2月のコラム: 「名君の仁政」
全世界の注目を集めた米国大統領就任演説が執り行われてオバマ政権が無事に発足した。長期間の大統領予備選を伴う直接選挙で最高指導者を選ぶという米国の活気あふれる政治状況を、わが日本の政治の現状と比べ、羨望の念をもってご覧になった方も多いことであろう。
「定額給付金」などという、有権者に媚を売ろうとして却ってそっぽを向かれているような情けない政策しか思いつかぬようでは、この国の政治家たちの不甲斐なさはあきれるばかりである。だがもともとわが国には比類なき仁政を行なった一握りの卓越した指導者がかつては確かにいたことを想い出して頂きたい。
最近、徳川家康公の『御遺訓』と称される『松永道斎聞書』をふたたび拝読する機会を得た。月例坐禅会に参加する西欧外交史を専門とする大学院生との会読である。「天下太平・治世長久は上たる人の慈悲にあるぞ。慈悲とは仁の道ぞ。おごりを断って慈悲をすべての根本と定めて天下を治めよと申さねばならぬ」(『聞書』54頁)と言い切られた家康公の高邁な見識に触れて、お互い感激一入(ひとしお)であった。
これに対して、彼が専攻する西欧の政治は、いずれの国も結局は武力や権謀術数をもってする「覇道」であって、徳や慈悲をもってする「王道」とは決していえない、そこにどうも物足りなさを感ずる、ということであった。わが意を得たりと、家康公が四書の中でもっとも尊重された『孟子』や、経世済民(世を治め民を救う施策)の模範とされた唐の太宗の『貞観政要』などの重要性について会読後にお話しした次第である。
また以前に知り合いの方から是非にと勧められて購入し、なかなか読む機会のなかった中村彰彦著『名君の碑』(文春文庫)を近頃読んで、徳川四代将軍家綱の輔佐役であった保科正之(ほしなまさゆき)の仁政に驚嘆したことを、彼に話したところ、「西洋ではそのような人はかつてありませんでした」と彼も感激していた。
保科正之は朝敵の汚名を着せられた会津藩主松平家の祖である故に、明治以後は歴史の闇に葬られていたが、中村彰彦氏の一連の著作により復権された近世屈指の政治家である。
保科正之は、光雲寺中興開基の東福門院には異母弟に当るお方であり、東福門院の実兄であった家光公を支え、その亡きあとは甥の家綱公を輔佐して合議政治による類い稀なる仁政を行なった。武断政治から文治政治への政策を転換していわゆる「徳川の平和」(パックス・トクガワーナ)を実質的に築いたのは彼の功績である。
すなわち幕閣としては、改易によって増大した浪人への対策、殉死の禁止、玉川上水開鑿(かいさく)の建議と実行、江戸の町の六割が焦土と化し十万人以上の死者が出た明暦の大火(いわゆる「振袖火事」)後の江戸の計画的復興などを行なった。また会津藩初代藩主としては、社倉制度を創設して飢饉の備えとしたり、間引きの禁止、本邦初の国民年金制度の創設、旅人などに対する救急医療制度の創設、会津藩の家訓の制定など、いずれも卓越した業績であるといって良い。
保科正之には『易経』を出典とする「亢龍有悔」という墨跡が今に伝えられている。「亢龍」(こうりゅう)とは「あまりに高い雲なきところまで登りつめた龍」である。「悔(くい)有り」というのは、その龍のようにあまりに上りつめ、進むことを知って退くことを知らないと、往々にして驕りが出て部下にも愛想をつかされ、輔佐するものもいなくなり、悔いが生ずるということである。
保科正之は三代、四代将軍から最も信頼され、しかも二代将軍秀忠公の実子であった。「亢龍悔い有り」という気持ちで常に自らを戒められたものに相違ない。それと共にまた位人臣を極めることなく、小を得て足れりとする「知足」の精神を生涯貫いたのは、「亢龍」の危うさを知悉しておられたからではなかろうか。
政治不毛の現在、党利党略等のしがらみを断ち切って、徳川家康公や保科正之公のような民衆を真に慈しむ仁政を行なう政治家の出現を期待してやまない。
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