「門より入るものはこれ家珍にあらず」2024年9月【No.253】

禅では「門より入るものはこれ家珍にあらず」という言葉があります。これはとても大切なことですので、今回はこの言葉についてお話しようと思います。
「門より入るもの」とは、外から入ってきたものという意味で、書物を読んで得た知識や他人から聞いた話は借り物に過ぎないということです。「家珍」とはわが家の家宝のことです。自分が骨を折って得た体験こそが一番貴重なものだというのです。
世の中には人の話を聞いて、それで満足する人もいることでしょう。また書物から得る知識が増えることを重視する人もいるかと思います。しかしそれによって本当に心が満たされるでしょうか。以前のコラムでお話ししましたように、「画餅(がびょう)飢えを充(み)たさず」(絵に書いた餅では腹が満たされない)ということになるのではないかと思います。
私自身のことを申し上げれば、専攻のドイツ哲学の原典を読んでいることも確かに楽しかったですが、それでもやはり心の安らぎを得るためには禅の修行をしなければと思い、禅の道に入ったのです。幸い私の在籍した大学は禅の修行をする伝統があり、主任教授も熱心に専門道場に通われて禅修行をされた方でした。
私は二十五歳の博士課程一回生の時に神戸の山田無文老師が師家をしておられる祥福寺僧堂の五月一日から1週間の入制大摂心に参加致しました。無文老師はそのとき七十三歳で、大悟徹底された高徳な老師を慕って、五十人近い雲水と在家の修行者(居士・大姉)が参集して、異様な緊張した雰囲気が充満していました。昭和四十七年(1972年)のことです。
この時には、自分の呼吸を「ひとーつ、ふたーつ・・・」と数える数息観を工夫し、両方の脚をしっかりと組む結跏趺坐(けっかふざ)をやり抜きました。私は大摂心の間は坐禅も数息観もずっと続けて行うべきものだと思っていましたので、それを続けていると、図らずも三昧境に入ることができたのです。最初は意識的に「ひとーつ、ふたーつ・・・」と数息観をやっていたのですが、そのうちにそれが習い性になって無意識のうちに数息観をすることによって三昧境が育って行ったのでしょう。
ところが、「三昧、三昧を知らず」と言われるように、私に素晴らしい三昧境が育っていることを知ったのは、大摂心が終わってからのことです。自分がこんな境地に至ったことを知って大層驚きました。出家してからは入出息念定(随息観)や公案工夫により幾度となく深い禅定(ぜんじょう)に入ることができました。在家の方々も真剣に工夫すれば、素晴らしい三昧境に入ることができることをお知らせしたいのです。
この境地は「門より入るもの」ではなく、自分が骨を折って初めて体験することの出来たもの(家珍)です。皆さん方も話を聞いたり読んだりするだけではなく、ご自分で工夫してこうした境地の醍醐味を体験されませんか。

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