「抜隊得勝禅師」2023年04月【No.237】

以前にこのコラムで「澤水長茂禅師」のことを述べた際に、澤水禅師が抜隊(ばっすい)得勝禅師(1327−1387)の法語の通りに工夫に邁進され、大悟徹底されたということをお伝えしました。今回はこの抜隊禅師のことを述べようと思います。

 抜隊禅師が出家されたのは29歳の時で、出家の威儀を習うことなく、お経なども誦することをせず、ただ工夫三昧の日々を過ごされたということです。そして法燈禅師の法嗣(はっす)である出雲の雲樹寺の孤峰覚明禅師の法を嗣がれることになるのですが、その法語を拝読すると、禅師が如何に真剣に工夫され、大悟徹底かがよく分かります。

 法語の最初の行には「輪廻(りんね)の苦しみを免れようと思うならば、成仏の道を知らねばならない。成仏の道とは自心を悟ることである」とあります。澤水禅師はこの1行について、「成仏の近道、如来の49年間の説法の要(かなめ)、最上乗の直説(じきせつ)である」と強調しておられます。

「自心」とは耳に音を聞き、眼にものを見、足を動かせて歩く、その当体であり、いずれの人にも例外なく備わっているもので、法身とも仏性(ぶっしょう)とも呼ばれるものです。抜隊禅師は坐禅工夫の際に雑念が出てくれば、それを嫌ったり執着したりせずに、そうした念が起こってくる源である自心を見極めるべきであると強調しておられます。

ブッダご自身は出入りの呼吸に集中する「入出息念定」によって菩提樹下で大禅定に入られて解脱(げだつ)に到達され、この調息を真剣に行じておれば、必ずお悟りに達することができると断言しておられます。確かに隨息観や数息観によって深い禅定に入ることはさほど難しいことではありません。禅宗ではそれに加えて、「大疑のもとに大悟あり」と言って、大疑団を起こすことの必要性が強調されます。抜隊禅師も大疑現前の重要性を繰り返して説かれております。

とはいえ、真剣に工夫三昧に没頭して大疑現前して、それが破れて大悟に到ることは至難です。そのことに関して、私は出家以前に哲学科の友人と必死の議論をして「無」の現前を体験した経緯から、学人を徹底的に問いただして行って、大疑現前に到らしめることが可能ではないかと思っております。興味深いことに、禅のことを全く知らず、関心もない友人も、私と同様に無の現前を体験することができたのです。彼ものちに「あれはすごい体験だった」と告白しておりました。

この方法だと、自分で疑いを起こすことにぬかりが出ても、他者から立て続いて問いただされるわけですから、休むわけには参りません。最近私のところに出家して禅の修行をしたいという若者が続いてやって来ます。彼らに一度このやり方で迫って疑団を起こすかどうか見てみたいものです。そうして真の見性をする青年がひとりでも多く出て、下火になりつつある禅界を盛り上げて欲しいと願っております。

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