山岡鉄舟(二)

幼時から培われていた鉄舟の至誠の風格は、敬慕すべき無我の人、山岡静山との出会いにより、真に開花する。鉄舟はその生涯を「至誠の一直心」で通した。


「道の師」との出会い

特筆すべきは、「道の師」と鉄舟が呼んだ山岡静山との出会いである。静山について鉄舟がどのように感じて師事していたかを、静山が二十七歳で急逝した後に鉄舟がしたためた一文から窺うことが出来る。

「そもそも静山の槍法に絶妙なることは海内無双にして、何人も称する所なり。而してまた内深く忠孝仁義の道に入念せらるる事、天下この人を凌ぐものまた何人かある。けだし静山の技は、無我の真の発動なるべし。これ我の最も敬服する所なり。鉄太郎は剣法を修し、静山は槍法の達人なり。故に我静山の技に対して師事するにはあらず、服する所はその心事の明鏡止水の如く、厚徳山の如きにあり。故に我その技の異なるにもかかわらず、しばしばその門に接して教えを受く。」
(そもそも静山先生がやりの術に絶妙であるのは、日本随一であり、何人も称賛するところである。そして更に内面的には深く忠孝仁義という人の道に心血を注いでおられることは、天下にこの人を凌ぐ者が何人あろうか。まさしく静山先生の技は、無我の真の発動であるに相違ない。これこそ私が最も敬服するところである。私鉄太郎は剣法を修行し、先生はやりの達人である。従って、私は先生の技に対して師事したのではない。敬服したのは、先生の心境が明鏡止水の如くに一点の曇りも無く、徳の厚きこと山の如くであるからである。それ故、私は技が異なるにもかかわらず、しばしばその門に出入りして先生の教えを受けたのである。)
(『鉄舟随感録』52頁)


また、師の静山の方も、常に人に語ってこう言っていた、「世間には青年が数多くいるものの、技芸に長ずれば真の勇気がなく、気概があれば技芸が拙く、とかく困り者が多い中で、ただ小野鉄太郎だけはまことに鬼鉄のあだ名に恥じず、心根の寛厚な(度量が大きく手厚い)ことは、まるで菩薩の再来かと思われるほどの者であるから、彼の行く末は必ずや天下に名声をとどろかすものとなるであろう。頼もしいものだ」と。

「この弟子にしてこの師あり。この師にしてこの弟子あり」と言うべきか、何という高潔な素晴らしい師弟関係であろう。結局、静山の弟で同じく槍の達人であった高橋泥舟の懇請により、鉄舟は尊敬する師静山の跡を継いで、禄高がはるかに高い小野家の跡取りの身でありながら、静山の妹と結婚して小禄の山岡家を相続することになるのである。この逸話もまた、一点の私心や打算を持たぬ鉄舟の無我至誠の人柄を如実に示している。

静山の妹のお英(ふさ)も、そうした鉄舟の風格にぞっこん惚れ込んで、「鉄太郎さんと結婚できなければ、私は自害します」とまで言い切ったという。鉄舟は当時「ボロ鉄」と呼ばれるほど生活に困窮していたが、それはお英にとって問題ではなかった。鉄舟の方も、「おれのようなものをそれほどまでに思ってくれるのか」と感激したことも、山岡家を継いだ大きな一因である。

鉄舟は急逝した静山の死を悼んで景慕の情に堪えず、毎晩人知れず墓参したという。寺の和尚は大柄の鉄舟を怪物だと勘違いし、泥舟に伝えた。そこである日、泥舟が窺っていると、雲行きがあやしくなり、ついにはものすごい雷雨となった。その時一人の大男が風雨をついて走ってきて、静山の墓前でうやうやしく礼拝して羽織を脱いで墓にかけ、墓に向かってあたかも生きている人にものを言うかのように、「先生、鉄太郎がおそばにおりますから、どうぞご安心遊ばせ!」と言いつつ、雷雨が過ぎるまでそのまま守護していた。これは静山が雷が苦手だったからである。物陰からこの様子を見ていた泥舟は、亡兄に対する鉄舟の至誠心を目の当たりにして、感涙にむせんだという。


山岡静山

鉄舟ほどの人物がかくまで心酔傾倒した山岡静山とは、一体いかなる人であったのか。

これは海舟の証言であるが、静山は常に、「道によってなすことは勇気が出るが、少しでも我が策をめぐらす時は、何となく気ぬけがする」と言っていた。
そして常に身辺から離さなかった短い木刀には、一方に、「無道人之短、無説己之長」(人の短をいうなかれ、おのれの長を説くなかれ)と記し、裏面には、「施人慎勿念、受施慎勿忘」(人に施すに慎んでおもうことなかれ、施しを受けるに慎んで忘れることなかれ)と記していたという。このことから静山の人柄の何たるかが分かるであろう。

静山の伝記は、中村正直(まなさお)1が記したものが知られているが、その中でも静山の次の二つの言葉を紹介しておきたい。

「およそ人に勝とうと思うならば、先ず自分に徳を身に付けなければならぬ。徳がまされば敵は自然に降参する。真の勝ちとはそのようなものだ。」
(およそ人に勝たんと欲せば、すべからく先ず徳をおのれに修むべし、徳勝って而して敵自ずから屈す、これを真勝となす。)


「人が是非とも戒めなければならないのは、おごりである。ひとたびおごりの気持ちが心に生ずれば、すべての技芸は廃れてしまう。過去を回顧すれば、私もまたおごりの念を起こしたことがないとはいえぬ。このことに思い至るたびに、慚愧と後悔の念で汗が流れる思いである。」
(人よろしく戒むべき所のものは驕傲〔きょうごう〕なり、ひとたび驕が心に入れば、百芸みな廃す。既往を回視すれば、我もまた免れず。一念ここに至るごとに慚悔〔ざんかい〕汗下る。)



無我・至誠の実践

鉄舟は二十三歳の折りに「心胆錬磨の事」という一文(『鉄舟随感録』125頁)を書いているが、そこで彼は心胆を錬磨することの奥義を自ら体得するために、「古今の聖人傑士」がいかにしてその道を修得し、また発揮したかを、その事蹟を学ぶことによって、考究したという。
そして、「我れ幼年の時より、心胆錬磨の術を講ずる事、今日に及ぶといえども、未だその蘊奥(極意)を極むる事あたわざる所以のものは、一つに我が誠の足らざるが故なり」と述懐している。

また、鉄舟が明治天皇の侍従をした功績を認められて叙勲されようとした時に、「まだまだお尽くし足らぬと思っているのに、叙勲などもってのほかだ」と断言し、「喰うて寝て何も致さぬご褒美に、蚊族(「華族」と同音語)となってまたも血を吸う」と自嘲した。これこそ実に鉄舟全幅の赤誠の表現である。

鉄舟は天皇の教育係役を西郷隆盛からのたっての依頼で引き受け、天皇から最も信頼された側近であった。しかも彼の前の主君は、最後の将軍・徳川慶喜であった。将軍にとって代わって最高権力の座についた天皇に新たに仕えることになった鉄舟は、殊に将軍の部下であった旧武士達から口さがない批難を浴びた様であるが、それでも彼は一向に弁明などせずに天皇にお仕えした。鉄舟にとっては、徳川将軍に仕えるにせよ明治天皇に仕えるにせよ、いずれも至誠の一直心(じきしん)を行ずることに他ならず、自らに顧みて何ら天に恥じることがなかったからである。

孔子は大聖人であるが、その孔子にしてなおかつ、「勤勉では私も人並みだが、君子としての実践では、私はまだ十分には行かない」(『論語』述而第七、103頁)とか、「君子の道は四つ有るが、私は未だその一つをも行なうことが出来ない」(『中庸』第十三章)などという恐るべき述懐がある。私見に依れば、これこそ「意・必・固・我」の四つを断たれた孔子の無我・至誠のおのずからなる発露に他ならない。

孔子が「自分は君子の実践すらまだ不十分だ」と述懐され、鉄舟が我が身の誠の足りないことを痛感することこそ、無我と誠の実践そのものである。自分は何でも出来る、足らぬところがないなどと自負する人は、傲慢で鼻持ちならなくなってしまう。それは結局、我が身可愛さ故の「身のひいき」であり、我見である。これに対して、誠を実践躬行する人は、その限りのないことを知れば知るほど、ますます謙虚になって行く。世語に「実るほどこうべ(頭)を垂れる稲穂かな」というのも、ここのところを指すのであろう。


無我の妙用

最後に鉄舟の無我・至誠の人柄を如実に示す逸話をご紹介したい。

これは海舟が述べていることであるが(鉄舟口述、海舟評論『武士道』大東出版社、111頁)、あるとき牛屋(牛肉屋)が店の看板の揮毫(きごう)を依頼に鉄舟のところにやって来た。すると門人達は立腹して、「不届きの牛屋め、おそれおおくも鉄舟大先生に対して、貴様のところの看板を書けとは何事だ。無礼極まる」とその軽率をとがめた。すると蔭からその声を聞きつけた鉄舟は、直ちに彼らを止めて、「何かまわん、わしが書いた看板で商売の繁昌ができたら、この上もない結構なことだ」と言って、直ちに書いてやり、「拙者は書を商売にするものではない。書いてくれという者には、誰でも書いてやる。露店の看板でも、出産届けでも、手紙でも証文でも何でも書いてやる」と言ったという。

これこそ、我がない故に余計なプライドや自尊心などを持ち合わせていない無我から自然にほとばしり出た、臨機応変・無礙自在の妙用(みょうゆう)2である。何と大きなものではないか。

山岡鉄舟については、まだまだ述べなければならないことがあるが、無我・至誠の真境涯を体現した人物のけた外れの器量は、これまで述べたところからも十分に窺(うかが)われるであろう。

今度は石田梅岩と黒住宗忠という江戸時代の二人の卓越した人物をご紹介しよう。「心学」と神道「黒住教」との開祖の根本体験を知るならば、われわれは「無我・至誠」の境地が立場の相違を超えて東洋を通貫するものであることが分かるであろう。

参考文献


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  1. 中村正直(天保三年〜明治二十四年、1832-1891):敬宇と号す。儒学と英学を学び、明六社を創設する。東大教授。貴族院議院。 []
  2. 妙用:いかなる相手に対しても分別なく自在に対応できる、無我(真の自己)の妙(たえ)なる働きのことを、禅家ではこう呼ぶ。 []
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