玄賓僧都

最初に採り上げるのは、鴨長明の『発心集』の冒頭に載せられている玄賓僧都(げんびんそうず)である。千二百年のその昔、名利を離れてひたすら仏道に精進された僧都の気高い行履(あんり)は、同時代の人に鑽仰(さんぎょう)されたばかりか、後世の宗教者の模範となってきた。


『発心集』と玄賓僧都

『方丈記』の著者として有名な鴨長明の著作に、『発心集(ほっしんしゅう)』なる書がある。この書は、長明が自らの反省と修養のために、日本の国内の出来事で「発心」 [1]に関して自分が見聞したことをまとめたものである。彼は、その「序」において、「生死を離れて早く浄土に生まれん」ことを目標として、「わが発心の一念を楽しむばかり」と著述の意図を述べている。

もっとも、『発心集』とは題されてはいるものの、必ずしも真実の菩提心を発(おこ)した者ばかりではなく、名聞(みょうもん)のためにお堂を建てた結果、天狗になってしまったという不心得(ふこころえ)な上人のことなども記載されている。
この書はこれまで主として、文学研究者によって学問研究の対象とされることはあっても、道心を興すという著作本来の目的に即して、少なくとも表向きには読まれてこなかったように思われる。

そして、この書の冒頭に載せられているのが、外ならぬ玄賓僧都である。(『発心集』では「玄敏」と表記されているが、ここでは一般に行なわれている表記に従って、「玄賓」と表わすことにする。また、以下の引用や解釈は、三木紀人校注『方丈記 発心集』〔新潮日本古典集成、新潮社版〕に拠るものである。)
玄賓僧都に関して、『発心集』は、「一、玄賓僧都、遁世逐電の事」と「二、同人、伊賀の国郡司に仕はれ給ふ事」という二段に分けて述べている。ここでは先ず私見を雑えることなく、『発心集』記載の文章を、多少の解説を加味しながら忠実に訳出してみよう。


「玄賓僧都、遁世逐電の事」

昔、玄賓僧都という人がいた。山階寺(やましなでら:興福寺の旧称)の貴い名僧(知者)であったが、俗世を厭(いと)う心が深かったので、俗心にまみれた他の僧侶との交わりを好まなかった。そのため、三輪川(初瀬川の桜井市三輪辺りを流れる部分の呼称で、清流で知られる)のほとりに、ささやかな草庵を結んで瞑想にふけって隠棲していた。

桓武天皇の御代(みよ)に、玄賓僧都の高潔な生き方を聞いて感動された天皇は、無理を承知で召し出されたので、僧都もついに遁れるすべがなく、致し方なく参上した。(延暦二十年〔805〕、桓武天皇は今の鳥取県西部・伯耆〔ほうき〕の国にいた玄賓僧都を請〔しょう〕じ、伝燈大法師位を授けた。)
しかしながら、やはり本意ではないと思われたのであろうか、玄賓僧都は、平城(へいぜい)天皇の御代に大僧都に昇進させようとされたのを辞退して、次の歌を詠まれた(『和漢朗詠集』下、所載)。

「三輪川の清き流れにすすぎてし、衣の袖をまたはけがさじ」
(三輪山のあたりに隠棲して、俗世間や俗僧と交わることなく、三輪川の清き流れでせっかく綺麗に洗い清めた、僧侶としての本来の生き方を、いかに天皇の思〔おぼ〕し召しとはいえ、名利のためにけがすことはできませぬ。)


そうこうするうちに、玄賓僧都は、弟子にも召使いにも知られずに、いずこともなく出奔(しゅっぽん)してしまわれた。心当たりのある場所を探してはみたが、僧都の行方(ゆくえ)は分からなかった。捜索の甲斐なく何日も経過したが、僧都の身近で暮らしていた人はもとより、多くの人から慕われていた名僧の思いがけない出奔を、世間の人すべてが嘆き悲しんだ。

その後、年月を経て、僧都の弟子であった人が、所用で北陸の方へ行く道中で、或る所に大きな川があった。渡し舟が来るのを待って乗ったところ、その渡し守を見れば、頭の髪がつかめるほどまで生えた法師で、薄汚い麻の粗末な衣を着た人であった。
「異様な風体だな」と見ていたが、やはり見覚えのある気がしたので、「誰がこの人に似ていようか」と思い巡(めぐ)らすうちに、出奔して何年にもなる自分の師匠の玄賓僧都ではないかと考えるに至った。「こんなみすぼらしい身なりとは、もしかして人違いではないか」とは思っては見たが、いささかも疑うべくもなかった。件(くだん)の弟子は、師匠のこの哀れな有様を見て大層悲しくなり、涙のこぼれるのを押さえつつ、何気(なにげ)ない振りを装っていた。

渡し守の法師の方も、どうやら気付いている様子ではあったが、ことさら視線を合わせようとはしない。弟子は、走り寄って、「なぜこんな所においでなのですか」とでも言いたかったのであるが、大勢の客が乗船していたので、「かえって人目については具合が悪かろう。都への帰り道に、夜分おられる場所に訪ねて行って、ゆっくりとご挨拶することにしよう」と考えて、そのままやり過ごした。

こうして、帰途にその渡しに行ってみれば、別の渡し守に変わっていた。目の前が真っ暗になり、胸がふさがって、詳細を尋ねれば、「その法師はおりました。何年もここの渡し守をしておりましたが、そうした身分の低い僧に似合わず、常に心を澄まして念仏ばかりを申し、船賃をあれこれ取ることもなく、ただその日に食べるものなどの他は、物に貪欲(どんよく)な心もないような有様でしたので、この里の人も大層好感を寄せておりましたところ、どういう訳かは存じませんが、先頃かき消すように突然姿をくらまして、行方しれずとなったのでございます」と語るのを聞いて、くやしく、どうしようもなく残念に思い、行方不明になった月日を数えれば、ちょうど自分がお目にかかった時であった。僧都は、わが身の所在が知られたと思い、また去ってしまったに相違ない。

鴨長明は、この段の末尾に、彼とほぼ同時代人である三井寺(園城寺)の道顕(どうけん)僧都(文治五年、1189年寂、享年五十五歳)という人が、古(いにしえ)の玄賓僧都のこの物語を読んで、感激のあまり涙を流しつつ、「渡し守こそ、まことに罪なくて世の中を渡る道であろう」と言って、琵琶湖に舟をひとつ用意したことを紹介している。
そして、渡し守になりたいという道顕僧都のこの希望はかなえられることなく計画倒れに終わり、舟は琵琶湖に注ぐ瀬田川の河岸にそのまま朽ちてしまったものの、名利を離れて渡し守をしようとしたその志は、やはり尊いものであった、と結んでいる。


「同人(玄賓僧都)が伊賀の国の郡司に仕えられた事」

この段は、前段でまたまた失踪した玄賓僧都の後日談である。ここでも長明の記述に即して訳出することにする。

伊賀の国(三重県北西部)の或る郡司(国司の下で、郡を治める役人)のもとに、見苦しい容体の法師が、「雇って頂けませんか」と言って不意に入って来た。主(あるじ)はこれを見て、「和尚さんのような方を置いても、何の役にも立ちませぬ」と言った。
その法師が、「法師と申しても、私のような者は普通の下男と何ら変わりませぬ。どういう仕事でも、この身でできることは致しましょう」と言うので、主も「それならよかろう」といって置くことにした。法師は喜んで、大層真心を尽くして働いたので、主は自分がとりわけ大切にしていた馬を法師に預けて世話をさせた。

こうして三年ばかりが経ったが、この主の男は国の長官に対していささか具合の悪いことをしでかし、国外追放されることになった。(郡司は終身官で世襲制であったので)郡司の父や祖父の時から住み着いていたので、所領も多く、一族郎党も多かった。

他国へさまよい行くことは、いずれにせよ大変な悲嘆であるには違いなかったが、遁れるすべもなく泣く泣く出立するのを見て、あの法師が或る者に向かって、「ここの殿に一体どういう困ったことが出来たのですか」と問うと、「お前のような下賎の者が理由などを聞いてもどうしようもあるまい」とけんもほろろに答えたので、法師は、「どうして身分が低くても関係ないはずがありましょうか。ご主人としてお仕えして、もう何年にもなるのです。差別されるのはおかしいです」と言って熱心に尋ねたので、男も事の次第をありのままに語った。

法師は言った、「私が申し上げることを必ずしもお取り上げにはなりますまいが、どうしてそう急いで国を去ることがありましょうか。物事には意外な成り行きもあることですから、ここはひとまず都に上り、何度となくこちらの事情を申し述べて、それでもなお致し方なければ、その時はいずこなりとも行かれればよろしいのではございませぬか。私がいささか存じ上げている人が、国司の近辺におられます。お尋ねして申し上げてみましょう」と。

法師の思いがけない言葉に、人々は、「(見かけによらず)すごいことを言ったものだな」と怪訝(けげん)に思って、主である郡司にこの経緯(いきさつ)を語ると、主は法師を自分のところに呼び寄せて、自ら問い質(ただ)して話を聞いた。法師の言うところを全面的に頼りにしていた訳ではないが、他にあてもないので、この法師を伴って京に上(のぼ)ったのである。

その当時、この国は、大納言某(なにがし)が国司として治めていたのであるが、京に辿り着いて大納言の住まい近くまで行ってから、法師が、「人をお訪ねしようというのに、この身なりでは何とも異様なので、衣と袈裟(けさ)を探して頂けませんか」と言ったので、借りて着せた。
主の男と同道して、彼を門口に待たせ、大納言の邸内に入って、法師は「申し上げたいことがございます」と声を上げた。その場に大勢集まっていた人々は、声の主(ぬし)を見て、一斉(いっせい)に地面にひざまづき敬うのを見て、伊賀の郡司は門のそばからこれを見ていて、驚くまいことか、「何ということだ」と目を見張って成り行きを見守るばかりであった。

すぐにこれを聞いて、大納言が急いで出てきて対面し、上を下にも置かぬもてなし振りは、格別であった。大納言は、「それにしてもまあ、貴方様がどうされたのかと想像する手掛りすらないままに月日が過ぎておりましたのに、まぎれもないご本人がお越しになるとは」などと言って、思いのたけをしきりに述べ立てた。

それに対して、玄賓僧都は言葉少なに、「そのようなことはいずれごゆっくりとお話し致しましょう。今日は特別申し上げたいことがあって参った次第です。伊賀の国で、ここ何年も私がお世話になっているお方が、思いがけずにお咎(とが)めを蒙(こうむ)り、国を追われるということで、歎いておられるのです。まことにお気の毒に思いますので、もしさほど重い罪でなければ、この法師に免じてお許し願えないでしょうか」と言った。

大納言は、「あれこれ申し上げるべきことはございませぬ。貴方様がそのように好意を持っておられる者ならば、処罰されずともわが身で自分の過ちを自覚できる男でありましょう」と言って、僧都の求めに応じて、かの郡司をこれまで以上に厚遇する内容の、喜ぶべき庁宣(ちょうぜん、在京国司が出す命令書)を快く出してくれた。伊賀の郡司がこの有様を蔭で見ていて、呆気(あっけ)にとられるばかりであったのは当然のことである。
色々と考えたが、郡司はあまりのことにかえって然るべきお礼の言葉も出なかった。「宿に戻ってゆっくりとお礼申し上げよう」と思っていたところ、玄賓僧都は、衣と袈裟の上に例の庁宣を置いたまま、さっと立ち出ずるように出て行き、そのままどこへともなく姿を隠したということである。

ここまで書いてきて、鴨長明は、「これもかの玄賓僧都のされたことである。まことに比類なく尊い(有難い)お心持ちであったというべきであろう」と、この段を結んでいる。


玄賓僧都の気韻

玄賓僧都の逸話は、もとより『発心集』のみならず、『古事談』、『三国伝記』など中世の仏教説話の類いに頻出する。ただ、自著の冒頭に掲げたことで、長明が如何に玄賓僧都の跡を慕っていたかが分かるのである。

玄賓僧都は、弘仁(こうにん)二年(818)に享年八十余歳にして遷化(せんげ)した。俗姓は弓削(ゆげ)氏、興福寺の宣教に法相宗を学んだ。大僧都に任ぜられるも辞退して隠棲された経緯は、すでに述べた通りである。

『発心集』に載せられたこれらの逸話からでも、われわれは多くのことを読み取ることができるであろう。

まず第一に、玄賓僧都のように、学徳兼備の名僧でありながら名利を厭(いと)い離れた人こそが、真に万民から敬慕されたという事実である。
そのことはかえって、今日と同様、当時も大多数の僧侶は、出世間の修行をする身であるにもかかわらず、足実地を踏んだ着実な宗教的体験を欠いたまま、名利の俗念にがんじがらめになっていたということを意味する。

第二には、当時の桓武天皇(周知の通り、天皇は平安京に遷都されて、京の千二百年の都の基を造られた)が、玄賓僧都のような真に高徳の僧を崇敬されたのは、天変地異や政情不安の只中にあっても、天皇が確かな法の眼を具えておられた証拠であろう。

そして第三に、鴨長明を初めとして、後世の多くの心ある人々もまた、玄賓僧都の気高い行跡を敬慕した。謡曲の「三輪」は、高徳の僧都に巡り合って、三輪の神ですら仏道に結縁できたことを悦んだという筋書きになっている。

日本最古の幹線道路といわれる奈良「山辺(やまのべ)の道」の三輪山付近には、僧都がその昔ささやかな庵を結ばれた旧跡「玄賓庵」(寺の読みでは「げんびあん」)が、往時を偲ばせるようにひっそりと佇んでいる。その辺りの道は、今にも玄賓僧都が姿を現わされそうな趣が感じられる。


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  1. 発心:仏道を究めようという切なる願いを起こすこと。 [ ]

雲門文偃禅師

今回は中国禅界の巨匠、雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師を採り上げる。禅師は若くして出家し、刻苦精励して大悟されたが、更に境涯の円熟を期して幾多の名僧に歴参された。「雲門天子」と称された高邁な宗風をもつ雲門宗の開祖であり、その「日々是好日」の句は一般にも良く知られている。


雲門禅師の伝記

雲門文偃禅師は唐末から五代(864 – 949)にかけて活躍された名僧である。その伝記は、何といってもその言行録である『雲門広録』(とりわけ、その末尾の「雲門山光泰禅院匡真大師行録」)が基本となるが、『五燈会元』巻十五所載の記述、『禅学大辞典』(大修館書店)も参考になる。

雲門禅師は諱(いみな)が文偃といい、俗姓を張という。浙江省・嘉興の出身であった。幼時から俗世間を厭(いと)い、17歳の時、遂に嘉興の空王寺の志澄律師の弟子となって出家した。禅師は生まれながら賢く聡明で、経典を読んでも一度で理解して再見を要しないほどであったので、律師も大層その器量を称(たた)えたという。20歳にして江蘇省・毘陵(びりょう)の戒壇で具足戒を受け、再び志澄律師のもとに戻って、戒律を集大成した四分律(しぶんりつ)を学んだ。
「行録(あんろく)」では、「厳格清浄に身を持する律を学んだことによって、悟りへの志が深く生じた」と言っているが、戒律を学ぶことを通して、「己事(こじ)究明」(真の自己の究明)の必要性が若き禅師に自覚されてきたものであろう。

そこで、禅師は志澄律師のもとを辞して、黄檗希運禅師の法嗣である睦州(ぼくしゅう)の道蹤(どうしょう)禅師(生没年不詳)に謁(えっ)して、そのもとで修行に励むことにした。だが何分にもこの道蹤禅師は、峻厳極まりない機鋒の禅匠であった。母親孝行でもあり、時の人は尊称して「陳尊宿」と呼んだ。或いは草鞋を作って母を養ったことで、「陳蒲鞋(ちんほあい)」とも呼ばれた。
 
雲門が初めて参じた折りのこと、睦州はわずかにその来るのを見るや、門を閉めてしまった。雲門が門を叩くと、睦州は「誰だ」と言ったので、「私です」と答えると、「どうしたのだ」と反問され、雲門は、「己事(自己の問題)をいまだ明らかにしてはおりません。どうかお示しを」と懇願したが、睦州は門を開いて一見するや直ちにまた門を閉じてしまった。
こうして三日続けて同じように門を叩いたが、三日目に至り、睦州は遂に門を開いたので、雲門が中に入るや、睦州はたちまち胸ぐらを掴まえて、「さあ、(仏法にかなった一句を)言え言え」と迫り、雲門がたじろいで躊躇すると、睦州は推し出して「秦時のタクラクサン(阿房宮を造った際の大きな棒ぐいのこと、「この役立たずめ」の意)」と悪口を浴びせかけざまに重い門を閉めたが、その際に雲門は片足を折ってしまった。しかし、その刹那、雲門は図らずも大悟する機縁に恵まれたのである。
 
表面上は無慈悲極まりないように見える睦州のこの作略(さりゃく、活き活きした働き)こそは、その実、三日にわたり門を閉ざされ会ってもらえないうちに次第に凝縮したであろう、雲門の身心を挙げての大疑団を打ち破る慈悲の鉄槌(てっつい)であり、同時にそれ自身が、仏法の端的な直指(じきし、そのものずばりをじかに示す禅のやり方)でもあった。
こうして見性した(悟りを開いた)雲門は、真の名僧・睦州禅師のもとで更に真っ正直な修行生活を続けたが、或るとき睦州は、「わしはお前の師となって大成させてやることが出来ぬ。これからは雪峰義存禅師(822-908)に参ぜよ。これ以上ここに留まってはならぬ」(「行録」)と命じた。

このことから、雲門の大成のみを望んで、自分のことを顧慮することのない睦州の大悲心が見て取ることが出来るであろう。雲門ほどの越格底(おっかくてい、ずば抜けた人物の意)を弟子に持ったなら、誰しも自分の法を嗣がせて、わが法脈を盛んならしめたいと念願したいものであろうが、睦州は雲門自身のこと、ひいては仏法そのものを重視して、この愛弟子を雪峰禅師に託したのである。
それは、雪峰が、あちこちの道場で下積みの典座(てんぞ、飯炊き役)をしながら刻苦して修行を円成(えんじょう、成就)されたので、その道力と徳とを兼備していた新進の雪峰の力量を、睦州が見込んでのことと思われる。
果たして睦州の眼力に違わず、雲門は雪峰と師資証契(しししょうかい、師弟の境涯がぴったりと合致すること)して、遂にその法を嗣ぐことになるのであるが、雲門が初めて雪峰に相見(しょうけん)した経緯(いきさつ)が面白い。
 
雲門が雪峰山の麓(ふもと)にある寺領に到って、一人の僧を見かけた。雲門が「上座はこれからお寺に行かれるお積もりか」と問うと、僧は「その通りです」と答えたので、雲門は言った、「一則の因縁(禅的問題)を出して堂頭和尚(どうちょう・おしょう、住持のこと)に尋ねて頂けないか。ただ、それが別人の語であるとは言ってもらっては困る」と。その僧が納得したので雲門は次の様に頼んだ、「上座が山中に到って和尚の上堂を見て、大衆が集まった頃を見計らって出て腕を上げて立ち上がり言って頂きたい、『この老漢(おやじ)頭の上の鉄枷(てつのかせ)をどうして脱却出来ないのか』と」。

くだんの僧は雲門に頼まれた通りに言ったが、雪峰はこの僧がそういうのを見て、たちまち座を下って僧の胸ぐらを掴まえて、「すみやかに言え」と迫った。僧はもとより答えられるはずもなかったので、雪峰は胸ぐらを押して「これはお前の言葉ではあるまい」というと、僧が「いや、これは私の言葉です」と否定したので、雪峰が痛棒をくらわそうとしたところ、さすがにその僧も、「その言葉は私自身のものではなく、質問するように寺領のところで或る上座に言われたのです」と告白したところ、雪峰は、「修行者達よ、寺領まで出向いて五百人を指導する善知識(名僧)をお迎えしてこい」と命じた。次の日、雲門が雪峰山に登り、道場まで到ると、それを見かけた雪峰は、「何故にこの地に来られた」と尋ねると、雲門はご無礼を致しましたとばかり、低頭した。

こうしてぴったりと息の合った明師に巡り合った雲門は、雪峰義存禅師のもとで玄沙師備・長慶慧陵・保福従展・鏡清道フ・太原孚上座などの歴々と切磋琢磨して修行研鑽を積み、遂にその法を嗣ぐことになる。
雪峰に嗣法した雲門は、そこを辞して諸方を遊歴して様々な禅者と交わった。『雲門広録』所載の「遊方遺録」を見ると、雲門が如何に多くの名僧に歴参したかが分かる。

その後、広東省にある曹溪六祖大師の塔を拝した雲門は、霊樹如敏禅師(長慶大安の法嗣、知聖禅師と号す)の道場に赴き、そこで、首座(しゅそ、雲水中の筆頭者)として長養の時節を過ごすことになる。
この霊樹はこの道場に住すること二十年の間、修行僧達の懇願にも拘らず、首座を置かず、「わが首座は遊方中である」などと予言し、雲門が到るに及んで、ようやく首座職を命じたと言われる。
そうして、その遷化(せんげ、禅僧の死去のこと)に際して、雲門が霊樹の後住になることを遺言し、その結果、雲門はその法席を嗣ぐことになる。時に雲門はすでに54歳になっていた。更にその5年後にようやく雲門山を開いてその開山となり、「雲門天子」と称された宗風を大いに振うのである。

それにしても、雲門が、睦州のもとで大悟し、雪峰に嗣法したにも拘らず、更に歴参して霊樹のもとで長らく首座を勤めたということは、まことに「ただ大法あることを知って、わが身あることを知らず」というべきもので、それこそ無我の実践そのものである。

歴参・長養の芳躅(ほうちょく)が地に落ち、歴参する者を「転錫者」呼ばわりする日本禅界の現状を見るにつけても、そこまで我を空しくして長養された雲門文偃禅師の高風が慕われるのである。

雲門宗はあまりに宗風が気高くて後世途絶えてしまったが、わが国の臨済宗には、「雲門の関」の公案によっていずれも大悟された大燈・関山の両国師を通じて、雲門宗の家風が流入している。
 
禅師が開かれた雲門山大覚禅寺(光泰禅院)の境致は、今なおその高邁な宗風を彷彿(ほうふつ)とさせる気高い息吹を醸(かも)し出している。


雲門禅師の活作略

雲門の弟子に対する指導法は、自分が睦州の悪辣(あくらつ)の手段によって開悟した経験を踏まえ、修行者の分別を根こそぎ奪い尽くす、まさに天然の活作略(かっさりゃく)である。
『雲門広録』を拝読すると、雲門の臨機応変の対応が随所に散見されるが、ここでは有名な二つの場合を採り上げてみよう。

雲門の道場へ洞山守初(とうざんしゅしょ、910 – 990)が初めて参じた時のことである。雲門が「近離いずれの処ぞ」(どこから来られたかな)と尋ねたところ、洞山は「査渡(さと)」と答えた。また雲門が、「夏(げ)いずれの処にか在りし」(夏安居の修行期間をどこで過ごしたか)と問うと、洞山は「湖南の報慈(ほうず)」と答えた。更に、雲門が、「幾ばく時か彼(かしこ)を離る」(そこを出立したのはいつ頃か)と問うと、洞山は「八月二十五」と答えた。すると、雲門は突然、「汝に三頓の棒を放(ゆる)す」(お前のような奴は六十棒を喰らわせてぶちのめしてやるところだが、今日はこらえておいてやろう)と痛烈な言葉を投げ掛けた。

洞山は、ありのままを正直に答えたのに、自分がどうして痛棒を喫するべきなのかが分からない。一晩悩み苦しんだ洞山は、次の日に再び雲門に参じて尋ねずにはおれなかった。「昨日、三頓の棒を許すと言われましたが、一体、私の答え方のどこが間違っていて痛棒を喰らわされなければならないのでしょうか」、こう洞山が問うと、雲門は、「飯袋子(はんたいす)、江西湖南、すなわち恁麼(いんも)にし去るか」(この無駄飯喰らいめが、禅の盛んな江西湖南をうろつきながら、そのざまはなんだ)と大喝した。『無門関』の一則としてこの問答を採り上げた無門慧開禅師は、この雲門の言葉に関して、「前箭(ぜんせん)はなお軽く、後箭は深し」(最初の「汝に三頓の棒を放す」の語はさほどでもなかったが、この後で発せられた「無駄飯喰らいめ云々」という言葉の矢は深く洞山の胸に突き刺さった)と評している。まことにこの雲門の大喝によって、遂に洞山は大悟することができたのである。

洞山は正直に答えていながらどうして雲門に大喝されなければならなかったのであろうか、また何故にこの大喝によって洞山は大悟できたのであろうか。

雲門の矢継ぎ早の問いに対して何の計らいもなく極く自然に有りのままを答えていた洞山の対応は、すでに大悟徹底した雲門から見れば、無我の妙用(みょうゆう、摩訶不思議で霊妙な働き)そのものに外ならない。自ら大光明を放ちながら一向にそれを覚(さと)ることのない洞山のために、雲門ははからずも「汝に三頓の棒を放す」と慈悲の痛棒を喰らわせざるを得なかったのである。
この雲門の一言によって洞山は満身疑いの固まりになってしまった。現在の臨済禅のように、別に師家の室内に参禅して公案をもらい拈提するように命じられた訳でもないのに、洞山は当たり前の答えをしている自分がどうしてあのように痛罵されねばならぬのかという疑団に取りつかれてしまった。だが、これこそ修行にとっては好時節というものである。

おそらくあれこれ考え抜いて一睡もできずに夜を過ごした洞山は、翌日再度雲門に問い質(ただ)さざるを得なかった。その洞山に対して雲門は更に百雷落つるが如き大喝を喰らわせた、「この禅の盛んな地方をうろつき回りながら、自己の一問一答、一挙一動がいちいち大光明を放っていることをどうして分からないのか。お前自身がすでに円満具足した存在ではないか」と。時節因縁が熟したと言おうか、ようやく洞山は大悟することができたのである。

それにしてもこの雲門の活作略は何と見事なことであろうか。修行者を絶体絶命の処に追い込んで命根(みょうこん、生死・分別・二元対立の根)を根こそぎにして大死一番させ、絶後に蘇らせ大悟に導く、これこそ雲門が越格底(おっかくてい、ずば抜けた)の名僧たる所以(ゆえん)である。

大悟した洞山は嬉しさのあまり、覚えず雲門の深恩に報いる一句を吐いて言った、「この法悦を自分だけが享受することはできませぬ。宇宙大の無の自己を悟った上は、最早米一粒も貯えることのできない草庵のわび住まいでも一向に構いませぬ。そうして、大法を求めてやって来るもの達の煩悩を抜き、悟りの垢を抜き、これまでの習い性を根こそぎにして臭みを取り、無礙自在の境地に至らしめて、一切のはからいのすり切れた『無事』の禅僧にしてやりたいものです。こんな痛快なことがありましょうか」と。
それを聞いて、雲門は喜びのあまり、「お前はヤシの身の様な小さな身体をして、何と大口をたたく様になったことか」と毒舌を吐いたということである。

今一人は、香林澄遠(きょうりんちょうおん、908 – 987)の場合である。この人は雲門の一言一句を紙の衣に書き留めて後世に伝えた人で、「紙衣侍者」と呼ばれ、後に雲門の有力な法嗣の一人となるのであるが、その修行たるや、並み大抵のものではなかった。
雲門が呼んで香林が応じるたびに、雲門はいつもすかさず「これ何ぞ」(そう答えているお前自身は一体何ものか。お前の真実の自己とは何か)と問い続けること、何と十九年であったという。
 
現代の様に、弟子の初見性を見届けずして容易に公案を許し、弟子を失望させてしまう師家が多いのに比べて、雲門と言い香林と言い、これは一体何という根気のある修行振りであろうか。この赤心・菩提心をもってこそ、真実の名僧が打出されるのである。真の道心ある師弟の間柄には、マンネリや形式だけの問答は決して起こり得ない。

この師弟共に命がけの十九年の研鑽が遂に結実して、香林は大悟の時節を迎えた。名僧となって大いに雲門の宗風を振った香林澄遠は、八十歳で遷化するに際して、「老僧四十年まさに打成一片(たじょういっぺん)」(わしはこの四十年間というもの、まさに心境一如の禅定三昧の只中で暮らしてきたわい)と言い残したという。
 
真の名僧のもとには真の弟子が打ち出されることが良く分かる。雲門文偃禅師の高風を学んで、今一度風前のともしびの宗風を挽回したいものである。


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三人の遁世者達〔平等・千観・増賀〕

玄賓僧都に続いて『発心集』に載せられているこの三人の遁世者達も、またいずれも名利の俗心を離れたその高潔な行跡の故に、後世の人達に崇められた名僧である。現代には地位や名誉のある所謂(いわゆる)「高僧」はいても、このような名利を超脱した真の名僧がいないのは、誠に惜しいことである。


平等供奉(びょうどうぐぶ)

先の玄賓僧都に次いで『発心集』に載せられているのが、平等供奉であり、その遁世(とんせい)から往生までの経緯が述べられている。生没年や詳伝は不明であるが、「供奉(ぐぶ)」とは「内供奉」の略で、宮中の内道場に仕えて読師(とくし)などを務めた高僧のことであるという。鴨長明の記述は次の如くである。

(長明の頃から)さほど遠からぬ昔のこと、比叡山に平等供奉という尊いお方がおられた。天台宗と真言宗の高僧であった。

あるとき、便所に入っていた折りのこと、にわかにはかない無常を痛感する気持ちが起り、「どうしてこのようにはかない世であるのに、名利にのみ束縛されて、執着すべきでないわが身をいとしく思って、空(むな)しく日々を送っているのであろうか」と思うと、過ぎ去った日々もくやしく、何年も住んだ栖(すみか)も嫌になったので、もう戻ってくるという気持ちにはならなかった。下着姿で下駄を履いたままの格好で、衣などを着たりすることもなく、何処(どこ)へともなく出奔(しゅっぽん)して、比叡山から都に出るための、通称「雲母坂(きららざか)」と呼ばれる西の坂を経て京の方へ下っていった。

どこに身を落ち着けようという気もなかったので、足の向くがままに任せて船着き場のある淀の方へ放浪して行き、下り船があったので乗ろうとした。供奉の顔つきなどが尋常ではなかったので、船頭は怪(あや)しく思い乗船を承知しなかったが、必死になって頼み込むので、乗せることにした。
「一体、どういうわけで、どこへ行こうとされるのか」と船頭が問うと、「別段これといった目的もなければ、目指していくような当てもない。ただ、どこへなりとあなた達がいらっしゃる方へ参ろうと思う」と答えたので、一同は、「わけの分からぬ話しだ」と首をひねっていたが、粗野な船頭達も情がなくもなかったので、たまたまその船の行き先のままに、伊予の国(今の愛媛県)に到着した。

さて、供奉はこの伊予の国をあちこちさまよい歩いて、乞食(こつじき、物乞いのこと)をして日を送っていたので、その国の人々は彼のことを「門乞食(かどこつじき)」(門口に立って物乞いをする者)と名付けた。
比叡山の坊では、「ちょっとお出かけになってからその後、いつまで経っても戻ってこられないとはおかしいことだ」などと言い合っていたが、こんなことになっているとは、どうして想像できたであろうか。「もしかして何かわけがあるのだろう」などと言っているうちに、その日は暮れ、夜も明けてしまった。一同は驚いて探し回ったが、一向に見つけることはできなかった。あれこれ言っても仕方がないので、もっぱら供奉が死去したものと仮定して、泣く泣く、故人を弔う仏事を行い合ったのである。

この間、伊予の国の守(かみ、長官)であった人は、供奉の弟子の浄真阿闍梨(じょうじんあじゃり)という人を長年懇意にして祈祷などをしてもらっていたが、京から国へ下るというので、「長い道程ですので、貴僧に同道して頂ければ心強いことでしょう」と言って、同伴して京から下ってきた。
門乞食の平等供奉は、そんなことは知らずに、伊予守(いよのかみ)の館(やかた)の内へ入って行った。物乞いをする間に、童(わらべ)らは大勢で後ろに立って笑い罵(ののし)った。その場に居合わせた伊予の国の住民達が、「何という異様な格好だ。ここから出ていけ」と激しく叱りつけるのを、この阿闍梨は哀れに思い、物などを取らせようと思って自分の近くに呼んだ。
恐れ恐れ縁側へやって来たのを見れば、人の姿にも見えないほど痩(や)せ衰え、あちこちからボロが垂れ下がった綴(つづり、切れを継ぎ合わせて仕立てた着物)のみを身にまとった、まことに見苦しい様であった。

とはいえ、身なりは変貌してはいたが、どこかで見覚えがある様に思い、よくよく思い出せば、我が師であった。何とも悲しくなって、すだれの中から転がるように出て、縁の上に手を取って上がらせた。伊予守を始めありとあらゆる人は、驚き悲しむあまり、泣く泣く様々に語ったが、供奉は言葉少ないまま、強いて暇を乞うて立ち去ってしまった。
あまりのことに言葉も出ないまま、麻の衣などの物を用意して然るべき処を探索してみたが、どうしても供奉は見つからない。あげくの果てには、国の者達に命じて、山林の至らぬところもない位、隅々まで探し回ったが、逢うことはできずに、そのまま行方不明になって、ついに行く末も知られぬままになってしまった。

その後、はるかに時が経ってから、人も通わぬ深山の奥深い清水のある処に「死人がいる」と山の住人が言うのを聞いて、怪訝(けげん)に思い、阿闍梨が探して行って見れば、平等供奉が合掌して西方極楽浄土に向かって往生を祈念しながら亡くなっていた。大層悲しいと同時に貴く感じて、阿闍梨は泣く泣く亡き師の葬儀を執り行なったのである。
ここまで述べて、鴨長明は発心をして遁世した高僧達について次のように総括している。

今も昔も、真実の道心を発(おこ)した人は、このように故郷を離れ、見ず知らずの処で、いさぎよく名利を捨てて死ぬのである。悟りを求めて修行する菩薩が無生忍(むしょうにん) [1]を得た上でさえ、顔見知りの人の前では神通(じんづう) [2]を現わすことは難しいと言われている。まして、確かに発心をしたことは尊いとはいえ、不退の位に到らなければ、何かにつけて乱れやすい。故郷に住み、知った人に交わっては、どうして一念の妄念の心を起こさずにはおれようか。

千観内供(せんかんないぐ)

鴨長明は、平等供奉に続いて三井寺(滋賀県大津市にある園城寺の別称)の千観内供(延喜17年〜永観元年、917 – 983)の遁世・往生について述べている。ここでも、多少の解説を加味しながら、長明の記述に即して述べることにしよう。

千観内供という人は、智証大師円珍(三井寺の開祖)の系統に属する比類なき智者であった。もとより道心は深かったが、どのように振る舞い、行動すれば良いかなどと思いを定めず、何となく月日を送っていた。或る時、朝廷から法会・講論に招かれての帰り道、京都四条河原で空也(くうや)上人にお目にかかった。上人は、市井(しせい)にあって鉦(かね)などを鳴らして踊りながら阿弥陀の名号を称える「踊り念仏」で有名で、貴賎に尊敬され、浄土思想の普及に測り知れぬ功績を残した人である。

内供は車から下(お)りて上人に対面し、「一体どのようにすれば、来世の安楽が得られるのでしょうか」と伺うと、上人はこれを聞いて、「何を反対のことを言っておられるのか。そのようなことは、この私が御房(ごぼう、僧侶の尊称)などに伺いたいものですのに。私のような至らぬ身では、ただ言う甲斐もなくあちこち迷い歩くだけです。それ以上に何か思いつくようなことはございませぬ」と言ってその場から去ってしまわれようとするのを、内供が袖を捕まえて、なお熱心に尋ねたところ、上人は、「どのような仕方であれ、わが身を捨てれば救われましょう」とだけ言って、袖を引き放ち、足早に行き過ぎてしまわれた。

その時、内供は四条河原で僧侶の装束を脱ぎ代え車に入れて、「ともの者は早くお寺へ帰りなさい。私はこれからよそに行ってしまうつもりなのだ」と言って、全員を返してしまって、自分はただ独りで箕面(みのう、原文では「蓑尾」。大阪府箕面市)という所に籠(こも)ってしまった。
しかしながら、なおそこも気に染まなかったのであろうか、居所を決めかねておられたところ、東の方に金色(こんじき)の雲が立ち上っていたので、その場所を尋ね、形通りの庵(いおり)を結んで、跡を晦(くら)まされたのであるが、それがすなわち現在の金龍寺(こんりゅうじ)というのがそれである。そこで長年修行して遂に往生を遂げられた経緯(いきさつ)は、詳しくその伝記に記(しる)されている。

この内供は、人の夢に千手観音(せんじゅかんのん)の化身として現れたということである。千観という名は、この観音の御名(みな)を省略したものであろう。

鴨長明は千観内供についての一段をそう締めくくっている。内供は生涯念仏を絶やすことはなかったといわれ、そのため「念仏上人」と称(たた)えられたという。


増賀上人(そうがしょうにん)

奈良県桜井市にある多武峰(とうのみね)の増賀(そうが)上人(延喜17年〜長保5年、917 – 1003)。長明は「僧賀」と記しているが、正しい表記に従い、以下「増賀」と記す)は、その奇行と高徳で名高いが、長明は前二者に続いて、この増賀上人の「遁世往生」について述べている。

増賀上人は、天台宗比叡山中興の祖といわれる慈惠(じえ)僧正(元三大師良源)の弟子である。幼くして十歳で出家した上人は、徳の高さが人に勝(すぐ)れていたので、「行く末には立派な名僧になられるであろう」と、至る所で人々は賞賛し合った。
しかしながら、上人は心の中では深く俗世を厭(いと)い、名利(みょうり、世間的な名声と現世的な利益)にとらわれず、極楽に生まれることだけを人知れず願っておられた。納得のゆく道心がなかなか発(おこ)らぬことだけを願って、根本中堂(比叡山延暦寺の本堂)に千夜お参りし、毎夜千回の礼拝(らいはい)をして道心が生まれるのをお祈り申し上げた。

始めは、礼拝するたびに声など立てることはなかったが、六、七百夜頃になると、「つきたまえ、つきたまえ」と人に知られぬほどのひそかな声を出して礼拝したので、その声を聞いた人は、「このお坊さんは一体何事を祈って、天狗(てんぐ、妖怪の一種)がつくようにというのか」などと、怪しんだり笑ったりした。しかし、参拝が千回の終わり近くになって、「道心がつきますように」とはっきり聞こえるようになったので、人々は、「何という立派なことだ」などと言い合った。

こうして千夜が達成して後、前世からの因縁であったのか、上人は世を厭う心がますます深くなったので、「何とかしてわが身を空しくしてしまおう」と機会を待っていたが、ある時、内論議といって、大極殿において天皇の目前で正月十四日に行われる、経文の内容を高僧達に論議させる催しがあった。

一定の論議が終了したので、供養のために貴人達の食べ物の残りを庭に投げ捨てると、乞食達が方々に集まって、争い合って食べるという習わしであったが、増賀上人はにわかにその場に居合わせた僧侶の中から走り出て、これを取って喰らった。
これを見た人が「この禅師は物に狂ったのか」と大声で騒ぐのを聞いて、上人は、「わしは物に狂っておらぬ。そう言われるお手前方こそ、物に狂っておられるのではないか」と言って、少しも驚くことはなかった。人々が「あきれたことだ」と言い合っていると、これを機会に上人は家の中に立てこもってしまった。その後、大和の国の多武峯というところで、思いのままに修行して年を送ったのである。

その後、上人の尊いことが有名になり、時の后(きさき)の宮が出家される際の戒師(授戒の僧)に召されたので、上人は気が進まなかったが参上して、紫宸殿の欄干の端に寄って、いろんな見苦しいことを語りかけ、役割を果たすことなく退出した。

また、上人は、仏事を行おうとする人のもとへ行く間に、説法の仕方などを道すがら思案したので、「これは名利を思うということだ。魔がつけ入ってきたのだな」と思い、行き着くや否や、どうでも良いことを咎め立てして、施主(供養主)といさかいをして供養の仏事を行うことなく帰ってきた。こうしたやり方は、上人が、人にうとまれて再びこのようなことを頼まれないようにとの思惑からであったと思われる。

また、師であった良源僧正が、帝から与えられた栄誉のお礼言上の折り、増賀上人は先駆の数の中に入って、乾鮭(からざけ)というものを太刀(たち)にぶらさげ、やせこけて見苦しい雌牛に乗り、「屋形つきの牛車の先払いを致しましょう」といって、面白く牛の向きを再三変えて乗り回したので、見物者で怪訝(けげん)に思い驚かぬ者はなかった。

こうして上人は、「名聞(名声)は苦しいものだ。気楽なのは乞食(こつじき)の境涯だけだ」と歌って、車から打ち離れた。僧正も凡人ではなかったので、上人の「われこそ屋形つき牛車の先導を」と言われた声が、僧正の耳には、「悲しいことだ、わが師は悪道に入ろうとしている」と聞こえたので、車の中で、「これも衆生済度のためだ」と答えられたのである。

増賀上人は、臨終の時、まず碁盤を取り寄せて、独り碁を打ち、次に蝶々の形をした泥よけの馬具を取り寄せるように頼んで、これを首にかけて小蝶という舞いの真似(まね)をした。弟子達が怪訝に思い尋ねると、「わしは幼少の頃、この二事を人に諌(いさ)められて、してみたいと思いながらせずじまいに終わったが、それが心に懸かっているので、『あるいは死後に執念を残すことがあるかも知れない』と思って」と言われたということである。

すでに極楽の諸菩薩衆が来迎(らいごう)するのを見て、上人は喜んで歌を詠んだ。「八十余りという老齢に及んで、このような稀な出来事に遭うことのできたことの嬉しさよ」という意味の歌を詠み、亡くなった。

最後に、鴨長明は次のように増賀上人の奇行の本意を結論付けている。

この人の振る舞いは、後世の人達は物狂いというかも知れないが、汚(けが)れた世の中から離れんがための思惑(おもわく)があっただけなので、それにつけても稀な例であると思って、ここに採り上げたのである。
人と交友するしきたりは、身分の高さに応じて低い者を憐れむことであるから、身は他人のものとなり、心は恩愛のために使われる。このことは、この現世の苦しみであるばかりでなく、世間を出離する上で大きな障害である。汚れた俗世間を離れるのでなければ、どうして乱れやすい心を静めることができようか。


『発心集』には、増賀上人が奇行に走るほど極端に名利を厭うようになった経緯(いきさつ)に関しては、何ら述べられてはいない。
しかし、上人に関する説話を集大成した談山神社本の『増賀上人行業記絵巻(上巻・下巻)』には、次のような逸話が述べられている。



前述の如く、京都生まれの上人は、十歳で出家し、比叡山で元三大師慈慧のもとで万縁を杜絶(とぜつ)して、久しく山を下りることなく修行・勉学に励んでいたが、或る時、生家を思う念が生じ、たちまち山を下って生家に至った。
当時、父はすでに死去し、母だけが存命中であり、その生家は壁が壊れ建物は傾くという有様であった。母に見(まみ)えると母は息子である上人に向かって言った。

「お前はすでに仏門に入った身である。この母はお前が生家に戻ってくることなど望んではいない。ただお前が如説(教えの通りに)修行して、早く聖人の位に登り、その道力のお蔭で、父母の私達が共に出離(俗界を離れて涅槃寂静の境地に入ること)することができるようにと願うだけである。それなのに、今のお前は良い衣を着て、召使いまで従えている。私はそれを見て、お前の心が菩提(ぼだい、悟りのこと)にではなく、(出家者がもっとも厭離すべき)名利(みょうり、名誉と利益)にあることが分かる。もし、お前が道からそれて名利を求めて菩提を求めなければ、恐らく両親は出離を得ることができぬばかりか、かえって地獄のくずと成り果ててしまうに違いない」


上人は、母のこの言葉が骨身にしみて大いに恥じ入り、謹んで慈訓(慈愛から発せられた訓戒)の真意を了解した。根本中堂でのかの「道心つきたまえ」という礼拝祈願は、この母の痛烈な訓戒を受けて叡山に帰山してからすぐ後の出来事である。上人にとっては、それ以来、名利を厭離すること恰(あたか)も怨敵に逢うがごとき有様であったに相違ない。上人の奇行の背景には、その母の無上の慈愛が窺(うかが)えるのである。


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  1. 無生忍:「無生法忍」の略で、「法空の智」のこと。不生不滅の法性を忍知して決定安住する位をいう。 [ ]
  2. 神通:凡情をもって測り知ることのできない不可思議・無礙自在な妙用のこと。 [ ]

名僧列伝

東洋には、深い宗教的境地を得て多くの人達に敬慕された、仏教の名僧方が数多くおられる。現代の人には疎遠となってしまった観がある、中国と日本のそうした名僧方の列伝を、このたび企画することにした次第である。別に宗派は限定することなく、また年代も順不同であり、思いつくままに書き足していく予定である。願わくは、この名僧方の高潔な行跡を知って、自らの糧(かて)とされんことを。


玄賓僧都

最初に採り上げるのは、鴨長明の『発心集』の冒頭に載せられている玄賓僧都(げんびんそうず)である。千二百年のその昔、名利を離れてひたすら仏道に精進された僧都の気高い行履(あんり)は、同時代の人に鑽仰(さんぎょう)されたばかりか、後世の宗教者の模範となってきた。
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三人の遁世者達〔平等・千観・増賀〕

玄賓僧都に続いて『発心集』に載せられているこの三人の遁世者達も、またいずれも名利の俗心を離れたその高潔な行跡の故に、後世の人達に崇められた名僧である。現代には地位や名誉のある所謂(いわゆる)「高僧」はいても、このような名利を超脱した真の名僧がいないのは、誠に惜しいことである。
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雲門文偃禅師

雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師は中国禅界の巨匠と言われる。禅師は若くして出家し、刻苦精励して大悟されたが、更に境涯の円熟を期して幾多の名僧に歴参された。「雲門天子」と称された高邁な宗風をもつ雲門宗の開祖であり、その「日々是好日」の句は一般にも良く知られている。
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盤珪永琢禅師

江戸時代初頭に活躍された臨済宗の名僧、盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師(元和八年〜元禄六年、1622 – 1693)は、自らの修行遍歴の体験から、公案工夫をこととする臨済禅の基本的行き方に対して、「不生の仏心」を説く独自の「不生禅」を創始された。今回は、この稀有の名僧の格調高き教えと伝記とをご紹介したい。
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盤珪永琢禅師

江戸時代初頭に活躍された臨済宗の名僧、盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師(元和八年〜元禄六年、1622 – 1693)は、自らの修行遍歴の体験から、公案工夫をこととする臨済禅の基本的行き方に対して、「不生の仏心」を説く独自の「不生禅」を創始された。今回は、この稀有の名僧の格調高き教えと伝記とをご紹介したい 。

発心と苦修

盤珪は元和八年(1622)三月八日に播州(兵庫県)網干の浜田で生まれた。その実家は代々医者を生業(なりわい)としており、七、八人いた兄弟姉妹の多くは出家となった。江戸時代には現代とは比較にならないほど出家する人の割合が人口比率上多かったのである。

さて、盤珪は幼時から気宇凡ならざるものがあり、神童視されたという。十二歳の時に儒者について儒教の基礎的経典である四書の一つである『大学』を学び、「大学の道は明徳を明らかにするに在り」という冒頭の一句に出くわして、「明徳」とは何かという疑問に取りつかれてしまった。
盤珪は、「この明徳が済みませいで、疑わしくござって、久しくこの明徳を疑いまして」と後年述懐している。「明らかな徳」であるというなら、何故に重ねて明らかにする必要があるのか、天に賦与された「虚霊不昧」(朱子章句・空にして万事に応じ、霊妙で明らか)なるものが「明徳」だというが、わが身のどこにその様な霊妙な明徳があるというのか。そうした疑問におそらく次から次へと襲われたに相違ない。

盤珪はこの疑問をぜひとも解決したいものだと思い、儒者に尋ねたが、どの儒者も知らなかった。或る儒者は正直に打ち明けた、「そのような難しき事は、よく禅僧の知っているものじゃ程に、禅僧へ行ってお問いやれ。われらはわが家の書(四書五経などの儒教の経典)で、日夜朝暮、口では文字の道理を説いてよくいえども、実にわれらは明徳というものはどのようなが明徳というものやら知りませぬ」(『盤珪禅師語録』岩波文庫版、43頁)と。
とはいえ、近くには禅寺がなかったので、ここかしこの説法や講釈を聞いて、年老いた母親にも安心させたいと思ったが、なかなか明徳の埒(らち)は明かなかった。

かくして疑情はますます増大し、茫洋(ぼうよう)として学業のみならず一切の仕事も手につかなくなってしまった。その結果、盤珪は長兄の正休によって放逐されたが、知人の外護(げご)で庵を結び、修行庵と称した。

十七歳にして盤珪は赤穂随鴎寺の雲甫全祥(うんぽ・ぜんしょう、1568-1653)について出家得度した。雲甫は甲斐恵林寺の火定で有名な快川に参じ、備前三友寺の南景に嗣法した、門庭峻厳な本格的禅僧であった。
盤珪は二十歳にしてこの師のもとを辞して、「明徳」の疑団を抱きつつ、稀に見る苦修をしながら諸国を行脚して善知識(善き指導者)を探し求めたが、その渇望にもかかわらず明師に出会うことはできなかった。その間の消息について、盤珪は後年次のように語っている。

「われ発心の初め善師友を得ざる故、種々の苦行をいたし、身の油をしぼり、あるいは人縁を断絶して閉居し、あるいは紙帳を作り、その内に打坐し、あるいは窓障子を立てて、暗室に打坐し脇席につけず(横寝などせず)、結跏趺坐にて両股(もも)ただれうみ、その跡のちまであり。また某国某所に善知識ありと聞いては、じきに往きて相見(しょうけん)す。数年の間かくのごとくす。およそ日本のうち、足跡の至らざる所は少なし。これみな明師に逢わざる故なり。」


また七日も十日も物を食べずに命を失うことも顧みずに岩の上に直(じか)に坐禅し通したり、京の五条橋下での四年間の乞食、嵯峨の松尾大社の拝殿での昼夜不臥の断食摂心、豊後大分の山村での癩病の乞食との同居など、実に命がけの苦修の連続であったが、これもただひとえにかの明徳の埒(らち)を明(あ)けたいがためであった。


大悟と長養

二十四歳にして随鴎寺の本師雲甫(うんぽ)和尚のもとに戻った盤珪は、自分の「明徳」に関する大疑を打破してくれる明師に出会う事がなかったことを涙ながらに訴えた。かくして盤珪は帰郷して野中村に庵を建て、そこでいよいよ決死の覚悟でこの難問を解決しようとするのである。「大事を洞徹せずんば、すなわちまた人間(じんかん)に遊ばず」(この一大事を徹見せねば、世間には顔出ししない)という盤珪の決意は、その昔、釈尊が菩提樹下で禅定に入られる時、「もし大悟せずんば誓ってこの座を立たず」と覚悟されたのと同様の、全存在を賭けた真剣な誓いであった。

『玄旨軒眼目』という記録には、この野中庵での苦修の有様を次のように述べている。

「師その後、故郷に帰りて、数年閉関するに、一丈四方の屋を造り、牢の如くにして、椀(わん)の入るほど壁に穴をあけて、戸の入口を土で塞ぎ出入することなし。食は二時に壁に開けたる所の一尺四方の丸き穴より入る。食事畢(おわ)れば、又椀を穴より出し、大小便利は外の厠(かわや)へ内よりととのうるように拵(こしら)えおくなり。」


かくして、あまりに身命を顧みず数年間苦修を続けた結果、瀕死の大病(肺結核か)にかかり、その瀬戸際で遂に大悟の春を迎えるのである。この経緯(いきさつ)については、盤珪自身の有名な述懐があるので、それを聞いてみよう。

「それよりして故郷へ帰りまして、庵室をむすびまして安居(あんご)して、あるいは臥さずに念仏三昧にして居ました事もござって、いろいろとあがき廻って見ましても、かの明徳はそれでも埒(らち)が明きませなんだ。あまりに身命を惜しみませず、五体をこつか(極果)にくだきましたほどに、居しき(尻のこと)が破れまして、座するにいこう(大層)難儀致したが、その頃は上根(上々の根器)でござって、一日も横寝などは致さなんだ。しかれども居敷が破れて痛む故、小杉原(紙の一種)を一枚づつ取り替えて敷いて座しました。そのごとくにして座しませねば、なかなか居敷より血が出、痛みまして座しにくうござって、綿などを敷く事もござったわいの。それほどにござれども、一日一夜も終(つい)に脇を席に付けませなんだわいの。
数年の疲れが一度に出まして、大病になりましたれども、かの明徳が済みませいで、久しう間、明徳にかかって骨を折り難儀をしましたわい。それから病気が次第に重うなって、身が弱りまして、たんを吐きますれば、血まじりのたんを吐きましたが、後には段々と重うなりまして、血ばかりが出ました。その時ねんごろな衆が、それではなるまいほどに、庵居して養生せよと申すによって、庵居して僕(しもべ)一人を使うて煩い居ましたが、散々(さんざん)さしつまって、ひっしりと七日ほども食がとまって、重湯より外には、余(よ)の物はのどへ通りませいで、それゆえ、もはや死ぬる覚悟をして居まして、その時思いますは、はれやれぜひもない事じゃが、別に残り多い事は無けれども、ただ平生(へいぜい)の願望成就せずして死ぬる事かなとばかり、思うていましたおりふし(その時に)、のどがいなげ(異様)にござって、たんを壁に吐きかけて見ましたれば、まっ黒なむくろじ(木の実)の様な固まったたんが、ころころとこけて落ちましてから、それより胸の内がどうやら快いようになりました所で、ひょっと一切事は不生でととのうものを、今まで得知らいで、むだ骨を折った事かなと思いまして、従前の非を知ったことでござる。・・・それより、段々日増しに快気いたし、今日までながらえて居りまする事でござる。ついには願成就いたして、母にも、ようわきまえさせまして、死なせましてござる。」


「一切事が不生でととのう」ことを知ったというのは、盤珪が或る朝、外に出て顔を洗うに際して梅の馥郁(ふくいく)たる香りが鼻をうった途端(とたん)に、「明徳」に関するこれまでの疑情が突如として雲散霧消すること、まるで桶(おけ)の底が抜けたようであったという出来事を指している。

「古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」


と、盤珪はその徹底した脱落の境涯を歌に残している。実に苦節十四、五年の挙げ句の果ての大悟であった。古人にもこれほどの苦修を行じた人は稀である。死の一歩手前まで行ったこの切実な経験から、盤珪は僧俗の弟子達に対しては、別段極端な骨折りをしなくても「不生の仏心」をわきまえさえすれば良いという、いわゆる「不生禅」を後年説くことになる。

大悟した盤珪が随鴎寺に帰り、雲甫和尚に所解(しょげ、悟った境地)を呈すると、雲甫は「お前は達磨の骨髄(禅の真髄)を会得したわい。しかし、そこに安住せずに、諸方の名僧に参問して更に向上を目指さねばならぬ」と、愛弟子の一層の大成を期待した。この様に弟子を簡単に許さず褒(ほ)めないのが本当の徹困親切な師匠というものである。後に雲甫忌に際して、盤珪は恩師の悪辣(あくらつ)振りを次の偈頌(げじゅ)に残し恩に報いている。

尋常仏を罵り又祖を呵す(日頃は仏祖にも微塵も頼らぬ)
悪辣の宗風、人悉く惶る(その峻厳な宗風を恐れぬ者はない)
今忌辰に値い一弁を拈ず(本日年忌で一弁の香を献ずるが)
この香無価、商量を絶す(この香の価値たるや、分別も及ばぬ)


雲甫和尚の勧めにより盤珪がまず見(まみ)えようとしたのは、当時天下第一の宗師として令名が高かった美濃(岐阜)の愚堂東寔(ぐどうとうしょく)禅師(天正七年ー寛文元年、1579-1661)であった。ところが残念なことに愚堂は江戸に出向いて不在であったので、盤珪は近隣の愚堂の影響下にあった禅僧らに参問したが飽き足らず、関町近くの日立に玉龍庵を結んだ。
結局、盤珪は愚堂に見えずに帰郷し、翌年、師命により中国からの渡来僧である道者超元(?ー1660)の下で修行するために長崎まで出向くのである。道者に逢うために長崎に行く熱意があったのなら、どうして美濃から江戸まで行って、道者以上の名僧であった愚堂に参じなかったのであろうか。美濃の愚堂派下の和尚達の対応に納得しなかったのも一因かも知れない。それにしても公案禅の最高峰の愚堂禅師ともし邂逅(かいこう)していたならば、盤珪のその後の不生禅の主張も必ずや変わったものになっていたであろうことは、想像に難くない。二人の真の名僧の出会いがなかったのは誠に惜しいことである。

盤珪は慶安三年(1650)美濃より帰郷し安居閉関(あんごへいかん、門戸を閉ざして人に逢わずに修行に専念すること)して、時の人の有様を観察して済度する手立てを練った。そして興福寺(悟りを開いたゆかりの野中庵)を再興した。
翌年、三十歳になった盤珪は、雲甫の命により、中国からの渡来僧、道者超元に参じるために長崎まで出向いた。道者は盤珪に向かって、「汝己事に撞着すといえども、未だ宗門向上の事を明らめず(貴公はすでに心眼を開いてはいるが、まだ禅門の更に上の境地を知らぬ)」と述べた。盤珪は当初は道者のこの言葉に承服しなかったが、道者の力量の越格(おっかく、人並み優れている)ことを認めて、修行に専心した。そして翌年、大衆と共に禅堂内で坐禅中に豁然(かつねん)大悟し、直ちに道者の方丈に至り、問答商量の末に大事了畢(仏法の一大事である真の境地を体得したこと)を認められたのである。

後年、六十九歳の盤珪は道者を懐古して次のように述べている。

「その時道者の言われましたのは、お手前は生死を超えた人じゃと申されましたが、その時分の知識(僧侶)の中でも、まだ道者ばかりがようようと少しばかり証拠に立ってくれられたようなことでござれども、さりながら、それでも十分には道者も肯いませなんだ事がござったわい。今その時のことを思いますれば、今日は道者も十分には許しはしませぬ。もし道者が帰国めされず、ただ今まで日本に生きておじゃりましたら、もっとよい人にしてやりましょうものを、早く死にやりまして、不仕合わせな人でござったが、それが残り多う(大いに心残りで)ござる」


盤珪がこのように言い切れるのは、道者の会下(えか)で大事了畢(だいじりょうひつ、仏法の一大事を体得して修行が終ること)の後も、更に自分の境涯を練り上げて向上の一路に邁進した結果である。
盤珪は言う、「禅を参究する古今の者で、ひとたび悟りを得る者がいない訳ではない。しかしながらそれに尻をすえて向上を怠れば、少を得て満足してしまうことになる。その後、よほど大法に切実でなければ、法の円熟は期し難い」と。

また、彼はこうも言っている。

「身どもが二十六歳の時、播州赤穂郡野中村で庵居(あんご)の時に体得した道理、また道者に相見して(修行成就の)印可証明を得た時と今日とでは、その道理においてはその三度の間にいささかの違いはない。しかしながら、法眼が円明になり大法に通達して大自在を得たという点では、道者に逢った時と今日とでは天地遙かに隔たるほどである。お手前方もこうしたことがあることを信じて、どうか法眼成就の日を期してもらいたい」


さて、道者の印可を蒙った盤珪ではあるが、同参の嫉むものがあるのを危惧した道者の勧めによって、道場を離れて奈良の吉野山に入って庵を結ぶことになる。
今その場所には、「盤珪和尚草庵遺跡」の碑が建っている。山居の間、盤珪は雨乞い歌(もしくは、うす引き歌)を作り百姓に与えたが、それらは当時の盤珪の痛快な心境が良く言い現わされているので、全四十首の中からいくつか引用してみよう(現代仮名遣いに直して表記)。

生れ来りしいにしえ問えば、何も思わぬこの心
惜しや欲しやと思わぬ故に、いわば世界が皆わがものじゃ
昔思えば夕べの夢よ、とかく思えば皆うそじゃ
迷い悟りはもと無いものじゃ、親も教えぬ習いもの
悟ろ悟ろとこの頃せねば、朝の寝ざめも気が軽い


秋になって盤珪は吉野から再び美濃に移り、玉龍庵に庵居した。徳を慕って十数人の者が随侍したという。その時の逸話として、癩病の乞食が時々やって来るのを皆が嫌がったが、盤珪が自分の持鉢(じはつ)で毎回癩病人に食べさせたので、一同は慚愧したという話が伝えられている。
この歳の暮に、師匠の雲甫和尚が享年八十六歳で遷化した。雲甫は上足(じょうそく、上席の弟子)の牧翁(ぼくおう)和尚に嘱して、他時異日わが宗を興隆させるのは盤珪をおいて他にはないから、山中の庵居で終らせてはならぬ、と申し渡した。
ついでながら、盤珪は美濃にいながらにして、遠方の雲甫の病や遷化を感知したというし、また野中庵での摂心の際にも、何日も前から誰それがやって来るというのを予知できたという。いわば趙能力であるが、そんなことは仏法本来の境地に比すれば取るに足らないことであるというのが、盤珪の見識であり、また釈尊の真意でもあった。

明暦元年(1655)三十四歳の時、盤珪は五人の雲衲(うんのう、禅の修行者)と共に長崎の道者を再訪した。当時、道者の法淑(ほっしゅく)の隠元が来朝し、両徒間の軋轢(あつれき、摩擦)が生じたので、道者は明国に帰らざるを得なくなったのである。隠元はその後、京都の宇治に黄檗山万福寺を開創して黄檗宗(おうばくしゅう)を弘め、江戸時代の禅界に新風を送り込んだと一般には言われているが、道者の会下(えか、弟子達)が質朴であったのに対して、隠元の会下は華美に流れる傾向があったという証言がある。

さて盤珪は長崎から平戸に移り、平戸藩主・松浦鎮信(まつらしげのぶ)公の尊信を受け、さらに越前福井の大安寺で名僧の誉れ高き大愚宗築(たいぐそうちく、愚堂国師の道友)に相見、問答商量している。大愚は、「よくやって来られた。貴僧の境地が円熟して来たと聞き及び、待つこと久しかったぞ」と盤珪の来訪をことのほか喜んだ。三十九歳の年齢差を越えた名僧同士の感激的な出会いの有様が目に浮かぶようである。二、三日の逗留の後、加賀金沢に赴いた盤珪は、道者の会下で旧知の曹洞宗の鉄心道印を天徳院に尋ねている。この鉄心も三十歳年長の名僧であった。

加賀からさらに江戸に出向いた盤珪は、浅草駒形堂付近で乞食をしていたという。これは禅では「悟後の修行」といって、京都大徳寺開山・大燈国師の五条河原での乞食修行の先例もあるように、自分が得た境涯が日常万般の上で自在に使い得るかを試みるのである。


摂化と家風

明暦三年(1657)の三十六歳の時、四国伊予の大洲(おおず)藩主加藤公は返照庵を建立して盤珪を招いた。秋には盤珪は郷里に帰り、長福寺を再興し、冬には備前岡山の三友寺において法兄の牧翁和尚より嗣法の印可状を得た。越えて三十八歳の時、京都に上(のぼ)り、大本山妙心寺の前版職に転じ、ここで始めて「盤珪」と称することとなった。

これより各地を回って説法や摂化(せっけ、衆生済度)に勤めるのであるが、その拠点となったのは、盤珪創建の三大寺として知られる、網干(あぼし)の龍門寺・大洲の如法寺・江戸の光林寺である。この間に京都の山科に地蔵寺を再興し、寛文十二年(1672)には妙心寺で開堂式(大本山住持職になるという重要な演法の儀式)を行った。

盤珪四十歳の時、竹馬の友である郷里浜田の富豪灘屋・佐々木道弥が二人の弟と共に、盤珪を開山とする龍門寺を建立したが、これは盤珪の最大規模の根本道場となった。龍門寺創建当初のものと思われる偈頌(げじゅ)が残っている。

菴中独り弾ず没弦琴
聴き得て何人か竹林に到る
調べは古く格は高し我家の曲
普天匝地(ふてんそうち)知音少(ちいんまれ)なり


「この龍門寺に端居して弦のない琴で(分別を越えた)宗旨を日夜奏(かな)でているが、果してこの竹林軒(盤珪の居室)を訪う多くの者のうち、その音なき音の真意を会得(えとく)している者がどれほどあろうか。わが仏法の調べは古くてあまりに格調高き故に、この広い天下を見渡してみても、この盤珪の真境涯を知ってくれる者は稀である」という趣旨である。

苦修のせいで病弱であった盤珪は、四十三歳の時に京都山科の地蔵寺に住して以来、この地の閑静さを愛してたびたび閉関した。「閉関」とは固く門戸を閉ざして人事を謝絶することであるが、そうはいっても修行者の参禅くらいは聞いたであろう。盤珪自身はそれが「当時の人々の心の働きを見て、何とかして一言で人々の心にかなうようにと思い、遂に『不生』ということだけを強調する行き方を唱え出した」と述懐している。

この地蔵寺逗留中の逸話であるが、食事に際して盤珪が、「今日のおかず(菜)はよく煮えてよい味である」と言うと、供給の小僧が、「大梁(だいりょう)が鍋の中から老師の分だけ特別に選んで盛りつけました」と答えた。師の盤珪より十六歳年少の大梁祖教(寛永十五年ー元禄元年、1638-88)は、盤珪の一番弟子を以て目(もく)される人であるが、極端な刻苦修行のせいで病弱な師匠を気づかってそうしたものであろう。だが、盤珪は「鍋のうちにて差別を致す」と言って、それを厳として退け、その後はおかずを食べなくなってしまった。大梁の方も同様におかずを食べずに数ヶ月が経った。それを聞いた盤珪は、「大梁は食べずばなるまい」と言って、自らおかずを食べたので、大梁も再び食べるようになったという。

この逸話からは、盤珪の以身説法の峻厳さと、「この師にしてこの弟子有り、この弟子にしてこの師有り」とも言うべき、他人の伺い知ることのできぬ濃(こまや)かな師弟の情が伺える。殊(こと)に大梁には自分の後事を託(たく)するに足る大器として期待をかけていただけに、盤珪は厳格に臨んだようであり、この逸話のような対応がしばしばあったと言われている。しかし惜しいかな、大梁は師の盤珪に先立って享年五十歳で遷化してしまうのである。

盤珪の大慈悲心に関しては、次の逸話も伝えられている。

龍門寺大結制の時、或る僧が来たって掛錫を願った。先に結制に参加していた僧の中に、この僧の日頃の行いをよく知っている者がいて、取締役の僧に告げて言うには、「あの僧は盗み癖があり、色んな道場で追い出された者です。そのことは私一人だけでなく、何人かの者がよく知っていることです。もし結制中に盗み癖がでれば、皆の修行の妨げとなるかと思い、お伝えする次第です」と。このことを訴えたところ、盤珪は大層叱責し、「私はいま請われて結制をしているがそれは他でもない、ただ悪人が悪を改め、善人が善を勧めることのためではないか。それに、自分達は問題がないが、あの僧は悪人であるといって排斥しようとするのは、大いにわが本志に背く」と言った。

このことを伝え聞いたかの僧は、大声で号泣して、「私は今日大善知識の深き大慈悲心を知り、未来永劫(えいごう)悪心を断ち、仏道修行に励まん」と誓い、それ以後、大衆に傑出した修行振りを到る処で貫いたという。

盤珪四十八歳の時、加藤泰興(やすおき)公は伊予の大洲に如法寺を創建し、盤珪を開山として迎えた。盤珪は如法寺の裏山が山紫水明絶妙なのに感嘆し、ここに奥旨軒(おうしけん)という草庵を建てて閉関した。後には公案を排斥することになる盤珪であるが、この頃はまだ公案を使用して修行者を接得していたと伝えられる。だが、信徒が応接に暇(いとま)もないほど殺到してくるので、五十歳の冬には英霊漢二十数名を引き連れて再び奥旨軒に閉関し、一冬の間に横になって寝る者が一人もいないような激しい修行を行った結果、遂にぶち抜いて悟る者が多かったという。

かくして、元禄六年(1693)九月三日に七十二歳で龍門寺において遷化(せんげ、逝去のこと)するまで、盤珪は諸方で結制(修行僧の期を定めての集団的修行)すること十五度に及んだ。元禄四年の龍門寺での結制では、実に千三百人の僧侶が結集したという。在俗の男女の聴聞に参集する者その数を知らず、仏教各派の僧侶や儒者までもが弟子の礼を取り、その指導を受けたという。盤珪の弟子の数も、男僧四百人あまり、尼僧二百七十人、法名を授けられ弟子の礼をとった者五万人あまりであり、その開創する寺院四十七、歿後に勧請(かんじょう)して開山とする寺院百五十あまりにのぼる。その仏道と徳との影響力が如何に広大なものであったかが知られるのである。

盤珪の風格は「風度超逸、淳実慈愛」と伝えられるように、大慈悲心の権化(ごんげ)ともいうところがあった。その家風は「身どもは仏法をも説かず、また禅法をも説かず」といい、ただ「身の上批判」をして「不生の仏心」を説くだけであったがために、「不生禅」と呼ばれている。古来の棒喝を行じて来た禅僧とは異なり、盤珪は自らの体得した体験的真実を如実に伝えるために、漢文によらず分かり易い平話を用いて説法して僧俗を安心立命させた。また臨済宗に属する身でありながら、公案をほとんど用いず、その臨機応変の活作略(かっさりゃく、活き活きした対応)により直下(じきげ、立ちどころ)に学人の眼を開かせたのは、盤珪の腕力である。禅の特徴的行き方である「直指人心」とは本来そうしたものであろう。


説法の核心

盤珪の説法はこのように、簡単明瞭にしてすこぶる痛快なものなので、以下に於て盤珪自身をして語らしめよう。

「人々みな、親の産み付けてたもったは、不生の仏心一つでござる。余のものは一つも産み付けはしませぬ。この不生にして霊明な仏心で一切事がととのいまする。」

「その仏心のままで得居ませいで(いることができずに)、地獄餓鬼畜生等の、あれに仕替えこれに仕替えて迷いまする。総じて一切の迷いは身のひいき故に出かしまする。向こうの言い分に貪著して、ひたもの(ひたすら)念に念を重ねて相続して止まず、仏心を修羅に仕替え、仏の身が凡夫になりまする。」

「迷わぬが仏、悟りで、外(ほか)に悟りようはござらぬ。不生で居る迷わぬ者に悟りは入りませぬわい。一人も只今の場には凡夫はござらぬ。」

「身どもはむだ骨折りが身にしみて、皆の衆に楽に法成就させたさに、こうして精出して説法し催促することでござる。盤珪がように骨折らずとも楽に法成就ができまする。」

「今日生まれ変わったように始めて示しを聞くように聞けば、内に一物がないから法成就が早くなりまする。」

「皆、身どもが言うように、身どもが言うに打ちまかせて、身ども次第にして、まず三十日不生で居て見さっしゃい。三十日不生で居習わっしゃれたら、それから後は・・・、見事不生で居らるるものでござるわいの。さて、すれば(そうならば)今日の活仏(いきぼとけ)ではござらぬか。」

「身どもが法は、諸方の如く、目当てをなして、或いはこれを悟り、或いは公案を拈提することなく、仏語祖語によらず、直指のみにて、手がかりのなきことゆえ、素直に肯(うけが)う者なし。」

「たとい十成(じゅうじょう、完全)に肯う者なしといえども、身どもが法は金子(きんす)のまるかせを打ち砕き散らしたるようなるもので、一分とりたる者は一分光り、二分とりたる者は二分光り、乃至一寸二寸、分相応に利益(りやく)あらずということなし。」



参考文献:

『盤珪禅師全集』(大蔵出版)
『盤珪國師之研究』(春秋社)
『盤珪国師語録』(岩波文庫)
『盤珪の不生禅』(鈴木大拙全集)


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