「更に参ぜよ、三十年」( 月刊コラム【No.75】2009年8月 )
わが光雲寺では近ごろ耐震補強に加えて庭園整備も順次行なっている。東福門院が寄進された仏殿の前庭整備が終わり、今年から来年にかけて京都市指定の名勝庭園である植治(七代目小川治兵衛)作庭の中庭の復元を予定している。
この庭園整備計画会議の中心となっておられるのは「植治の庭」の最高権威である尼崎先生であるが、この先生と京都市文化財保護課からご紹介頂いた二人の庭師の方が中心になって実に熱心に仕事をして下さり、前庭が以前とは見違えるほどになったのはありがたいことである。
墓参の檀家さん方や訪問客も「きれいになりましたね」と大いに喜ばれるのは住職としてうれしいことで、長年放置されていた前庭や池を思い切って整備してよかったとつくづく思う今日この頃である。無論、光雲寺からも住職を初めとして弟子たちなどもできる限り荷担したのであるが、この経験を通して色々と反省するところがあった。
寺院というのは元来「清浄の伽藍」であるべきものである。修行に出る以前に雛僧(すうそう)が学ぶべき『雛僧要訓』にも、「総じて阿蘭若(あらんにゃ、出家の住居)の境は平生清浄にして、俗家の来詣(らいけい)する者をも浄心を起こさしむること、法中の教えなり」とある。門前を毎朝掃除し境内や墓地の除草をするのは寺院生活者として最低限の務めであろう。
しかし、「清浄の伽藍」を維持するのは「言うは易くして行うは難し」で、そんなに簡単なことではない。特に雨が降り続く梅雨どきなど、雑草は抜いた後から瞬く間(またたくま)に成長する。前述の庭師さんらが、「私らは最初に作るだけで、日々の維持管理はお施主さんの方でやって頂くことになります」という通り、作庭は一端のことであるが、清浄を維持していくのは毎日の隠れた努力の継続が必須となる。
しかし、有り難いことに、雑草が生えるから除草の作務ができるのである。小衲の経験から言えることは、草引きをしながらの公案工夫ほど乗るものはない。「公案工夫」とは禅の名僧が悟りを開かれた機縁に一心不乱の三昧になることにより、名僧と同じ境地に到ろうとするものである。そのうちもっとも有名で基礎的な公案が「無字の公案」である。早朝掃き掃除をした後で、庭や墓地の除草をするのは無上の喜びである。
弟子たちには「四六時中、作務(さむ)をしながらでも無字三昧の工夫をせよ」と始終言っているので、掃きながら草を引きながら「無ー無ー無ー」とやって法悦境を育てているようであるが、師匠である小衲の眼から見れば、またまだ工夫の真剣味が足りない。第一、師匠に言われなくても目の色を変えてやるというのが本当である。公案工夫や禅の生活における日常の一挙一動はいくらでも向上洗練の余地がある。どこまでいっても、「未在、未在」(まだまだ)である。そこが実に有り難い。
先述の二人の庭師さんたちは、お一方(ひとかた)が三十五年の、もう一方が二十年の経験のある大ベテランであるが、一方は独りで仕事をうけおい、いま一方は造園会社に勤務中であるが、実に息の合ったコンビのように見える。小衲が感心したことは、二十年の経験のある方が、庭の整備について三十五年の大先輩に逐一聞かれて指導を仰いでおられたことである。しかし、三十五年の経験のある方も決して増上慢になることなく、「結局、毎日をそこで暮らしておられるお施主さんのご意見が一番尊重されなければなりません」と言われる。小衲の意見を取り入れてもらって、結果的に「よかった」と言われたことが何度もある。
弟子たちには、「見ろ、庭師さんの修行も、十年、二十年でもまだまだ不十分だと感じておられるぞ。まだまだ向上の余地があるということだ。禅の雲水修行が、たかだか三年や五年で済むと思ったら大間違いだ」と忠告したことである。名僧の行応禅師が前述の『雛僧要訓』の中で、「小年より(若い頃から)住院は遅く、修行の間は長きように祈るべし」と訓戒されているにも関わらず、近年ますます雲水の修行期間が短くなりがちであり、僧堂の老師方も苦慮しておられる。これは雲衲の師匠方も心せねばならないことであろう。
禅の修行は雲水時代が一番の華である。工夫三昧の毎日を送っていれば、これほど充実して楽しいことはない。法悦の醍醐味を日々味わって過ごすのが雲水生活の何よりの悦びでなければならぬ。
小衲も二十五歳の折りに、長岡禅塾で学徳兼備の名僧であられた五十歳年長の森本省念老師の薫陶を頂いたが、いまもし老師がご健在ならば、いまこそご指導を仰ぎたく思う。
小衲が亡き弟の拈華室(ねんげしつ)芳州老師と共に、相国寺前管長の梶谷宗忍(止々庵)老師から印可証明を頂戴したとき、お願いして「更に参ぜよ、三十年」の墨跡を揮毫(きごう)して頂き、「この気持ちを忘れぬように致します」と申し上げたが、果たしてその後、真に研鑽の日々を積んだかはなはだ心もとない。
出家在家を問わず、禅に志す方々は思う存分工夫三昧に徹せられて、のちにほぞを噛むことのないように無上の法悦を得て頂きたいと願わずにはおられない。
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