1、良寛さんの境涯
良寛さんの「起き上がり小法師(こぼし)」と題する短い漢詩がある。これは玩具のダルマのことである。
人の投げるにまかせ、人の笑うにまかす
さらに一物の心地に当たる無し
語を寄す、人生もし君に似たらば
よく世間に遊ぶに何事か有らん
玩具のダルマは人に投げられても投げられたまんま、
笑われても笑われたまんまで、それに対して何らの感情や妄想を起さない。
もし我々人間も君のような生き方ができるならば、人生を暮らすのに何の苦労もないであろうに。
自ら「大愚良寛」と称した良寛さんは、人生を安楽に暮らす極意をこのように説いている。
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良寛さん(宝暦八年―天保二年、1758−1831):曹洞宗の名僧。新潟出雲崎の名主の家の長男として生まれ、のち十八歳で出家。岡山玉島円通寺の大忍国仙のもとで修行し、その印可を得た。名利に超然として清貧に甘んじ、一生を草庵のわび住まいで通した。
その超脱の風格は多くの人々に慕われているが、良寛さんの高邁深遠な境涯は、体験なしには容易に理解し難いものである。「知音(ちいん)稀なり」(その真の境涯を知る人はほとんどいない)と言ってよい。
2、「大愚」とは
とはいえ、現実には多くの人がさまざまな困難に出会って苦しんでいるのではないだろうか。それは眼をいつも外に向けて、問題の所在を他のせいにするためである。それでは不満は尽きることがない。いわば、問題を自分で作り上げてしまっているのである。
しかし、実は問題は自分自身にある、と知らねばならない。
良寛さんのいう「起き上がり小法師」のように、すべての出来事に任せ切って自分の余計な思惑や分別を立てなければ、どんな難事も難事でなくなってしまう。またそういう明鏡止水の心境であってこそ、何事にも自在に対処することが可能になるであろう。
良寛さんの有名な言葉、
災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候(そうろう)。
死ぬ時節には、死ぬがよく候。
というのも、このことである。それでこそ、自信を持って、「これはこれ災難を逃るる妙法にて候」ということが出来たのである。
これが「大愚」の境地である。
良寛さんはもっともこの「大愚」を生きた人と言えるであろう。その師である国仙和尚も、印可の際に「良寛」という二文字を入れて、「良や愚の如く、道うたた寛し」と、その「大愚」の境地を称賛されている。
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3、苦のもとは自我の執着
これに対して、妄想や執着があれば、そこから悩み苦しみが起こる。お釈迦様は特にこのことを強調された。執着によって自我意識が生じ、我が身のひいきをして身勝手に振る舞い、相手のことを先んじて思いやることがないから、今も昔も世の中に争いや不満が絶えないのである。何と不幸で愚かなことであろう。
これは個人のみならず、国家でもその通りである。現代の世界情勢をご覧になれば、このことは納得されると思う。
東洋古来の聖賢や仏祖は、いずれもこれを憂慮されて、古典学習を通じて「聖人の道」を学び、また「無我」すなわち「大愚」の境涯を養う必要性を力説されてきたのである。
元来「我が物」などといって執着すべきものは、何も無いはずである。いくら執着したとて、我が身すらいつまでも保つことはできないではないか。
しかしこの「はかなさ」(無常)こそが実は、我などに執着して苦しむことは無用であるという、「無我」の真実からの朗報なのである。普通は何か「我」という堅固な実体があるように錯覚しているが、そんなものは無い。
古人はこの間の消息を、
引き寄せて結べば草の庵(いおり)なり
解かでそのまま野原なりけり
と表現している。草で作った庵は、解体しなくても、そのままで実体の無い「空」なるものだということである。
私達も「執着すべきものは何も無い」と自覚して、さまざまな出来事に出会っても余計な妄想煩悩を起さないように努めれば、次第に自我の執着がはげ落ちて、心が軽くなり明るくなって来るはずである。
そうすれば、「楽しい人生」は約束されるはずである。
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4、「楽道」のこころ
先に述べた、我の無い「本来の自己」の姿を、東洋ではまた、「仁」「性善」「至誠」「仏心」とも言う。
臨済宗の開祖である臨済禅師も、古人の言葉を引いて、
形のある身体は、我々の本来の悟りの有り方ではない。
身心ともに形のない自分こそ、真の姿なのだ。
(有身は覚体にあらず、無相すなわち真形)
(『臨済録』示衆、岩波文庫旧版、79頁)
と断言しておられる。
無我であってこそ、真に相手の立場になって考えることができる。大愚であってこそ、苦が苦でなくなる。そして大愚であり無我であれば、本当のまごころ、すなわち「至誠」から行動できるのである。
臨済禅師はまた、
一切のはからいをやめて、無事でいるのが一番だ。
すでに起った妄念は、二念をつぐな。
まだ起らぬ妄念を、わざわざ生じさせてはならぬ。
そうできれば、君たちの十年の行脚(あんぎゃ)修行にもまさるであろう
(已起の者は続[つ]ぐことなかれ、未起の者は放起することを要せざれ。すなわち汝が十年の行脚に勝らん)
(同上書、90頁)
と喝破されている。
根本の心に雑念がなければ、何をしても何事に対しても心を乱されることなく、いつも「楽しみ」が心から離れることはない。
この「楽道」の心境で生きるのは決して難しいことではない。
望み次第で誰しも手が届くうれしい境地なのである。
さあ、余計な念を起すのをやめて「大愚」という「無我」を行なうことにしよう。そして、こころ軽やかに「楽道」の世界に遊ぼうではないか。
以下の章では、歴史上の人物を例に「楽道」および「無我と至誠」ということについて、さらに具体的に掘り下げて行く事にする。
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