「涓滴も施さぬ」2016年3月【No.153】
標題に掲げた「涓滴(けんてき)」という言葉は、「水のしたたり、しずく」の意味で、転じて「極めて少ないものの喩え」として使われます。従って、禅宗で使われる際の「涓滴も施さぬ」とは、「一点の妥協も人情も入れない」という意味になります。
現在の臨済宗では、修行者は「公案」といわれる祖師方の大悟の機縁を師家(しけ、参禅指導する老師)より与えられ、その公案に対する見解(けんげ)を呈するべく入室参禅するのですが、頭で考え出された分別ではなく、四六時中その公案三昧となり、自己を忘じ尽くして始めて到達できる境地が要求されるのですから、生半(なまなか)な骨折りでは到底この見解は出てくるはずがありません。
それで修行中の雲衲は、それこそ寝る間も惜しんで夜坐に精を出し、日中の作務の最中にも公案三昧に取り組むようにならざるを得なくなるのです。しかしこのとき、その修行者にまだ充分に三昧境が育っていないにもかかわらず、公案の透過を中途半端に許可されると、せっかく醸成されつつあった境地が台無しになってしまいます。それで、師家はそういうことがないように、「涓滴も施さぬ」という無慈悲の慈悲を行ずることが、本当の親切ということになります。
小衲の師事していた或る大悟徹底された老師が、「公案とは透っている時には透ってない、透ってない時に透っている、そういうものだ」と言われたことがあります。まことにその通りです。しかし参禅者の中には、えてして自己の本心本性を徹見することなしに公案を透過させられて、かえってそれを悦ぶ人が多いのも事実です。とはいえ自分に正直であれば、たとえ師家が許しても、「肯心自ら許す」ということがなければ、納得できるものではありません。小衲も雲水修行時代の当初に、見性(自性徹見、本心本性に目覚めること)してもいないのに初関(最初に与えられる基本的公案、無字や隻手音声の公案)を許された際、「どうかまだ透さないで下さい」と室内で懇願したところ、老師は「別の基礎的公案をそのうち与えるので、そのときに骨を折れば良い」といわれたことがあります。雲衲や在家の修行者のほとんどが見性することなしに公案を許されているのが現状ではないかと思います。
臨済禅では、公案を集大成した白隠禅師以来、それぞれの師家が自分独自の(公案)を創始して付加したがために、時代を経るに従って次第に修行者が透過すべき公案の数が増えて行き、その結果、公案体系を早く消化して印可証明を貰うことが目的となってしまい、自我を破産して肝心の自己の本心を明らめることがかになってしまったのは、本末転倒といえるのではないでしょうか。
「涓滴も施さぬ」ことの必要性を身をもって痛感したことがあります。初掛搭の僧堂から別の僧堂に転錫(てんしゃく)してからの話です。長年の骨折りの末に大悟徹底されていたその僧堂の老師は、「容易なことでは公案を許可しない」という噂を聞き及んでいましたので、その僧堂を目指したわけです。果たして期待に違わず、まことに素晴らしい老師で、初めての参禅で「私もあなたと同じ道を歩いてこの禅門に入ったものです。もう一度生まれてきてももう一度雲水になりたいと思っております」と仰せられたのを聞いて、バットで殴られたような衝撃を受けました。師弟の息もぴったりと一つになり、日々法悦のただ中で過ごすことができたのは、本当に有難いことで、感謝に堪えません。転錫後のこととて背水の陣で臨んだその道場での日々は、夜坐にも骨を折り、目の色を変えて作務の最中も工夫三昧に励んだ結果、それまで体験したことのないような深い禅定を幾度となく経験することができました。
それでも公案の数が多い臨済禅では、公案の調べを済ますのに年月がかかるので、学人の見性を待ちくたびれた老師は公案を透されるようになりました。『碧巌録』第一則の「達磨廓然無聖(かくねんむしょう)」の公案を与えられた小衲は、南禅寺・妙心寺両方の管長を経験された近代の名僧・高源室毒湛老師の嗣法の師である柏樹軒潭海老師がこの則で痛快な大悟をされたことを『近世禅林僧宝伝』で知っていましたので、何とか自分もこの則で大悟したいものだと思い、真一文字に公案三昧に取り組みました。その結果、雪達磨式に三昧境が醸成され、「今度こそは」と確信するほどの境地に到達しました。ところが、こちらの工夫がある程度充実しつつあることを見て取られたためか、突如として老師が公案を許されてしまったのです。せっかく乗りに乗っていた工夫はこれによって、まるで極限まで膨らませられた風船に穴が空けられたように、一瞬でしぼんでしまいました。
こうした経験から、師家として学人の参禅を聞くようになってからは、小衲は決して容易には許可しまいと誓いました。公案の数を数えたい人や老婆親切な対応を期待する人は、わが坐禅会には不向きでしょう。道心のある人は自ら進んで工夫に邁進するはずです。小衲が隠侍をさせて頂いた建仁寺管長の竹田益州老師は、名僧・竹田黙雷老師に参じられること十七年の間、ほとんど「チリンチリン」と鈴(りん)を振られて追いかえされ、一言二言いわれることも稀であったと述懐しておられますが、黙雷老師に比べれば、小衲も多言であり、不親切であることを免れません。
「投げられて親方喜ぶ相撲取り」という世語もあります。どうか小衲の禅体験を凌駕するような工夫三昧の方のご参加を切望したいものです。