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黒住宗忠

宗忠は、心の根本である「無」を養うことによって、神の御心(天地の活きもの)と人の心とが一体になり、生死を超越した「生き通し」の境地に至るとした。その醍醐味を味わい尽くした上で樹立された「黒住教」は、真の宗教たる普遍性を具えている。

   
1、天命直授
2、宗忠の境涯・「無」と「誠」
3、無を養う妙味は比類なし 
 


 

1、天命直授

日本の宗派神道のさきがけとなった黒住教を樹立した黒住宗忠(くろずみむねただ、安永九年ー嘉永三年、1780―1850)は、無師独悟で「無我・至誠」の境地を真に我が物として、縦横自在に教化を行なった稀有の人物である。

日本古来の神道を職業とする家に生まれた宗忠は、幼時からすこぶる孝行心が厚かった。十九歳にして彼は、「心は神である」という一句を室町時代の神道家である吉田兼倶(かねとも)の『神道大意』の中に見つけて、それ以来「生きながら神になる」という途方も無い念願を持つことになった。
ところが宗忠が三十三歳になった時、図らずも両親が流行病のために引き続いて死去してしまい、悲歎に暮れた彼は遂に胸部疾患の大病にかかり、瀕死の状態に陥ってしまった。

覚悟を決めて死を待った宗忠がふと気付いたのは、自分は父母の死を悲しむあまり陰気になったために大病になったのだから、心さえ陽気になれば一転して病気は治るはずだということであった。こうして、天恩の有り難さに心を向けると、不思議なことにいつの間にか病は軽くなった。

冬至の日に、入浴後に太陽を拝みたいと言い出したので、妻は衰弱していた宗忠の身体を気づかって反対したが、彼は神職としての正装をして日の出を待った。やがて東方の空に姿を現わした荘厳な太陽に対して、彼はかしわ手を打って一心不乱に拝み、思わず知らず太陽の陽気が身体全体に透徹して全身が太陽のコロナの様な霊気に包まれた結果、彼は万物の根源である天照太神(あまてらすおおみかみ;宗忠は「大神」をこの様に書いた)と同魂同体になったと直感した。

この時に「天地生々の霊機(活きもの)」を自得した宗忠は、人間は元来永遠に「生き通し」であり、生死から自由な存在であることを自覚したのである。この根本経験のことを、黒住教では「天命直授(てんめいじきじゅ)」と呼ぶ。

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吉田兼倶(永享七年ー永正八年、1435〜1511)・・・室町時代後期の神道家。京都の吉田神社を拠点に唯一神道を創唱。

 

2、宗忠の境涯・「無」と「誠」

この経験について彼は後にある人にあてて次の様に述べている。「道とは『満ちる』ということであり、天照太神のご分身が満ちて欠けないようにしなければならない。人は陽気がゆるむと陰気が強くなるものである。陰気が勢いの有る時が穢(けが)れである。それは気枯れ(『穢れ』と同音)であり、大陽(根本的陽、『太陽』と同音)の気を枯らすので、そのためにさまざまな難儀が生ずるのである」。

これ以後の彼は、自分だけがこのような類い稀な恵みを受けて、他の人に恵まないのはご神慮に背くと考え、この使命感から教えを説き始めた。それと共に、まじないによって多くの病人を無料で治すという一種の霊的治療を行なった。彼の治療によって多くの瀕死の重病人が即座に治るという奇跡が立て続いて起こった。長年の足なえや盲目を直ちに治したのは、何かイエス・キリストの奇蹟を彷彿とさせるであろう。

しかし宗忠にとっては、「病の治るを『いろは』(入り口)として、次第に誠の道に入らしめる」ことが目標であった。誠の道はまた、歓びと楽しみに満ちた「神ながらの道」であり、「生き通し」とも呼ばれる。「天照らす神の御心人心、ひとつに成れば生き通しなり」と、彼はその心を歌に詠(よ)んでいる。

彼の道が興隆してくると、外部から様々な中傷が浴びせられたが、彼はそれに対して何ら弁明することもせず、未だ徳が足りない自分にはかえって恰好(かっこう)の修行の機会であるとして、更に厳しく自己反省し、四年がかりの一千日参籠(神社にこもっての祈願)と十ヵ年予定での毎月に百種の神社参りとに、次々取り掛かった。更にその間、あの交通の便の悪い時代に、自分の住む岡山から、日本における神社の中心をなす遠距離の伊勢大神宮への参宮(さんぐう)も何度か試みている。

宗忠の講釈は、自我を離れて無我になり、意識することなく自然に口を突いて出るものであった故、彼はそれを「天言」と呼び、「日の大御神直伝、鎮魂の大道」という大いなる自覚を持つに到った。

彼は聴衆に対しても次の様に語った。「さて私は何も知らず、書物にも依らず、(中略)儒仏も知らず、何を説こうという思いも有りません。ただ天照太神のご神慮を受けてこの高座に登れば、ご神慮が自然と私の胸に満ちて、スラスラと流れ出ます。(中略)従って、私の講釈を宗忠の講釈と思わずに、かたじけなくも天照太神のご講釈だと思って、先ず疑いを払い、旧(ふる)く思い得られた道理をなげうって胸を虚(むな)しくし、天真爛漫に心を新たにして聴いて頂きたい。・・・中略・・・よくお聴きになれば、たとえ今死にそうな重病でも、講釈が終わらないうちに癒えます。」

宗忠にとっては、無我になることは万物の根源である天照太神と同魂同体に成ることを意味していた。そして誠にすっかり任せ切って、「我がまるで無くなれば、天地が結んでいた心の活(い)きものが初めて目覚めて、夢が覚めるようなことになる。」

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3、無を養う妙味は比類なし

彼はまた当然のことながら、「有り難い」という感情を重視した。

彼は言う、「何事も有り難い有り難いと日を送られたならば、全てのことが残らず有り難くなる。もとより有り難いばかりの御身の上ですから、少しもご油断ございませんように。(歌)『何事も有り難いにて世に住めば、向かう物事みな有り難いなり』。善悪共に有り難いと思えば時々事々に有り難くなります。・・・中略・・・みな形の上では難が有るのが形の本来の姿です。しかし我々の修行は難を難とも思わないのが修行ですから、苦になることは有りません。苦にならぬ時はあとは楽しみばかりです。その心は道そのものですから、道に心が安住している時には大安楽です。言うまでもなく、心次第で楽しみは思いのままとなります。」

宗忠によれば、われわれは通常の我見我欲があるがために、唯一の「活きもの」である心が晦(くら)まされていることになる。そこで彼は、そうした有るもの(分別)を払い去って一物も残らぬほどにする「常払(じょうばら)い」を間断無く努めることによって、無に到ることが出来る、とした。

「無に到ってもなお止めなければ、有り難く嬉しく面白いことの、何に譬えようもないほどの妙味がある。これが天心に到るということである。天心は天地の心、天地の活きもの、即ち天照太神一体である。」

彼によれば、われわれは皆もともと無い所から出て来た身であり、心の根本である無を常々養うことこそ、天照太神の御霊(みたま)を養うことである。彼は「活きものは無の中に有る」とも言っているが、日頃彼がどのような心境でこの無を実現していたかに就いては、次の言葉がある。

「今世界中で、私ほど無念無欲の場で勤めている者はあるまいと思う。私が今ここでこうしている時、胸中をさっぱり払い去って一念も無く、すべて体中なんにも無い。心はまるで天にお返し申している故、活きものはまるで天地に満ち満ちて有る。が、有り難いことには、またスゥーとここに戻って来るのである。」

黒住宗忠がいかに無の境地を体得してそれを養ったかに関しては、彼自身の言葉に即して述べてきたことで、おおよそ窺うことが出来るであろう。

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(参考文献)
『黒住教教書』
原敬吾『黒住宗忠』(吉川弘文館、人物叢書)
村上重良校注『生命の教え、民衆宗教の聖典・黒住教』(平凡社、東洋文庫)

 

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