど金メダルは絶望かと思われた。だが、「羽生はトップということには慣れていないだろう」と自信ありげに挑発していたカナダのパトリック・チャン本人が、皮肉にも不本意な転倒を重ねて、結局は羽生の後塵を拝することになった。
浅田真央選手はショートでは散々な結果に終わったが、心機一転してフリーで完璧な演技をなし得たことはメダル獲得の有無を度外視して多くの人たちを感激させた。ショートでの失敗は浅田選手にとって計り知れない心の痛手となったことは想像に難くないが、それを見事に跳ね返して会心の演技ができた精神力は大したものである。
今回のソチオリンピックで顕著に分かるのは、普通なら極度の緊張を強いられる場面で、色んな念を起こさずに平常心で淡々と対応することがいかに大切か、またそれがどれほど難しいかということである。そのためには日頃の精神修養がことに肝要となるのはいうまでもない。ここで想い起こされるのは、日露戦争の日本海海戦で世界最強といわれたバルチック艦隊を完膚無きまでに撃破した連合艦隊司令長官の東郷平八郎元帥である。両艦隊の戦力は圧倒的にロシアが優勢であったが、日本の連合艦隊は実戦経験も積み猛訓練を重ね、射撃能力に優れていた上にいかなる事態に際しても冷静沈着な東郷という名将を頭にいただいていたお蔭で、海戦史上未曾有といわれる一方的勝利を得ることができたのである。
ロシアの太平洋艦隊撃滅の後、旅順を攻略した乃木大将と面会した東郷大将は、ただ黙して固い握手を交わしただけであったが、その有様を名参謀といわれた秋山真之は、「自分はこれまでこの時のような思い出深い場面に出会ったことはなかった」と感激したという。後年、明治天皇崩御のあとを追って乃木大将夫妻が殉死したことを知り、乃木大将の死を誰よりも悼んで、東郷元帥は「見るにつけ聞くにつけてもただ君の真心のみぞしのばれにける」と追悼の歌を詠んだ。純忠、至誠、高潔な人格者としてこのお二人は実に明治時代における好一対といってよい。
大正三年(1913)、六十六歳の東郷元帥は東宮御学問所総裁に任じられ、皇太子裕仁(ひろひと)親王(後の昭和天皇)のご教育責任者となった。もとより元帥は自分ごときは到底その任にあらざる旨を言上し辞退せんとしたが、信任厚き大正天皇の聖旨を受けてこの大任を拝受したのである。このとき元帥が詠んだ歌が、「おろかなる心に尽くす誠をば見そなはしてよ天つちの神」という歌である。
皇太子殿下の御学問所での各学科の担当者のうち、最重視されたのが倫理担当者であった。殿下に倫理を進講し人としての道を説く者はとりもなおさず帝王の師となる人物であるから、極めて重大な人選であったが、東郷元帥はこの大役に杉浦重剛(しげたけ)を選任した。元帥は皇太子およびご学友5人に対してなされる諸学科の授業をつとめて参観したが、なかでも杉浦の行う倫理のご進講は欠かさずに出席した。元帥のこの倫理の人選が実に適切であったことは、皇太子殿下にたいする渾身のご輔導に専念する東郷元帥の総裁ぶりを称えた杉浦の次の言葉からはっきりと見て取れる。
「現下の日本において、東郷さんほど御学問所総裁の適任者は他にあるまい。それは英雄だとか勇将だとかいう点からではない。唯その終始一貫の誠実からさ。あの年末年始に行わせられる御終業式と御始業式との際、東郷さんが御前に進んで、その学年の御成績や将来希望し奉る点を言上するときの様子には、つくづく感心させられる。あの地位、あの功績で、のみならず総裁でありながら鞠躬如(ききゅうじょ)たる態度ばかりか、八年の最終の時までいつも声が震えていた。一度あの様子を見聞したら、誰でもその誠意に打たれない者はないであろう。栄達して慎み、親しみ奉って狎(な)れず、君子にあらざればあたわぬところだ。」
さらに杉浦はいう、「東郷さんの眼を見ると、いわゆる炯々(けいけい)として人の肺腑をつらぬくような気がする。ああいう眼をもつ人はおおむね鋭悍(えいかん)で、ややもすると相手に恐怖を感ぜしむるものだ。が、東郷さんと話をしていると、重厚で謙遜でただもう親しみのみが感ぜられる。どうも眼と感じと相応しないのは不思議でならないが、よく考えてみるとそれは確かに修養の結果だと思われる。だがよくもあれまで修養し得られたものとつくづく感心する。」帝王の師たる人格者の杉浦重剛のこの言葉は、東郷元帥の人となりと杉浦本人の見識の高邁さ、的確さを示すものといえよう。
昭和三年十一月に昭和天皇即位の大礼が京都御所にて挙行された。このとき八十歳の東郷元帥はこの盛儀に参列する栄誉に恵まれた。元帥はその参列の喜びを次のように語っている。「誠に結構でした。天皇陛下の御音声のお高いこと、御態度のお立派なこと、何とも申し上げようもない喜ばしいことです。」また、このようにも語った。「今般のご大典を拝するにつけて、御学問所員であって亡くなった人々、ことに杉浦さん達に拝ませたかったよ。どんなに感激するか。何にしても惜しい人じゃった。しかし彼の英霊は決して滅びてはおらん。永久に皇室を守護し奉るであろうから、我々の眼にこそ見えんが、必ずご盛儀を拝して感涙にむせんでおることじゃろう。」
東郷元帥や杉浦重剛が昭和天皇に捧げた赤誠がいかに深く切なるものであったかがよく分かるであろう。
数え八十八歳で逝去した東郷元帥に対して昭和天皇は国葬を賜った。そしてその前日の6月4日に昭和天皇は次のごとき誄(るい、死者の功績を讃えられるお言葉)を賜った。
「至誠、神に通じて成敗の先幾を制し、沈勇、事に臨みて安危の大局を決す。身、国難に当り、功、海戦に崇(たか)し。朕の東宮に在る羽翼、これ頼り、卿(けい)の三朝に仕うる股肱(ここう)、これ效(いた)す。徳望、域中に充ち、声華、海外に溢る。洵(まこと)にこれ武臣の典型、実に邦家の柱石たり。遽(にわか)に溘亡(こうぼう、急死)を聞く、曷(いずくん)ぞ軫悼(しんとう、天子が嘆き痛まれること)に勝(た)えん。茲(ここ)に侍臣を遣わし賻(ふ、香奠のこと)を斎(もたら)し以て弔せしむ。」
昭和天皇の東郷元帥に対する御心のほどが偲ばれるであろう。元帥の国葬には百八十五万人という空前の数の人々が東郷邸より日比谷の葬儀場までを埋め尽くしたという。
杉浦重剛は、三十代半ばの頃、ロシア皇太子傷害の大津事件にわが国の前途を危惧して、彼が「救国の英雄」と尊敬していた勝海舟を訪問した。海舟は気さくに会ってくれたばかりか、その話し振りはまるで旧知の様に親しげであったという。これは海舟が一見して重剛の人柄を見抜いて信頼したからであろう。幕末維新の動乱を切り抜けてきた海舟の含蓄に富んだ話とその人柄とに魅了された重剛は、それ以来しばしば海舟を尋ねた。
教育者であった重剛は或る時、静岡の門下生に頼んで早取りの蕨(わらび)を海舟に持参した。海舟も蕨は好物で、心から喜んで受け取ったが、その翌年(明治33年、1899)に海舟は世を去った。重剛はそれ以来二十数年にわたり、毎年静岡の蕨を洗足池畔の海舟の墓前に鄭重に供えたという(渡辺一雄著『明治の教育者、杉浦重剛』毎日新聞社、81頁以下参照。)。これが至誠心というものである。海舟の至誠が重剛の至誠に感応したものであろう。重剛は後にこの至誠心をもって昭和天皇をご教導申し上げたのである。
滋賀県の膳所(ぜぜ)にある杉浦重剛の旧居(杉浦家は代々膳所藩の儒者の家柄であった)は、ほとんど訪れる人もないまま荒れなんとしている。「温故知新」というが、われわれは今一度、幕末に生まれ明治という時代を支えた高潔な先人達の修養の深さに思いを致すことによって、これからの人生の糧を見いだすことができると思われる。
(なお、東郷元帥に関する記述は、岡田幹彦氏著『東郷平八郎:近代日本を起こした明治の気概』(展転社)に依拠するところ大であったことを付記しておきます。)