2月のコラム「武士道について」
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今月は「武士道」についてお話ししたい。
「ラストサムライ」という映画が上映された際、米国よりも日本の方が格段に観客の数が多かったと聞いている。米人監督は西郷隆盛の事蹟に触発されて、明治になって時代遅れになりつつあった「武士道」の中に、尊敬に値する美徳の数々を見出したようである。主演のトム・クルーズも、「日本人と日本文化、ことにサムライの精神には、以前から深い敬意の念を抱いていた」と述懐している。多くの日本人達は、自らが忘れ去っていた「武士道」の何たるかを再認識すべく、この映画を見たものであろう。
しかし、「真の武士道」とは一体何だったのであろうか。新渡戸稲造の著名な『武士道』にしても、隔靴掻痒(かっかそうよう)の感を免れ難い。これに対して山岡鉄舟の『武士道』(大東出版社)は、さすがに無刀流の開祖で、剣・禅・書の根源を極めた人物の見識故に、根本的かつ高邁であり、最も信頼するに足る一書と言えるであろう。
そもそもこの書の成り立ちは、鉄舟門下であり前滋賀県知事であった籠手田安定(こてだやすさだ)が、胃ガンを患って前途が危ぶまれる達道の人である鉄舟に懇願して、明治二十年(1887)に「日本人の真の生き方」としての「武士道」についての話を聞いたものである。傍聴者の中には、井上毅(こわし)、中村正直、ボアソナード(仏人法学者)など第一流の人物が含まれていた。当時鉄舟は五十一歳で死の前年であったが、熱誠を傾けて説き尽くし、ために一衆みな感涙にむせんだと言われる。
鉄舟は、「拙者の武士道は、仏教の理より汲んだことである。それもその教理が真に人間の道を教え尽くされているからである」と述べ、更に武士道を「日本人の踏み行うべき道」と特色付け、その道の淵源を「無我」の境地に求めている。
そして「要するところ、人は至誠をもって四恩(父母・衆生・国王・三宝の恩)の鴻徳(こうとく、大きな徳)に答え奉り、誠をもって私を殺して万機(重要事)に接すれば、天下敵無きものにして、これがすなわち武士道である」と述べ、わが国固有の神道も視野に入れて、「神儒仏三道一貫の大道」こそ、日本国が「東方君子国」の威名を保ち、世界に誇り得る所以であると断言している。
従って、鉄舟の言う「武士道」とは何も武士だけの道ではなく、「日本人の道」という方が妥当であるが、武士階級がとりわけ実践躬行してその光輝を放ったので、語弊を生じ易い言い方ではあるが「武士道」と称するのであると、鉄舟自身説明している。 事実、鉄舟は武士階級勃興以前の上古から説き起こし、菅原道真公や平重盛公などをも「武士道の精華」の体現者に数え入れている。
鉄舟が最も力説したのは、彼自身が属していた徳川時代である。彼は「徳川時代くらい武士道に大関係のある時代は稀である」として、維新の大業もその結果であると断言している。 当然のことながら、応仁の大乱以後の世相の混迷を収束させて天下統一し、万民を泰平の安きに置いた徳川家康公への評価は最大限である。
鉄舟は言う。
「家康公は尋常一様の凡俗ではない。政治家として一点の足らないところがない。それで天地大道に基づいて治国の策を講ぜられた。そもそも家康公が将軍となったのは、大いにこれを胚胎(はいたい)せしめたのは・・・真の武士道である。
例えば、公が部下を率(ひき)いるにも、専心に道の重きを説き聞かせ、もっぱら神儒仏三道一貫の大道を示し、忠孝・節義・勇武・廉恥の観念を誘導奨励し、堅忍・耐久して利慾を制止し、自身自らこれを実践躬行されたのである。
それゆえに、天下治制の策を講ずるに至りても、以上の趣旨を貫き、勤倹尚武に道義的文教を練りこみ、人情道徳をわきまえさせたから、鎌倉前後の武士的精神に文的教理をもって、あたかも生糸の妙術を得た織工が具合よく、あやどりして布にしたように、真日本人にさしつかえのない完全美徳の倭人(やまとびと)ができたのである。」
さすがに至誠無我の達道人、鉄舟ならではの高邁な見識であり、家康公の功業の真意義を解き明かしてあますところがない。家康公の言行の同時代者による逸話集である『披沙揀金』(ひさかんきん、全国東照宮連合会編)を拝読すれば、鉄舟のこの言葉が決して溢美(いつび)の言でないことを、誰しも認めざるを得まい。
その家康公にして、生涯に二度にわたり武運すでに尽きたとして自害せんとしたことがあったと言われる。最初は、三十一歳の折りに三方ヶ原の合戦において武田信玄に惨敗を喫した時であり、二度目は、信長に招かれて安土から堺を見物中に本能寺の変が勃発して、伊賀越えをして岡崎にまで帰還した時である。それを押しとどめたのが、徳川家きっての猛将であった本多平八郎忠勝である。
すでに信長は忠勝のことを「花も実も兼ね備えた三河武士である」と家臣に紹介した。小牧・長久手の合戦においては、秀吉の大軍が家康公討伐に向かうと知って、忠勝はわずか五百騎で秀吉軍と並走してこれを攪乱せんと試みた。
忠勝の所業であることを知った秀吉は涙をはらはらと流し、「五百に足らぬ軍勢でわが八万の軍に並走せんとするのは、千死に一生もない危ういことである。しかるに道を手間取らせ、わが主君の軍に何とか勝利させたいという志は、その勇といい忠といい、誠に類いなき本多かな」と言って、かような武士の鑑(かがみ)を討ってはならぬと厳に戒め、忠勝を「日本第一、古今独歩の勇士」と激賞したという。ここに武士道の一端が垣間見られる。
この忠勝の武勇伝は『常山紀談』(巻之六)に載っているが、曾て独創的哲学者の西田幾多郎博士は、この書を「日本人の真精神を学ぶための必読書」と称揚されたと聞く。博士は「武士道」の中に日本人の醇乎(じゅんこ)とした精神性を看て取られたのであろう。
「武士道」とは決して戦いの道ではない。新渡戸稲造も、勝海舟が幕末の動乱の渦中に身を置き幾多の刺客に襲われながらも、只の一人も殺さなかった実例を引いて、「武士道の窮極の理想は結局平和である」と明言している(『武士道』岩波文庫版 114頁)。
イラクで罪なき多くの人達を殺害している米国や、それを黙認して追従している日本などの政治家達も、人を活かす「真の武士道」を知って、無益な争いは止めて世界平和のための「仁政」を行って頂きたいと切に願わずにはおられないのである。
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Vol.23 年頭所感 (2005年1月)
新年明けましてお目出度うございます。
今年こそは良い年になることを願いたいが、昨年を回顧すれば、天災・人災など問題が噴出してとどまることがなかった。とりわけ青少年による凶悪な犯罪が激増の一途を辿っているのは、まことに危惧すべきことである。これは戦後の教育が「人の道」を教える東洋の伝統を等閑(なおざり)にしてしまった結果であると思われる。
二年以上も前になるが、東大生の兄弟が、「大学に入学してはみたものの、授業を聞いても一向に興味がわきません。人生いかに生くべきかについて大学では何も教えてくれないのです」と訴えてきたことがあった。二人を一泊させて色々話したのであるが、二人とも「こんな話が聞きたかったのです」と感激して喜んで帰って行ったのである。
また、早朝の外掃除でたびたびお目にかかる八十歳代後半のご老体がおられる。実はこのさわやかなお方にお目にかかれるのが、小衲の朝掃除の際のひそかな楽しみでもある。この方は長年戦地に行って転戦された経験を持っておられる。「あんな戦争はもう二度としてはいけません」と言っておられたが、一方では、昨今の人心の荒廃を見るにつけ、「やはり修身が必要です」とも言っておられた。
「修身」などというとすぐに「軍国主義」や「国粋主義」だと騒ぎ立てる人達がいるが、そういう人に限って、「東洋」に関してほとんど謙虚に学んだことがないというのが実情のようである。幕末から維新の経緯を見ても分かるように、真に東洋の精神を身につけた人は、大局的見地に立って平和を考え行動できる人である。海舟や鉄舟の場合を想起して頂ければ、思い半ばに過ぐるものがあるであろう。
「徳川家康公の仁政」をご紹介したのも、東洋の伝統的精神を体現した人が政治を担ったならば、真の「仁政」が可能であることを歴史的に実証したいという思いがあったからである。
われわれ日本人が一般的に自国のかえがえのない精神的遺産を閑却しているのに対して、欧米の人達の「東洋」や「禅」に対する渇望はますます増大の一途を辿っているように思われる。
昨年の十二月だけでも、小衲のもとには三組の西洋人が来訪した。総勢二十数名であった。その内の二組は、或る京都の大学の米人教授が「仏教を学ぶために留学中の学生達に禅マスターの話をじかに聞かせたい」ということで、多くの国々から留学中の学生さん達を連れてやってきたのである。日本人の学生が三人いたのは嬉しいことであった。
彼らが関心を持って実に真剣に話を聞いてくれるのを見るにつけ、青年達が日本や東洋の貴重な精神的遺産を顧みないのは、それを教える人がいないからだという事実を再認識したのである。
いや、若者ばかりではない。壮年、熟年を問わず、人生を充実して生きるための秘訣を知りたいのは皆やまやまではあるが、どこにそれを求めればよいか五里霧中なのであろう。この点で宗教者や学識者や政治家などの責任は重大である。
時あたかも、滋賀県の安曇川町(あどがわちょう)では、「近江聖人」と人々から尊称された江戸初期の儒者・中江藤樹の映画を製作して、その遺徳を全国に顕彰するという。出演者も一流である。
映画「中江藤樹」制作実行委員会
http://www.touju.jp/
新年を迎えるに当り、東洋や日本古来の精華を顧みるこうした気風がますます興隆して、この混迷の現代における霧海の南針となればと念ぜずにはおられないのである。
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Vol.22 謙の徳 (2004年12月)
『韓詩外伝』という書物がある。中国前漢時代の韓嬰(かんえい)という人の著書で、孔子の根本に立ち返るということを目指した儒者であり、司馬遷も『史記』の儒林列伝で韓嬰に言及しているほどの人物である。
その『韓詩外伝』の巻の八に「孔子は謙の徳を尊ぶ」という趣旨の一文がある(明徳出版社の抄訳176頁以下参照)。
それによれば、孔子は『易経』の「謙」の卦を重視された(公田連太郎『易経講話』二、129頁以下参照)。「謙」とは「自分が持っていても、持っているとは思わない」ということである。たとえば、自分が偉大な功績を立てても、自分ではそんなことを少しも思わないのが、「謙」である。
大人君子は自らの足らぬことを心から知っているのであり、無理に小さくなるのではなく、自然に小さくならざるを得ないのである。うわべだけ口先だけで謙譲を装うのは、真の謙ではなく、卑下慢という慢心の一種である。
日頃「私はここの厄介者で」と謙虚そうなことを語っていた或る老尼が、法要のあとの食事の席で、「ここは私がすべて取り仕切る」と声高に宣言して、居丈高にお客を采配(さいはい)するのを見て、「おやおや」とあきれた経験が私にもある。
これに対して、東京の白山道場の名僧・南隠老師は蚊帳を吊るされる際に、いつもご自分の顔につかんがばかりに低くされた。
それを怪訝(けげん)に思って「高く釣った方が気持ちが良いではありませんか」と尋ねた弟子に対して、南隠老師は『詩経』の一句を引いて、「そんな了簡(りょうけん)ではいけぬ。古人も『高天にせぐくまり、厚地に抜き足す』と言っておられる。少しも油断してはならぬのだ」とたしなめられたということである(『南隠老師追憶』四十三丁表)。
天が高くても遠慮がちに身をかがめ、地が厚くても遠慮がちに抜き足して歩かねばならぬと言われるのである。
これが謙の徳を養うということである。浄土宗の大本山智恩院では、大屋根を葺(ふ)いた昔の瓦職人が「瓦葺きには完全ということはない」ということで、数枚の瓦を大屋根の上に乗せておいたものが、現在まで残っている。その瓦職人は聖賢の書は読まずとも「謙の徳」を体得していたに相違ない。ここに東洋的伝統の深さを見る思いがする。
盈満(えいまん、満ちること)が極まれば虚に転じて欠ける外はなく、盈虚は交互に行われるというのが易の法則である。謙譲の徳は満を避けることにより、福を持続させることができる。
この謙の徳を十分に実践したのが外ならぬ周公旦であるというのが、韓嬰の見解である。周公旦は、孔子が「甚だしく気力が衰えたことだ。最早久しく周公を夢に見なくなった」と歎かれたほど尊敬されていた方である。
そして韓嬰は周公を模範にして謙徳を列挙している。
第一に、寛容な徳行がありながら、恭敬な人は栄える。
第二に、広大な土地を所有しながら倹約な人は平安である。
第三に、尊い位で高禄でありながら謙譲でへりくだる人は貴い。
第四に、人口が多くて兵力が強大であるのに畏怖の心を失わない人は戦いに勝つ。
第五に、賢明でありながら自分をまだ愚かだと思う人は真に賢い。
第六に、博覧強記であるのにまだ知識が浅いと思う人は知識が枯渇することがない。
そして韓嬰は、「大は天下を治めることができ、中は国家を平安にでき、身近なことではわが身を守ることができるのは、謙徳だけではなかろうか」と締めくくっている。
まことに近頃のイラク情勢を見ても、ますますそのことを痛感せざるを得ない。不慮の死を遂げられた戦場ジャーナリスト・橋田信介氏の妻の幸子さんは、米軍の攻撃で怪我した眼の治療のために来日したモハマド君の「銃があったら、アメリカ兵と戦うんだ。日本語がしゃべれるようになって、アメリカ兵がどんなひどいことをしているのか、みんなに話してあげたい」という一言が耳から離れないと言われる(『覚悟』中央公論社、152頁)。目の澄んだ邪気のない少年の目に映ったこの現実を、日米の指導者達はどう見るか。
自国の論理のみを是(正義)として相手に強要するのではなく、「謙の徳」を発揮してイラクの人々の身になって行動しなければ、米国はますますイスラム世界の恨みを買って窮地に陥るであろうことは、火を見るよりも明らかである。
また、自国を卑下して大国の顔色を窺うのみで正論を声高に唱えることができぬ日本は、米国と運命を共にする外はない。
「人の道」を規範とせずに「米国追従」を国是とするのでは、米国が暴走しても、それを諌言する手立てはおろか、退くすべはなかろうと危惧せざるを得ないのである。
日本はせっかく上に述べたような高邁な東洋の精神的伝統を有するのであるから、それを今一度想起して「東洋の君子国」としての面目を取り戻さねばならない。
そうでなければ、先人に対して何の面目あって顔向けできるというのであろうか。施政者はよくよく反省して「治国平天下」を実践して頂きたいものである。
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Vol.21 禅の境涯 (2004年11月)
達磨大師の語録『二入四行観』を坐禅会で提唱して行くにつけ、仏道の眼目を手を易(か)え品を易えして説き尽くされる初祖の大悲心を痛感せずにはいられない。「仏道の眼目」とは「人生を充実して生き抜くための極意」でもある。
それはいずれの仏祖の説法とも軌(き)を一にするが、結局は、深く禅定(ぜんじょう、三昧境)に入り、妄想・分別・悩みの根源である自我を空じて「無我」の真実相を徹見しなければ、真の安心は得られないということである。それができれば、色んな出来事に遭遇しても是非・好悪の雑念を起すことがなくなるのは勿論のこと、生死・苦楽にも執着せず無我・悟りにも執着せずに、淡々として暮らすことが可能となる。無我の人は事々物々・一挙一動のすべてが道に合致して「嫌う底(てい)の法なし」(忌み嫌うようなものはこの世に何もない)となるので、ことさらに道と非道(道に反すること)とを区別する必要がなくなる。要するに、一切のことに対して「無心」になるのが「仏道に通達する」ことであると達磨大師は説かれている。
このように述べると、必ず、「それは卓越した祖師方にして初めて可能なことで、われわれ一般在家の者には到底望むべくもない境地である」という人が出て来る。だが、決してそうではない。「無我」こそ我々の本来の姿であり、「我」という意識は何らの実体のない妄念に過ぎないのであるから、本然の性(しょう)に戻ることは造作もないことであるはずである。「自分にはとてもできぬ」などと言わずに、仏祖が言われるがままを赤子のような純真さで受け容れて素直に行じて行けば、必ずや誰しも大歓喜の法悦が得られるのは疑いない。これこそ、四月のコラム(「霊光不昧」)で言及した「悟りから始める」ということである。
昨年の十二月にコラム「無所得の法悦」で触れた七十四歳の米人哲学者は、帰国後ますます工夫三昧に励んだ結果、法悦の日々を過ごし、遂に「無我の真実相」を徹見するに至った。
メール参禅により、氏の無の三昧境の法悦が日を逐(お)って育って行く様子が如実に伺えた。「欣喜雀躍したいほどの法悦です」と報じて来た氏に対して、「小を得て足れりとすれば小成に安んずることになる。どうか所得の境地を放下(ほうげ、投げ捨てること)してどこどこまでも無字三昧の工夫を続けられんことを」と繰り返しメールで励ました甲斐あって、氏は遂に一切を空じ尽くして「無の自己」に目覚めることができたのである。
「何という法悦!何という宝物!」と子供のように喜んで報じて来た氏は、「ただ悔(く)やむらくは50年以前に禅修行を始めなかったことです」と述懐したが、それとても法悦の表現に他ならない。
氏は最新のメールで心臓の手術を受けねばならぬ旨を伝えてきた。しかし、「無相の自己にお目見えしてからというもの、恐れなどは雲散霧消しました。・・・禅はかくも偉大で、かくも真実で、かくも強固です」という氏に、心配は無用である。すでに「生死という大病」を克服した氏は、無事息災の人となったからである。十二月のコラムでは「醍醐味を味わったわけではない」と氏のことを記したが、今では存分に法悦の只中で日々を暮らす身となったことは、誠に喜ばしいことである。
一体、この具体例を見て発憤しない人があろうか。「自分にはできない」と歎く人にとっては、この米人男性の一件は恰好(かっこう)の反省材料となるであろう。「なせば成る、なさねば成らぬ何事も、
成らぬは人のなさぬなりけり」という人口に膾炙(かいしゃ)する上杉鷹山(ようざん)公の言葉通りである。
それにしても、わが身が法悦を得ることが嬉しいのはもとより言うまでもないが、こちらの言うことを真受けにして素直に工夫し大歓喜を得る人を見るのも、また格別有難いものである。
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Vol.20 禅の生活 (2004年10月)
今月は「禅の生活」について述べてみたい。小衲の弟子になりたいと出家志願して来た二十歳の青年に対して、名僧の語録などと共に、雛僧(すうそう、新米僧)のための禅修行入門書である『雛僧要訓』という幕末に編纂された書物を法話している最中である。それがまた小衲にとっても「禅の生活」を顧みる好機となった。
入門書といっても、雛僧の将来の大成を願う八人の名僧方が大悲心をもって書かれた重要で基礎的な書物である。専門道場で修行する前にこの書を熟読して肝に銘じておけば、それだけで充実した「禅の生活」が送れることは疑いない。その核心部分は、出家僧のみならず一般の方々にも資するところが多々あると思われる。
たとえば、「仏前に香や花を献じる場合でも、至誠の心を込めてしなければならぬ」とか「古来の名僧と称せられる人の多くは貧寺の弟子の出身で、物不足に耐えて辛苦し、自然に徳を積まれたのである」とか「戸や障子の開け閉めや履物の脱ぎ方からも、その人の心が見て取れる。万事に心して行うように幼少から心がけることが大切である」などというご垂誡の一々を、小衲が件(くだん)の青年に向かって、自らの体験を踏まえながら具体的に解説して行くのである。説明だけではなく、実際に自分でやって見せることは言うまでもない。禅では「以身説法」(理屈だけでなく実際に行なって見せること)を貴ぶのである。こういう仕方で法話をすることが、また小衲にとっては「心を込めて」の具体的実践となる。
語りつつ師弟共にえも言えぬ佳境に入ってくると、「法悦の醍醐味をわが身で味わい尽くし、それを他の人々にも分ち与えられるような修行をせねばならぬ。偽物(にせもの)は要(い)らぬ。卓越した古人の行履(あんり、気高い言動)を常に念頭に置きながら修行し、本物の禅僧になるべし」などと語調は熱を帯びる。
とはいえ、小衲自身の経験から話すのであるから、時として『要訓』の内容を批判的に説明することもある。たとえば、「僧という言葉は梵語(サンスクリット)では元来『衆の和合』を表わすものであるから、衆と異なる行動をして和合を破ってはならない」という趣旨の垂誡に関しては、「その通りではあるが、僧堂では近来『ズル和合』と称するものが横行している。正規の集(つど)いの際に無益な雑談をしたりするのを和合だと勘違いしている類いの者がいる。
個々人が心の限りを尽して修行に骨を折り、そこから体得した法悦によって、一衆が法悦の集団としてえも言えぬ光を放つことこそ『真の和合』と呼べるのではないか」などと説明するのである。そのことも一つの道場に留まることなく歴参したから分かったことであるが、こうして法悦の話しをするたびに、自分がこれまで幾度となく体験した法悦が再現されて、師弟の語らいが直ちに法悦の場と化すのである。かの青年がいみじくも、「お話しをうかがっていて不思議なことにいつも心がスカッとなります。大学の先生の禅の授業(彼は宗門の大学の学生である)ではないことです」と言ってくれたのは、有難いことであった。
幸いなことに、小衲はこれまで何人もの「本物」の方々にお目にかかった。そのことから思い当たるのは、達道の人は例外なくみな謙虚であるということである。八十五歳の森本老師は二十五歳の大学院生であった小衲に対して、用事を済ませた際に、「恐れ入ります」と鄭重にお礼を言われた。これに反して、老師と称する方の中にも、師匠であるからということだけで弟子に対して傲慢不遜な態度をとり、弟子の欠点を他人に対してあげつらう人がいることも見聞した。真実に自我を空じて無我を体認し日々に「無我と至誠」を行じているならば、果してそのような対応がとれるものかと疑問に思わざるをえない。
師弟共にお互いを敬慕し合う間柄こそまことの師弟関係ではないか。孔子と顔回、静山と鉄舟の師弟関係を見ても、そのことが理解されるのである。とりわけ禅の生活では、学問上の師弟関係とは異なり、生活全般・一挙手一投足に至るまで厳師から全人格的薫陶を受けるので、余人には伺い知ることのできぬ師弟関係の濃(こまや)かな情が通い合うという事実がある。
在家の方々との道交が大切なことは言うまでもないが、また、一身を擲(なげう)って為人度生(いにんどしょう、人助け)に邁進しようと大願を立てた後進の指導ほど、師家たるものにとって重要事はあるまい。願わくは「この師にしてこの弟子あり、この弟子にしてこの師あり」という間柄になりたいものである。
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Vol.19 自然に学ぶ (2004年9月)
理科の教諭をしている方から、「自然に接していると我見や計(はか)らいがなくなって、癒(いや)される人が多い」という話しをお聞きした。それはまさしく理の当然でしょうと大いに意気投合して話しがはずんだ。
自然は無我・無私であり、微塵の分別も作為もない。 古人はそこに自然の「誠」や「うそ偽りのない真実」を見た。「誠は天の道である」という『中庸』の語は、春夏秋冬の変遷や日月星辰の運行など、自然はいずれも無私にしてその誠を行じているという意味である。
これに対して、通常われわれ人間は生まれつきの誠の自然本性を持続できずに、分別心や我見を起こしてせっかくの無垢な心を曇らせてしまっている。「幼子が次第次第に智恵つきて、仏に遠くなるぞ悲しき」という一休和尚の道歌はこの間の消息を詠(よ)まれたものであり、それ故に、「これを誠にするは人の道なり」という言葉が先の引用に続けられているのである。
悩みを持って小衲を来訪する人のほとんどは、出くわす事に対して自分の想念や分別を起こし、自縄自縛して苦しんでおられる。東洋の聖賢・仏祖はこれに対して、「無我・無心」の境涯の必要性を力説された。
達磨大師は、たとえどんな目に逢ってもどんな境遇に置かれても、苦悩や愛著などの分別を起こさぬようにすれば、「自然に一切の順境・逆境においてすべて無心になるであろう」と断言しておられる。
また、「近江聖人」と讚えられた江戸時代の儒者・中江藤樹は、若い頃に聖人になろうと志を立てたが、そのことを目指そうと過剰に意識すればするほど、周囲とも軋轢(あつれき)が生じ、苦しんでいた。しかし、或る日『論語』郷党篇を拝読して、孔子が「聖人」などという意識を微塵も持つことなく、実に自然体で日常万般の事に対処しておられたことを知って驚嘆し、大いに悟るところがあった。後に藤樹は孔子について、「聖人の物腰・衣服・飲食などの天則は、思わずして得、勉(つと)めずして的中したもので、知解分別から出たものではない」(藤樹先生全集、巻一、四百十一頁)と述べているが、この「天則」という語は「わが計らいを捨て去り天地自然に随順した言動」の意であり、孔子聖人の自然体の核心である。計らいなく天に則った孔子の日常は、それこそ達磨大師のいう「無心」の日々であったことであろう。達道の人は「千里同風」である。
これは何も東洋だけに限らない。西欧でも、例えば、自然と人間の根源に肉薄した類い稀なるドイツの詩人ヘルダーリン(1770〜1843)は、「神的自然」との連関の中で「神的存在」としての人間の真の有り方を説き、「人間と自然とが結びあって、一切を包括する一つの神性となるであろう」(『ヒュペーリオン』、ヘルダーリン全集、第三巻、八十三頁、河出書房新社)ことを渇望した。
良寛和尚の辞世の歌に「形見とて何か残さん春は花、夏ほととぎす秋はもみじ葉」という絶唱がある。自我を空じて計らいを捨て去り「大愚」の境地を味わい尽くした良寛さんは、自然と全く一体に同化していた。春夏秋冬の美しき自然の風景こそは良寛さんの真面目であり、そこには分別も悩みもあり得ない。
日頃いろんな出来事に遭遇して悩み苦しんでいる方々も、一度ゆったりと自然に触れて「無心」を享受し、心の洗濯をして頂きたいものである
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Vol.18 達磨大師の教え (2004年8月)
達磨大師は釈尊より二十八代目の祖師であり、禅宗の初祖といわれる人である。敦煌(とんこう)出土本によりほぼ達磨の直説に相違ないことが判明した『二入四行観』を坐禅会の講本に選んだのは、初祖の語録をしっかりと抑えておく必要性を痛感したからである。(定本としては鈴木大拙校刊『少室逸書及解説』があり、曹洞宗の名僧面山和尚の『四行観聞解』も大いに参考になる。柳田聖山氏の訳註もあるが、これには賛同しかねる箇所が多々ある。)
仔細に読み進んで提唱するにつれて、達磨の教えの深遠さが垣間見られて誠に興味は尽きない。その体験的言葉は、達磨以後の卓越した祖師方が共通して説かれていることと軌(き)を一にする。
「二入四行」というのは、入道への道は「理入」と「行入」の二種あり、行入には四種あるので、その様に名づけたのである。「理入」とは、道とひとつになり、われわれが本来具有している同一真性(しんしょう)を会得した上で坐ることをいい、「行入」とは、この理入のままに行ずることである。
眼で見て耳で聞いて足で歩くというのが、仏心・仏性ともいわれる真実の自己の神通妙用(じんづうみょうゆう、不可思議な働き)であるが、妄想煩悩あるがために、その文字通りの有難さや光明がわれわれには通常分からない。しかしそうした心の塵を払い、真性に立ち戻り、真性に安住する「理入」を行じるならば、自他の分別は絶え果てて寂然無為の境地に入ることができる。この「理入」が「二入四行」の根本である。
「四行」というのは、「報怨行」、「随縁行」、「無所求行」、「称法行」をいう。「報怨行」とは、苦しみに出くわしても、過去世の業(ごう)の結果であるから、苦悩を甘受して誰をも怨まず弁明したりしなければ、怨みを契機として真性と相応して道に入ることができるが故に、「怨みに報いる行」という。
「随縁行」とは、衆生は無我であり、苦楽を受けるのは因縁によることを知り、得失是非に心を動ずることがなければ、暗黙裡に真性にかなうので、「因縁に随順する行」という。
「無所求行」とは、世間の人は常に迷い色んなことを貪り求めるが、これが苦のもとである。智者は万物が実体のない空なるものであることを会得して求めることもなく心が安らかである故に、「求める所無き行」という。
「称法行」とは、法(真実相)を徹見するならば、一切が空じられて、実体も我もなく、汚れや執着もなく、彼此の区別もない。この清浄の理を会得すれば、まさに法に称(かな)って行ずることができる故に、「法に称った行」という。
この様に述べてくると、難しくて分からないという方もあろうが、決してそうではない。体験に裏打ちされた言葉は、外面的な文字面から見れば複雑に思えるであろうが、根本的体験に着目するならば、達磨の見識は単純で首尾一貫していることがよく分かる。
達磨ほどの人ですら、迷い抜いた挙げ句の果てに、遂に法性(ほっしょう、無自性空の真実の自己)を徹見し、真如を練り上げて体験を深めた結果、自己本来の珠玉の様な透徹した心(明珠)が、光を放って輝き、四方八方にも到達して至らざるところがなく、現象として顕れた種々の差別相はみな妄想に過ぎぬことが納得できたと述懐しておられる。
肝心なのは、深く禅定に入って一切を空じ尽くし、自己の本性に目覚めることである。自己を空じた法悦は何ものにも勝る悦びである。先月のコラムの末尾で触れた、「自分がそのままで法王(法身)であることを徹見すれば、立ち所に一切の問題から解放されるであろう」という達磨の言葉も決して誇張ではない。
「迷う人は分別意識の筆で恐れ迷う対象を画き出し、また分別意識で自分の画いた対象を恐れているに過ぎず、恐れる心を除けば妄想は根こそぎになる」とも達磨は言っている。空寂なる本心に目覚めれば、自分の心で作り出したものが何ら実体がないことが分かる。それが心底納得できれば、すべての悩みや束縛から解脱することができるのである。
仏道とは何と素晴らしいものではないか。禅とは何と深遠な真実を教えてくれるものではないか。形骸化した仏教や禅だけを見て偏見を持ち食わず嫌いになって、こうした仏祖の深い叡知を心静かに聞いて真受けにすることをしないのは、生涯の損失であると言っても過言ではない。
願わくはすべての人が立場を超えて仏道の真実に巡り合い、一切の苦悩から解放されんことを。
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Vol.17 仏縁 (2004年7月)
有難いことに、このホームページを開設して以来、京都での坐禅会に参加したいという申し込みが増加の一途を辿っている。またたとえ坐禅会には来れなくても、仏縁を求めて遠路はるばる来訪する方もいる。その一人に三十代と見受けられた米人女性がいる。この人は去年十二月のコラム「無所得の法悦」で言及した老哲学者のご子息の知り合いである。彼の勧めでその女性ははるばるニューヨークから小衲(しょうのう、僧侶の自称)に逢わんがためにやって来たのである。
聞けば、色んな会社の財政関係のアドヴァイザーをしているという。「私達ビジネスマンはストレスが多くて瞑想なしではおれません」と言っていたが、これまでマンダラによる瞑想によりストレス解消を図ったものの、どうも今ひとつ成果が上がらなかったようである。
こうした来訪者があった場合、小衲はこれといったマニュアルなしに臨機応変に対応する。問題を抱えた人に対して、これから坐禅の初歩を教えたところで、遅八刻(ちはっこく、「遅過ぎるわい」の意)である。空腹でたまらぬ人に料理の講釈は無用で、手早く料理を作ってご馳走するのが一番喜ばれることは言うまでもない。同様に、心がどこか満たされぬ人に対しては、法悦の醍醐味をご馳走するに限る。思うに、これに勝るご馳走はあるまい。この法悦の妙味を味わうのが禅の雲水修行生活の何よりの楽しみだとすれば、それを体現して縦横無尽に為人度生(いにんどしょう、人助け)するのが、師家の本分であろう。
米国からやって来た女性とは精々一時間半ばかり話しただけであるが、彼女は実に素直にこちらの言うことを真受けにしてくれ、えも言えぬ法悦に包まれて、互いに非常に心地よい時間を過ごすことが出来た。最後に、「これから申し上げることは、仏教の核心です。私達は仏祖と何ら変わりのない完全無欠な法そのものの存在です。それなのに、自分には何か足りないと思って外に向かって求めるので、なかなか真の安心が得られないのです」と言うと、彼女は一言の反論もなく「何という素晴らしい教えでしょう」と即座に納得して、欣喜雀躍(きんきじゃくやく、雀が飛び跳ねるように小躍りして喜ぶこと)して帰って行った。
しばらくして帰国した彼女からメールが来たが、以下はその要約である。
「京都でお目にかかれたことは私にとって衝撃的な出来事でした。私の心は形だけの坐禅では真の三昧に入れないということを思い悩むことをやめました。私はとても素晴らしく和(なご)やかな体験をすることができました。あのあと、何を考えるともなく水の流れに見入り、その音に聞き入っているうちに、思いがけず何の努めることもなしに実に深い三昧境に入ることができたのです。その時間を失いたくなかったので、長い間そうしておりましたが、『せぬときの坐禅(坐という形に関わらぬ行住坐臥の坐禅)こそが真の坐禅です』というあなたのお言葉の真意を私が会得できたのは、計らわずにごく自然に三昧境に没入することができたからです。あなたにどれほどお礼申し上げても感謝し切れないほどです。私は至福で満たされたような気がして、感謝の気持ちで一杯です。」
この米人女性が短時間のうちに至福法悦の心境に至り得たのは、これまでの努力の積み重ねとその賢明で邪気のない素直な資質によるものであろう。こちらの話を聞きたいと尋ねてきた人が、えてして自分の私見を披歴するだけに終始する例を、小衲は幾たびも経験したが、彼女は自らの個人的見解は微塵も述べることなく、微笑みを浮かべてこちらの言うことにじっと聞き入っていた。別れ際に「何か質問はないですか」と尋ねると、「いや、何もありません」と実にさっぱりしたものであった。
さもありなんというべきである。質問の出るうちは駄目である、自分の自家屋裡(じかおくり)の比類なき財宝を顧みることなく、よそに向かって求めるというわが身の愚かさに気づいていないがためである。
坐禅会の提唱に使用している達磨大師の『二入四行観』には、たとえ如何なる罪を犯し、如何なる災難に逢おうとも、「自らおのれの法王を見れば即ち解脱を得ん(自分がそのままで法の身であることを徹見すれば、立ち所に一切の問題から解放されるであろう)」と言われている。わが身こそが自分の目指す究極の存在であることを信じ切った上で、計らうことなく工夫に没頭すれば、大寂滅・大空無相・真空妙有の「本来の面目」が現前し、法悦の大歓喜を得ることができるに相違ない。米人女性のケースは好箇の模範というべきである。
願わくはすべての人々がこの法悦の醍醐味を享受されんことを。
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Vol.16 仁政の手本 (2004年6月)
私事で恐縮であるが、坐禅修行のために来日中のデンマーク人男性二人と共に、信州の旧中山道を経て、風光明媚な甲府市を先頃初めて訪れた。知人方の心のこもった案内で栖雲寺や恵林寺などの名刹に参拝できたが、武田勝頼一族が自害して果てた旧跡である景徳院をも幸い訪うことができた。そこで感嘆したことがある。
信玄亡きあと、勝頼は重臣達の進言に聞く耳を持たなかったがために、一族を滅亡に導くことになったといわれる。その際、讒言により蟄居を申し付けられていたにもかかわらず、主君の勝頼のもとに馳せ参じて討ち死にした小宮山内膳を、家康公が武士の鑑(かがみ)として賞賛してその弟を奉行に採用したことは、すでに「徳川家康公の仁政」で述べた通りである。
このたび感嘆したのは、家康公が勝頼一族の菩提を弔うために、その歳のうちに勝頼の戒名からとって命名した景徳院を建立して彼らの墓を造立し、その初代住職にかの小宮山内膳の別の弟をまたしても任命したという事実である。何という行き届いた心配りであろうか。かくしてこそ、武田の遺臣達の遺恨も消え失せ、家康公の人望・人徳も増すというものであろう。
家康公のかかる深謀遠慮は、聖賢の教えにより身を修められた境地から、ごく自然に発露したものであるに相違ない。東洋の聖賢の経典こそは「仁政」(思いやりのある政治)や「楽道」(充実した人生)の基本である。最近、伊藤仁斎の『論語古義』に導かれながら『論語』をじっくりと味わう機会を持ったが、仁斎先生の読みの深さに感銘しつつ、『論語』の醍醐味は尽きることがない。この古典の中の古典に出会うことがないのは人生の損失であるといっても過言ではない。
イラクでは米軍の捕虜虐待が露見して、米国はますます窮地に陥っている。米国の徳望は加速度的に下がり、イラク国民はもとより、世界中の多くの人達から批判を受けている。これは世界にとっても米国にとっても誠に不幸なことである。どうか西洋の人達にも東洋本来の聖賢の教えに基づいた「仁政」を見習って欲しいものである。
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Vol.15 海舟の至誠 (2004年5月)
楽イラクは予想した通り、ますます抜き差しならない状況になってきた。これは米国がイラクのためにと称して行っている占領統治が、必ずしもイラクの人々には歓迎されてはいないからであろう。圧倒的武力を頼んで子供や女性などの罪なき一般市民をも殺戮(さつりく)してやまない米国を敵視するのは、もはや一部のテロリストだけではあるまい。
東洋には「人を敬う人は人からも敬われるし、人を愛する人は人からも愛される」(『孟子』)という言葉があるが、米国がかくも憎まれるのは、「敬愛」の念をもってイラク国民に接していないからであろう。こういう時にこそ、東洋の無我・至誠の行き方を欧米人にも知ってもらいたいものである。
それにつけても思い起されるのは東洋の先人の器量の大きさである。たとえば、勝海舟は足尾鉱毒事件で民衆救済のために捨て身の尽力をした田中正造に理解を示し、民衆の側に立っての施策を行わない明治政府を痛烈に批判した。「明治政府が文明国を自認するなら、文明国らしくやりなさい。民衆の身になって行うのが文明国ではないか」というのが海舟の見識であった。もし海舟がイラクの現状を見れば、必ずや「押しつけの復興政策ではなく、もっとイラク国民の身になってやりなさい」というでもあろう。
正造は後年になって海舟の人格を称賛して一文をものしている(「智徳の臣、真の大忠」、『海舟座談』岩波文庫、284頁以下)。彼は言う、「誠に安房守(あわのかみ、海舟のこと)は先見にして、私心なく、卓識にして、人の為し得ざる陰徳の、忠臣なり。そもそも彼は名の忠にあらず、実の忠なり。世上の忠の小なる者は、これを知らず、かえってこれを誹(そし)るの甚(はなは)だしきものすらあり。それ忠の大なるものにして、初めてよくこれを知る」。これは福沢諭吉が『痩せ我慢の説』などで海舟らによる江戸城無血開城を非難したことなどを念頭に置いてのものであろう。海舟の至誠一貫の心底の偉大さは、その心をもたぬ者ならでは分からぬというのである。正造の文章はまことに格調の高いもので、その赤心を言い表して余りある。
また、昭和天皇のご教育係であった杉浦重剛(しげたけ)は、三十代半ばの頃、ロシア皇太子傷害の大津事件にわが国の前途を危惧して、彼が「救国の英雄」と尊敬していた勝海舟を訪問した。海舟は気さくに会ってくれたばかりか、その話し振りはまるで旧知の様に親しげであったという。これは海舟が一見して重剛の人柄を見抜いて信頼したからであろう。幕末維新の動乱を切り抜けてきた海舟の含蓄に富んだ話とその人柄とに魅了された重剛は、それ以来しばしば海舟を尋ねた。
教育者であった重剛は或る時、静岡の門下生に頼んで早取りの蕨(わらび)を海舟に持参した。海舟も蕨は好物で、心から喜んで受け取ったが、その翌年(明治33年、1899)に海舟は世を去った。重剛はそれ以来二十数年にわたり、毎年静岡の蕨を洗足池畔の海舟の墓前に鄭重に供えたという(渡辺一雄著『明治の教育者、杉浦重剛』毎日新聞社、81頁以下参照。)。これが至誠心というものである。海舟の至誠が重剛の至誠に感応したものであろう。重剛は後にこの至誠心をもって昭和天皇をご教導申し上げたのである。
日本には昔はこうした至誠の人がいたことを忘れてはなるまい。現今はこうした卓越した人物が地を払っていなくなったのを恨みとする。海舟は「要するに、処世の秘訣は誠の一字だ」(『氷川清話』講談社学術文庫、380頁)と言い切っている。至誠の人が出でて思いやりのある政治を行って、世界を平和に導いて欲しいものである。
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Vol.14 霊光不昧 (2004年4月)
楽しく充実した人生を生きる「楽道の秘訣」について再論したい。
人は誰しも困難や挫折に遭遇すると自信を失い、自分の将来に漠然とした不安を感じてしまうものである。そうでなくても自分でわれとわが身を不幸だと決めつけて、それを打開できない人が数多く見受けられる。孔子聖人も、「自分の力が足りないので先生の高邁な道にはついていけません」と言った弟子に対して、「力の足りぬ者は中途でやめるが、お前はいま自分で自分に見切りをつけている」(力足らざる者は中道にして廃す。今女〔なんじ〕は画〔かぎ〕れり)と叱責されている(『論語』雍也篇)。
通常われわれは自分でも気づかぬうちに自分のことを限定して決めつけて自己理解をしているがために、身動きが取れずますます八方塞(ふさ)がりの事態に陥るのであるが、実はこの状況を打破するのは造作もない簡単なことである。古来の達道の人は、仏道の人であるか否か、またいずれの宗派に属するかを問わず、全身全霊を挙げての工夫を通して三昧境に入って自我を空じて、その執われから自由になり、無我の妙境に遊戯三昧(ゆげざんまい、何ものにも尻をすえずに遊戯するという無心の生きざま)する日常を送った人であるが、そういう方々の言行録を仔細に拝読すると、天機(奥義)を漏らしておられることが分かる。
たとえば、江戸中期の臨済宗中興の名僧といわれる白隠慧鶴禅師の法の上の祖父に当る至道無難禅師(慶長八年−延宝四年、1603−1675)は、その名著『即心記』の中で、「禅は第一に悟りを先にして、悟りにまかせて修行すれば、日々夜々安楽である。疑ってはならぬ。わが身の業(ごう、煩悩)が尽き果てて悟ろうとするのは、もっともなように聞こえるが、それでは実は悟りに至ることは難しい。悟りを先にしてわが身の業を尽すのは、造作もなくたやすいことである」(公田連太郎編著『至道無難禅師集』春秋社、九頁)と述べておられる。禅の臨済宗では、坐禅や公案工夫によって転迷開悟して見性(けんしょう、自己の本性を徹見すること、悟り)することが通常目指されているのであるが、そんなやり方では一向に所期の目的を達することは難しい、というのが無難禅師の見識である。
また、浄土宗開祖で知恩院ご開山の法然上人が「平生仰せられたお言葉」のうち、「念仏申すには何の造作もない。ただ申せば極楽に生まれると知って、心を尽して申せば極楽へ参るのである」とか「人の手から物を得ようとする際に、すでに得ているのと、未だ得ていないのとではいずれが勝(すぐ)れているであろうか。この源空(法然上人の諱)はすでに得ている心地で念仏を申すのである」とか「往生(禅の悟りに該当する)は確かに約束されている(一定)と思えば確かになる。不確か(不定)であると思えば不確かになる」ということなどは、いずれも「念仏してその功徳によって初めて極楽往生できる」という浄土宗門の常識的理解とは全く逆のことを言われている(『法然上人全集』浄土教報社、五二八頁以下)。
このお二人の名僧の、「悟りを先にしてわが身の業を尽す」、「すでに極楽往生は決まっていると確信して念仏する」という行き方に共通しているのは、「迷いや煩悩がある自分が彼方(かなた)の目標を目指して修行する」という物欲しげでさもしい態度を放下(ほうげ、投げ捨てる)していることである。このような修行振り(これを天龍寺開山夢窓国師は、「別に工夫無し」の工夫といわれている)であってこそ、ちょうど朝露が朝日を浴びていつの間にか消え去ってしまうかのような、妙(たえ)なる工夫が可能となる。何とかして悟ろうなどという工夫は、意識分別がまとわりついて血を血で洗うような事態を免れ難い。わが身の修行時代を回顧してみても、悟らねばという念を引きずっていた当初はなかなか分別から脱却し難かったが、次第に三昧境が育って法悦の只中で日々を過ごすようになってからは、はからわずして雪達磨式に法悦も心境も向上し、力みも抜けて行ったように思う。
標題に掲げた「霊光不昧(れいこうふまい)」という言葉は、「人々(にんにん)例外なく具(そな)えている素晴らしい霊妙な光明を自ら昧(くら)ませてはならないし、また昧ませられるものでもない」ということである。お釈迦様が十二月八日の明けの明星を見て大悟され、思わず「不思議なことだ、不思議なことだ、一切の生きとし生けるものは例外なく仏と寸分変わらぬ悟りの智慧と徳とを具えている。ただ妄想・執着があるためにそれが分からないだけである」と喝破されたのは、われわれすべてにとってこの上なく有難く力強い証言であるといえよう。
だがそのことをなかなか確信できない人には、ここに取って置きの秘策がある。それは「自分は充実していて幸せだ、すでに求めるべき目標もない、全身から光明を放っている」と信じ込むことである。これこそ上に言及した無難禅師と法然上人の「極意」である。容易には信じ難くとも信じ込むことこそ秘訣である。信じ込めば必ずそのようになる。「私は不幸だ」といつも考えている人は幸せになる道を自ら閉ざしているのである。不幸のどん底にあっても心底「自分は幸せだ」と心を転じることができれば、即座に極楽の住人になれる。臨済禅師も「自信不及」(じしんふぎゅう、自分で自分を信じ切ることができぬこと)こそが問題の根源だと言われている。
気の達人がどうすれば満身から気を放つことができるかという秘訣を述べているのを読んだことがあるが、それは他でもない、「わが身の全身が気を放っていると思い込む、というただそれだけのことだ」というのを見て、さもありなんとわが意を得た心地がしたことがあった。
こんな簡単明瞭で容易な方法で充実した人生が送れるのであるから、願わくば、ひとりでも多くの人が是非これによって自信を持って光を放つ人生を送って頂きたいものである。
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Vol.13 楽道の秘訣 (2004年3月)
最近何人かの人達から、このホームページを読んだが、なかなか言われているような人生を楽しむ「楽道」の生活を送ることは難しいが、どうしたらよいか、という質問を受けた。
我々のように出家してその道に専念している者ならばともかく、一般の生活をする人達は色んな人間関係のしがらみの中で生きているので、悩みの種が尽きないのも無理からぬことである。しかしそういう方々こそが悩みからの解放を必要としているのもまた事実である。ではどうすればよいのであろうか。
それには、以前のコラムで申し上げたように、東洋の聖賢の書や偉人の伝記などを拝読して自らの心を修養することが重要な一歩であろう。先人の気高い風格から自分の糧(かて)となるようなものを得ようとするならば、まず自らの心を謙虚にすることが何よりも肝心である。道元禅師も言われているように、我見を空しくして先達の教えに素直に随順して行くならば、思わず知らず自分も善き感化を受けて変化していくものである。我見を自負し固執すれば、他人の言葉に耳を傾けるゆとりもなくなるであろう。
中国宋代の大儒者である朱子が編纂した『伊洛淵源録』という書物に、孟子以後の第一人者といわれる程明道(ていめいどう、1032−1085)のことが載っている。それによれば、「天性のままに天地自然の道を会得し、道を身につけて徳を成就し、孔子・孟子の真髄を味わい尽くし、従容(しょうよう、ゆったりと落ち着くさま)として何ら勉める素振りはなかった」(同上書、明徳出版刊、49頁)という。この「従容として勉めず」の一句には、まさに大儒者明道先生の骨髄を見る思いがする。通常ならば、頑張って学問に励んでいるように傍(はた)から見えるものであるが、明道は悠然(ゆうぜん)としていて、学問にも勉めず、別段目指すような境地などないかのような有様であった、というのである。これこそ道を体した人の風格である。事実、明道は「すでに誠があるならば、心はどうして養う必要があろうか」と言明している。
明道は県の長官となって赴任したとき、県民をわが子のように思って世話をした。訴え事があって突然やって来た者に対しても、ゆったりと落ち着いて話を聞き、親身になって応対した。三年間或る村にいたが、村民達はまるで明道を父母のように慕い、明道が官を辞して村を去る日には、別れを惜しむ泣き声が野原に響き渡るほどであったという。
明道の徳を伝え聞いて、ついに時の神宗皇帝も帰依し、政治の要点について再三諮問された。明道は、心を正して欲をふさぎ賢人を求めて人材を育成することこそが急務であるということを、言辞を飾らずに誠意を尽くして述べ、天子を感動させた。
しかし、毎回「君主の道は至誠仁愛が根本であり、功利に及ぶものではありません」と堂々と正論を述べる明道の高潔な人格を、神宗はうとましく思うようになり、ついに失望した明道は地方官への任命を願い出た。小人であった地方の長官は、天子の帰依を受けたほどの明道なら自分をあなどるのではないかと危惧したが、明道は非常に慎み深い態度で長官に仕え、たとえ倉庫番のような勤めであっても誠を尽くし、小事でもいい加減にせずに必ず長官と話し合って処理した。そのため明道に従わない者がなくなり、誰もが互いに歓喜したという。
「先生の徳を述べ尽くそうとしても、美言を用いても形容し足らない」と称賛された程明道の高潔な風格の一端を学ぶだけでも、心が洗われる思いがするではないか。こういうことの積み重ねによって、次第に我々も先人から良き薫陶を受けて、自らの心が潤い豊かになって行くのを覚えるであろう。そして問題は実は外にあるのではなく、自分の内にあることが自覚されてくることであろう。
それでもなお問題が噴出して困るという人には、「念を起してはならぬ、すでに起した念には二念をついではならぬ。そのようにすれば、諸君が十年の行脚修行をするよりもまさるであろう」という臨済禅師(臨済宗宗祖、中国唐代の人)の言葉をお伝えしたい。問題を生じさせているのは自分の余計な分別であり、問題としなければ何事でも雲散霧消するのである。今一度ホームページの「大愚のすすめ」をご覧頂ければ幸いである。
なお今回は長くなったが、このコラムは通常のものとは相違して、字数を制限して読者の利便を計ることよりも、必要とあらば多少の字数増減をも厭わないことを主眼としている。この点どうか諒(りょう)とされたい。
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Vol.12 『悦服』ということ (2004年2月)
今回のコラムも時事問題になるのをご寛恕(かんじょ)頂きたい。
自衛隊が遂にイラクに派遣されるに至った。小泉首相は、米国のというよりもブッシュ大統領の強引な政策に付和雷同することしかできぬかのようである。我々日本人は高邁な見識を欠いた情けない首相を持ったものである。
『孟子』などから自分に都合の良い箇所を断章取義的に引用してはいるが、明らかにこの首相は聖賢の慈悲の心を知る人ではあるまい。
「イラクの復興支援」というが、復興するような仕打ちを行ったのは米国である。一般市民をも多数犠牲にし、しかも劣化ウラン弾・クラスター爆弾のような非人道的兵器の使用をも顧みることのないのが、米国の現政権である。
湾岸戦争でも、後遺症によって多くの人がガンになっているというではないか。米兵の発症率も高いと聞く。イラクでも同様のことが起るであろう。非人道的行為に荷担せざるを得ない米兵に自殺者が急増しているのも、無理からぬことである。
昔、家康公が武田勝頼を滅ぼした後、甲州に入り信玄配下の者達を多く召し抱えられた時に、甲州の武道諸事について尋ねられ、甲州の者が、「武田家では矢を射る際にやじりが敵の身体に残って後々まで痛むように、やじりが抜けるようにとゆるくします」と言うと、それを聞かれた家康公は、「武田家ではそうであろうが、徳川家ではそのようなことはしてはならぬ。侍が命を捨てるのは盗賊などとは異なる。その場で手傷を負って働きができぬようになり、こちらの軍に有利になればそれでことが済む。別に相手を強く憎むわけではない。徳川家ではやじりが抜けぬように良く準備せよ」と言われたという(『披沙揀金』76頁)。
やじり一つにでも心配りができてこそ、家康公は人心を引きつけて掌握し、天下太平の基いを築くことができたのであろう。家康公いませば、決して彼我の国民に長期にわたって後遺症を及ぼす劣化ウラン弾のような非人道的手段をとられなかったであろうことは明白である。
「悦服(えっぷく)」なる素晴らしい言葉がある。これは中国の殷(商)の暴君紂王(ちゅうおう)を討伐した武王(名君・文王の子)が、殷の民を思いやる慈悲深い施策を断行したお蔭で、殷の民が悦んで服して天下が平穏に治まったという故事に由来する(『書経』武成)。
家康公こそはこの「悦服」を実践されたものと言える。他方、イラクにおける占領統治下でテロが続発しているのは、「悦服」と到底呼べるものではない。
今こそ日本が、歴史の浅い米国に対して、東洋伝来の武士道(人の道)の真髄を伝え覚醒すべきではなかろうか。
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Vol.11 イラク問題と東洋の英知 (2003年3月)
イラクへの攻撃の是非をめぐって、世界は今論争の只中にある。世界の人々の大多数は平和的解決を望んでいるのに、特にアメリカの強行姿勢がますます顕著になっている。こんな有様では、世界一の超大国でありながら、アメリカは早晩世界から尊敬を失ってしまうであろうことは、想像に難くない。
こんな時にこそ、アメリカ大統領や米国民に東洋の聖賢の英知を知って頂きたいものである。
孟子は言っている、「うわべだけは仁政にかこつけながら、本当は武力で威圧するのが、覇者(はしゃ)である。・・・徳をもって仁政を行なうのが、王者である。・・・武力で人民を屈服させても、それは表面的服従で、心から心服したのではない。・・・徳によって人民を服従させるのは、心から悦んで本当に服従させるのである」(『孟子』公孫丑上、岩波文庫版、上巻、132頁参照)と。
「正義の国」アメリカが「悪の枢軸」イラクを懲らしめるとか、「世界一の軍事力で我々は戦いに勝つ」などという大統領の主張は、明らかに傲慢で自己中心的な見識であり、孟子の言う「覇道」である。
『孟子』を愛読していた徳川家康公は、常に主君としての我が身を省み、真の仁政を行なわれたことは、家臣らによるその逸話集を読めばよく分かる。家康公の人望・人徳が、二百六十年の太平の基(もとい)を築いたのである。その言行をアメリカの現大統領と比較すれば、人物・識見ともに格段の相違がある。
今日ほど東洋の英知が再認識されるべき時代はないのではなかろうか。日本政府もアメリカの顔色ばかりを窺(うかが)うような情けないことをしている時ではあるまい。
仁政: 人民をいつくしむ善い政治。
逸話集: 『披沙揀金(ひさかんきん)』(全国東照宮連合会編)。全六百頁以上の 大著である。
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Vol.2 イラク問題再論 (2003年4月)
ついに米英は対イラク戦争を始めた。フセイン政権打倒こそが当初からの目標で、大量破壊兵器廃棄の査察はその口実を得るための手だてに過ぎなかったことは、明白である。
安保理における査察継続論にアメリカが聞く耳を持たなかったのは、万が一にでもイラクの疑いが晴れて、フセイン政権を軍事的に打倒できなくなったら困るからであろう。
自国の安全保障のためにテロ国家に対する先制攻撃をも辞さないというアメリカではあるが、実は世界中でもっとも好戦的な国はアメリカである。冷戦時代に限定しても、アメリカの諸外国に対する軍事的介入は二百回にものぼるという(ジョエル・アンドレアス『戦争中毒』合同出版、16頁)。
西郷南洲(隆盛)は、すでに明治初頭に、西洋列強の流儀が道義に反することを見抜いていた。
彼は言う、「文明とは道があまねく行なわれているのを称賛して言う言葉である。・・・(中略)・・・西洋が本当に文明というのなら、未開の国に対する場合、慈愛をもととして懇々(こんこん)と説いてさとして開明に導くべきであるのに、そうではなくて未開蒙昧(もうまい)の国に対するほどむごく残忍なことを行なって自国を利するのは野蛮というほかはない」と(『西郷南洲遺訓』岩波文庫、8頁)。
ブッシュ大統領は、世界一の軍事力を持つという理由で、アメリカを「世界一の偉大な国」だと誇っている。だが、南洲が指摘する通り、自国の国益のために、色んな理由を捻出して、圧倒的武力で弱小国を踏みにじり、殺戮を繰り返して止まないのは、「真の大国」のする所業ではあるまい。
孟子は、文王が仁政をしいたお蔭で、周は小国でありながら強国ですら容易に手出しができなかった事実を挙げ、「君主が仁(慈悲)を好めば、天下無敵である」という孔子の言葉を引用している(『孟子』岩波文庫、下・21頁)。
弱者に対しても思いやりのある人が、「大人(たいじん)」であり、弱小国に対しても慈悲にあふれた仁政を行なう国こそが、真の「大国」である。
国益追求だけでは、国家間の利害がぶつかり、ついには悲惨な世界核戦争の末に人類は滅亡に至るであろう。露骨な武力行使の背後には、軍需産業や石油利権などで富を蓄積しようという、ひと握りの人物の「エゴ」が存在するのは周知の通りである。
今こそ、我が身や自国の利害だけを追求することの愚かさを認識して、東洋の聖賢が説かれたように、他人や他国から敬慕されるような、慈愛や無我に基づいた行き方をすべき時である。
人に人望・人徳がある通り、国にも徳や品性があるはずである。全世界に対して東洋の聖賢の英知を伝え、争いの無益なることを力説することこそ、「君子国」としての日本のとるべき道ではなかろうか。
あるいは、このような見方は非現実的で、あまりに高邁に過ぎると考える人もあるかも知れない。そういう方には、論より証拠、聖賢の教えを模範として仁政をしかれた徳川家康公に関する拙文(徳川家康公の仁政)をお読み頂きたい。
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Vol.3 江戸開府四百年 (2003年5月)
予告していた家康公に関する拙論「徳川家康公の仁政」を、ようやく追加することができた。
この際あらためて公の逸話集を丹念に拝読して、太平の世を築かれた家康公の偉大さと、その人格修養の基(もとい)となった東洋聖賢の教えの素晴らしさとを痛感した次第である。
一般には、江戸時代の「封建的」有り方が改善されて「文明開化」の明治時代になったと考えられているようだが、必ずしもそうとばかりは言えまい。
そもそも、明治政府の中核をなした幕末の下級役人達が、天下万民のためでなく、わが身の栄華をこととして横暴を極めるのを見て、明治第一の元勲である西郷南洲(隆盛)は、早くも大いに失望落胆し、「こんなことでは、慶喜公(徳川最後の将軍)に申し訳なかった」と述懐したと伝えられる。
権力の中枢に居座って自分が甘い汁を吸うことを潔しとしなかった南洲が、ついに下野して薩摩に帰り西南戦争を起こさざるを得なかった理由の一端は、明治新政府のこの腐敗構造に起因しているでもあろう。
まことに、イデオロギーを問わず、昔も今も、権力の中枢に君臨する者が清廉潔白(せいれんけっぱく)で、わが身のことよりも万民のためを、わが国だけのためよりも広く世界平和を、標榜(ひょうぼう)している場合は、まことに稀(まれ)である。
南洲が、当初の目標通り、勝海舟や山岡鉄舟や元田永孚とともに、徳治主義に基づき、明治大帝を支えて道義立国を遂行していたならば、その後の日本ももっとより良い道を歩み得たであろうに、残念なことである。
利権金権の腐敗政治を一掃するためには、高邁な見識を持った人物が、よほど実権を握って天下万民のために勇断を下し得ることが必要となるであろうが、その恰好の例が徳川家康公に外ならない。
米英の対イラク戦争が一応の結末を見たとはいえ、イラク民衆の平安には程遠く、アラブ社会は多くの罪なき民を残忍な兵器で殺戮した恨みをたやすく忘れることはあるまい。
東洋聖賢の教えに則って仁政を布(し)かれた家康公が、もし今の時代にいませば、必ずや世界平和のために果敢なる活躍をされることであろう。
今年は、時あたかも江戸幕府開府四百年に該当する。この際、戦乱の世に終止符を打たれ、二百六十余年にわたる太平の世を招来する天下統一をされた、「東照神君家康公」の偉業を再認識したいものである。
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Vol.4 先祖を尊ぶということ (2003年6月)
「徳川家康公の仁政」という拙文をホームページに追加したところ、諸方から色んな反響があった。「家康公がこんな立派な方だとはつゆ知らなかった」という感想が大多数であったが、中には、「家康公の伝記は徳川方の者によって書かれているので、学問的見地からは信頼が置けない」という持論を述べた人もいた。
しかし、編纂上の多少の改変はあった可能性はあるであろうが、あの大部の逸話集『披沙揀金』のすべてを故意に創作できるはずもない。編者の林述斎も、このような批判があろうことを予見して、出処を明記したと思われる。
しかも、江戸幕府の屋台骨を揺るがしかねない、「将軍が不徳で万民のことを思わぬなら、誰が取って代わってくれても構わぬ」という家康公の遺言を、平然とそのまま載せているところを見ると、この逸話集は概(おおむ)ね事実を列挙していると思われる。
* * *
先賢の行跡を素直に受け取ってわが身の糧(かて)とすることをしないのは、惜しむべきことである。
家康公は、「すべてその先祖を忘れないのが人の道ぞ」(『松永道斎聞書』64頁)と言われ、先祖を非と見て自分の思惑(おもわく)を押し通したがために滅んだ者達のことに言及されている。
明治以後のわが国の進んだ道はまさにそうではないか。明治の青年達の中には、西洋文化に心を奪われ、江戸時代生まれのお年寄りを「天保銭」と愚弄したものが多くいたという。先の大戦後は、戦前の国粋主義の反動もあってか、知識人達は左傾化し、天皇制を含めた日本の精神的伝統にますます否定的な態度を取るようになってしまった。これはまさしく「先祖を非と見た」のである。
しかし、それはよくよく東洋を学んだ上での明察ではあるまい。
たとえば、中国の殷代の名君であった高宗が、自分の徳を身につけ天下万民を安んずるために、臣下の傅説(ふえつ)に助力を懇願したという事歴をごぞんじであろうか。高宗は、殷の遠い名君の祖先である湯王を模範とされたのである(『書経・下』説命上、435頁、新釈漢文大系、明治書院)。
また、最近『明治天皇』という大部の伝記をものされた米国人のドナルド・キーン氏は、伝記を書き始め、調べが進むに従って、「明治天皇という人物に感心」し、ついには、「当時の皇帝の中で世界一の存在だった、ゆえに明治大帝と言ったほうがいいのではないかという結論に達した」と述べておられる(『明治天皇を語る』184頁、新潮新書)。
日本的なるものや東洋の精神的伝統を顧みることは、必ずしも国粋主義に導くものではない。むしろ、先祖の伝統の中の美点を何ら顧慮することなく、感情的になって一概に唾棄してしまうことこそ、憂うべき事態である。家康公いませば、必ずやその非を論断されることであろう。
重ねて申し上げたい。今わが国が世界に対して一番貢献できるのは、無益な抗争をこの地上から無くすために、「無我と至誠」を中核とした東洋の高邁な精神と体験を声高に伝えることではなかろうか。
私のところを訪問する欧米人はますます増加の一途をたどっているが、その対話の経験からもそのことは確信できるのである。
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Vol.5 素読の必要性 (2003年7月)
早いもので、三月初めに楽道庵ホームページ『禅と東洋の心』を開設してから、すでに四ヶ月を経た。その間、大勢の方々にご覧頂いたことは望外の喜びであり、これから益々このホームページを充実させていく必要性を痛感する次第である。
ただ、そこで述べられていることが、聖賢の教え・大愚・無我・至誠などという、一般の方々にとってはいささか疎遠で高尚に過ぎると思われる教えや境地である観は否めない。ことに若者や女性の中には、取っつきにくい印象を持たれる方もあるかも知れない。
まずホームページで申し上げたことは、東洋の聖賢(聖人賢者)の教えを学んで「人の道」を体得すれば、「楽しみ」に満ちた意義深い人生を誰しも送ることができる、しかし、大多数の人はこの無上の喜びを知らないので、悩み多き日々を送っている、ということであった。
聖賢の教えを身につけるには、聖賢の著された四書五経などの経典(けいてん)を素読するのが一番良い。戦後の日本では益々漢文がなおざりにされているが、その損失は計り知れない。
鴎外や漱石や龍之介の文章の格調の高さが、その漢籍の素養に基づくものであることは夙(つと)に指摘されているが、文系の人ばかりでなく、たとえばわが国最初のノーベル賞を受賞された湯川秀樹博士も、小学校に入る以前から祖父に素読を習われ、それがその後に多大の影響を及ぼした、と述懐しておられる。
現代でも、慶応会の「論語素読教室」というところでは、子供に四書の素読を行って、小1にして四書の素読を終了した生徒が多くいるということである。ちなみにそのうちの一人の小3生がIQテストを受けたところ、「140とか150とかの数字で測ることのできぬほどの高いレヴェルであった」ということである。
www.keiokai.com/sho/0111227kannji31.pdf
素読によって得られる最も重要なものは、単なる知能指数の向上ということではない。幼い頃から聖賢の教えを学んでいると、人の道を踏み外すことなく、人に仰ぎ見られるような立派な人格者となり、充実した人生を送ることができる。このような教育を受けた我々の先人は、何と幸せなことであったことかと思うのである。
その格好の実例として、明治天皇の教導係(侍講)であった元田永孚(もとだながざね)の伝記(『元田永孚と幼学綱要』)を今度新たにPDFとしたので、ご覧頂ければと思う。
貝原益軒は、まず論語学而篇を数十回繰り返し覚えるくらいに素読してから、次に進むべきであるという。性急に読み進むことは益なく、むしろ一巻を熟読して良く覚え、さらに一書の全体を物にするまで熟読してから次の書物に移るべきである、というのが益軒の見識である。
素読とは、文章の意味を考えることなく、ひたすら音読していくことであるが、この独特の方法のもつ効能はいくら強調してもし過ぎることはない。素読が閑却されているだけになおさらである。
老若男女を問わず、今一度「素読の必要性」を再認識して、聖賢の教えに習熟して頂きたいと願わずにはおられない。
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Vol.6 聖賢の教えが青少年を救う (2003年8月)
長崎幼児殺傷事件の犯人が十二歳の中学一年生であったことが、各方面に衝撃を与えている。学業成績も良く、落ちこぼれでもなかった少年が、何故にこのような残虐な犯行に走ったのかという根本原因については、識者が色んな意見を述べてはいるが、いずれも表面的で、核心を突いた見解は見当たらないように思われる。
その中で、少年の小学校時代の校長先生が、「彼は結局、人間としての道を学んで来なかったのだ」と言っていたのが、印象的であった。人の道を学んでいないのは彼だけではない。
戦後の教育においては、敗戦の反動から、東洋的・日本的な伝統教育をことごとく国粋主義に連なるものとして抛擲(ほうてき)してしまった。その結果、徳育や修身といった人格教育は置き去りにされ、いたずらに知識の集積のみをこととする知育が残っただけである。
東洋でいう本来の学問とは、人の道を学んで徳を身につけることである。以前のコラムで触れたように、「先賢の叡知を非と見て」捨て去った不遜な現代人は、行動の指針を見失い、まるで羅針盤なしに漂流する船のように危うい。典拠に基づくことなく、ただ自分の私見に従って気随気ままに主張し振舞う他はない。わが子を溺愛して甘やかし厳しく躾(しつけ)なかった、長崎の少年の母親はその典型であるが、誰もそれを他人事と見なすことはできまい。
わが日本の先人は、聖賢の教えを確固たる典拠として人生の生き方を学んだ故に、足実地を踏んで、ぐらつくことがなかったのである。たとえば、今回の事件に関して言えば、貝原益軒の次の一文が参考になるであろう。
「聖人の人間教育は、人倫の道を厚く行わせるためである。では、いかにして人倫を厚くすることができるのであろうか。
それは人を愛し人を敬うことから始めなければならない。愛敬(あいけい)こそが人倫を厚くする根本の道であるからである。そしてその愛敬は父母に対する愛と敬とが根本であろう。幼い人々を教育するには、何よりも愛と敬との精神を教えるべきであろう。
温恭(おんきょう、温順で慎み深いこと)にしておのれを空しくする心構えは、子弟(学ぶ者)である者がまず従い行わなければならない点である。しかもこの心構えこそが人間関係を円滑(えんかつ)にして善行をなす始めとなるのである」(伊藤友信訳『慎思録』講談社学術文庫、39頁)。
皇太子殿下ご夫妻の御子であられる「敬宮愛子(としのみや・あいこ)内親王」の御名も、「人を愛する者は他人もまた常にその人を愛するし、人を尊敬する者は他人もまた常にその人を尊敬するものである」という『孟子』(離婁章句下、岩波文庫、99頁)の言葉から採られているのは、周知の事実である。
明治天皇の君徳を教導された最大の功績者である大儒・元田永孚(もとだながざね)の伝記を拝読すると、天皇がひたすら聖賢の教えを体現して天下万民を徳育へと導くことを、自らの比類なき責務としておられた様子が良く窺(うかが)える。
今人が捨て去っている「聖賢の道」(人の道)を、今一度素読を通して身につけ、実践躬行(きゅうこう)することこそ、世間で噴出している諸問題を根底から解決する方途となるであろう。そして、それがまたわが国の世界的使命であることを疑わぬものである。
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Vol.7 東洋の叡知で世界平和を (2003年9月)
喜ばしいことに、素読を通して聖賢の教えを身につけることの重要性を力説して以来、多くの人が素読を始められたと伝え聞いた。なかでも、お父さんがコラムを読んで感激され、五歳の息子さんに素読を勧めたところ、ボクも大層興味を持ち、楽しんで素読をやっている、というほほえましい話しもある。
このお父さんが感激されたのは、恐らく知能指数が格段に向上するという箇所ではなく、幼い頃から聖賢の教えを身につけた子供は、大人になっても人様から尊敬されるような人物になるという部分であろう。根本のことさえ努めれば、枝葉のことは自然についてくる。マニュアルなしに万事に対応する底力がつき、順風満帆な人生を送れるようになるものである。
わが子が他人から尊敬されるような大人になることを主眼として子育てをする両親は、溺愛や学歴偏重に走ったりする親よりも、遙かに子供の将来のことを考えているといえる。そういう子育てをされた子供は、大人になってきっと両親に感謝するであろう。
論より証拠、明治天皇の教育係をされた元田永孚(もとだながざね)から、明治四年に論語・中庸・大学の講義を聞いた青年(安場末喜、後に貴族院議員・男爵)の証言がある(「純忠至誠の大儒元田永孚先生」雑誌「キング」昭和二年所載)。
「先生の講義は非常に熱心なものでした。字句の解釈ということよりも、実際の修養に役に立てるということに重きを置かれ、古今の生きた実例などを沢山に引いてお話されるので、唯わかりよいというだけでなく、肺腑に沁(し)みて感動せずにはおられませんでした。先生は、一挙一動、すべて聖人の道に従う、ということに努められたのでありましょうか、当時青年血気の私共の目にも、先生の言語動作、容貌態度、すべて立派に見えて、少しも欠点のない、渾然(こんぜん)たる玉の如くに思われました。それでいて、何ら不自然な窮屈な所はなく、堂々たる風采(ふうさい)の中に、言い知れぬ親しみも暖かみもありました」
これが聖賢の教えを奉じて修身を行じられた方の風格である。私自身も、恩師・森本省念老師に同様の感銘を受けた。老師は禅僧でありながら、特に論語を重視してたびたび提唱もされた。山岡鉄舟を打ち出した名僧・滴水禅師も、「論語は儒家で真によい書物だ。もし論語一部を見得して徹せなければ、未だ禅門の作家(さっけ、達道の人の意)とすることはできない」(『滴水禅師逸事』政教社、35頁)と断言されている。
戦前・戦後の変遷を目の当たりにしてきた年配の方々は、いずれも異口同音に、戦後のわが国における「修身」の欠如を歎かれる。今一度、謙虚に聖賢の教えに学ぶという基盤に戻らなければ、日本の精神的荒廃はますます加速して行くであろう。
今年もまた終戦記念日が巡ってきた。一身を捧げられた幾多の英霊の方々の恩に報いる道は、東洋の叡知にもとづく世界平和の実現以外にはあるまい。
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Vol.8 お彼岸 (2003年10月)
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今年もまた秋のお彼岸がやって来た。「お彼岸」と言えば、一般の人はただ、彼岸法要をしてご先祖のお墓参りをすることと思っているようである。しかし、「彼岸」とは、悩みや苦しみの多いこの娑婆(しゃば)と対比される、悩みのない安らかな世界である。
亡くなった人達は勿論「仏」になって悩みのない元の無我の状態に帰っているのであるが、これを「涅槃(ねはん、ニルバーナ)」というのが興味深い。人の死は取りも直さず「涅槃寂静」のお悟りなのである。お釈迦様ですら、亡くなられて初めて「無余涅槃」という完璧な悟りの境地に至り得たという。良寛さんが、「われながら嬉しくもあるか、弥陀仏のいます国へ行くと思えば」と死を目前にして歌ったのも、この意味である。
だが、仏法の本音(ほんね)をいえば、われわれが迷いや悩みのある救い難い存在であると自分のことを思い込んでいることこそ、大いなる誤解である。「雲晴れてもとの光と思うなよ、もとより空に有明の月」という道歌にもあるように、雲が晴れて月がようやく見えたとしても、もともと真如の月は厳然としてあったのであり、ただわれわれがそれを知らなかっただけの話しである。
お釈迦様が大悟されて、「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生、如来の智慧徳相を具有す」と言われたのは、生きとし生けるものがいずれも円満具足した存在であるという有難い証言である。
順境の人も逆境の人も、すべてそのままですでに救われているというのが仏法の真意である。自分は煩悩の多い救われ難い人間だという自己理解こそ、実はとんでもない誤解であると言わねばならない。そのような「我」などというものは実体の無いものだからである。
この意味では、「転迷開悟」(迷いを転じて悟りを開く)と一般に禅で言われるのも、誤解を生じやすい表現である。江戸時代の名僧、盤珪(ばんけい)禅師が、「迷い悟りはもとないものじゃ、親も教えぬ習いもの」と歌われた通りである。
仏法でいう「解脱(げだつ)」とは、元来われわれの誰もが大光明を放つ素晴らしい本性を持っていたのだ、ということを気づくことである。そういう心安らかな「彼岸」に至るには、無我こそわれわれの真実の姿であるという醍醐味を味わい尽くさねばならない。
「お彼岸」に際して、今一度このことを反省したいものである。
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Vol.9 東洋の偉人に学ぼう (2003年11月)
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「推奨したい書物」に掲載した元田永孚編著の『幼学綱要』を、現在も翻訳続行中である。二十の徳目のもとに、中国と日本の偉人達のさまざまな卓越した言行が載せられていて、まことに興味深い。或る教師の方がこの書に巡り合って感激し、「教師でもこのような素晴らしい書物があるのを知らない人が多いであろう」と述懐している。
たとえば、「仁慈」という徳目では、周の文王(紀元前十一世紀)が野原を通過中に見かけた身寄りのない死者を鄭重に埋葬し、ために天下の人は「文王の仁(他に対する慈しみと思いやりの心)は死者にも及んだ。まして生ける人に対しては言うまでもない」と感嘆した、という逸話が述べられている。
賢明で慈悲深かった文王の徳に感応して、魚釣りをしていた賢者の太公望呂尚が参謀となることを承諾する。そして文王はこの名参謀と共に、さらにわが身に徳を修め、暴君として無道な政治を行って民衆を苦しめていた紂王(ちゅうおう)の国である殷(いん)が、内部崩壊せざるを得ないように画策して、天下万民の安寧(あんねい)を計った。結局、文王の偉業はその死後に即位した息子の武王に引き継がれて成就され、のちに孔子が理想とされた国家である周王朝がここに成立することになるのである。
「老人を敬い、子供を大切にし、賢者を鄭重に扱い、優秀な人物と話をするために食事の時間も惜しんだ」(『史記』)といわれる明君文王の周の国では、その感化で、農民たちはみな互いにあぜを譲り合い、何事も年長者を立てるという気風が満ちていた。或る時、二つの国の使者が両国間の紛争の仲裁を文王に依頼すべく周の領内に入り、その有様を目にして恥ずかしくなり、文王には逢わずに両者が和解して国に帰ったという。
これこそ、孔子の言われた「仁の人は無敵である」といわれた所以(ゆえん)である。目を転じて現今の世界情勢を見るに、戦争後のイラクの混迷を極める情勢といい、北朝鮮問題といい、日本・米国・北朝鮮のいずれをとっても、仁の徳を養うことを事としているような名指導者も名参謀も見受けることはできないのは、何と不幸で情けないことであろうか。
それは「温故知新」(古人の英知を謙虚に学んで、自ら修養すること)を欠いているからである。個々人が真の「修身」(わが身の修養)に励めば、自分自身が「至楽」(楽しみの極致)の醍醐味を味わえるだけではなく、ひいては、家庭・国家・全世界の平安がもたらされることは間違いない。そうではなく、個人や国家が他を思いやることなく自己の利益のみを追い求めるならば、人類の前途はまことに悲観的にならざるをえまい。
「天下は慈悲ぞ」と孫の竹千代君(のちの家光公)に戒められた徳川家康公の最後のお言葉を、今一度かみしめたいものである。
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Vol.10 無所得の法悦 (2003年12月)
今月はいささか個人的な事柄を述べることをお許し願いたい。
京都の洛東の私の寓居にはさまざまな方が来訪する。その中のお一人に73歳になる米人の老哲学教授がいる。彼が知り合いの米人教授に連れられて三ヶ月ほど前に初来訪した際、私はドイツのミュンヘン大学のラウベ教授の退官記念論文集に寄稿した拙論(PDFテキスト『東洋一貫の大道としての禅』を参照)の独訳を、請われてその老哲学教授に差し上げ、それを読んだ彼は再訪して私に参禅することを希望したのである。
(PDFテキスト「東洋一貫の大道としての禅」をダウンロード..)
膝が悪いので坐禅会への参加は見合わせ、二週間に一度の割合で一時間ほどの長時間の参禅を行うことにした。彼がその専門である西洋近世のデカルト哲学に満足できずに禅に参じたいというのは、ちょうど三十年前に私が通ったのと同じ道である。彼の提案により、私は今英語版のホームページのために「哲学から禅へ」の自伝を執筆中である。完成の暁(あかつき)にはまたご覧に供したいと思う。
さて、そうした経緯(いきさつ)で始まった老哲学教授の参禅は、極めて実り多いものとなった。定期的来訪以外にも、メールで彼が自らの心境を伝えてくるのに対して、その都度返信した。いわば「メール参禅」である。彼には公案禅で与えられる最初の関門(初関)である「無字の公案」を与えた。
唐代の名僧趙州(じょうしゅう)和尚ゆかりのこの有名な公案を拈提する仕方は、「無」について思索するのではなく、四六時中間断無く「ムー、ムー」と全身全霊で成り切って行くばかりである。
「赤子のように純真に工夫せよ」、「成果を考えず、ひたすら心をこめて無に成り切るべし」、「ただムームーというばかりでなく、そう拈じる自分は何ものぞと自問自答すべし」という私の指示に従って、73歳のその老哲学教授は真っ正直に工夫三昧に取り組んだ。お蔭で彼は未曾有(みぞう)の法悦体験を得ることができたと報告してきた。それに対して私は、「あなたの尊敬しておられる白隠和尚(江戸時代中期の名僧)も、大悟を自負して厳師から痛棒を喰らう羽目になった。少を得て足れりとすれば、それ以上の向上は望めない。慢心は禁物です」と注意を喚起した。彼は素直に忠告を聞き入れ、さらに工夫に取り組んでいる。
彼に来日の目的を尋ねた時の答えは、「まさにこのことをするためにこそ、やって参りました」というものであった。米国への帰国に際して、彼がご子息と一緒に挨拶に来た時、私は彼に「どうか寸暇を惜しんで間断無く工夫され、その法悦を限りなく育てて行かれるように」と言って固い握手を交わした。我々は国籍も異なり、20歳近くも年齢が若い私が彼の師になるという変則的形態ではあったが、深い信頼関係を結ぶことができたと思う。
彼の法悦がどこから由来するかと言えば、それは心を一点に集中することによって、余計な分別の重荷を下ろすことができ、自己を空じたが故の法悦であろう。無我・無相で無所得というのが本来の我々の姿である。
悟りの内容を端的に表現した有名な句がある。
諸法皆是因縁生(しーほうかいぜいんねんしょう)
[すべては因縁によって生ず]
因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう)
[因縁によって生ずるが故に、これといった実体は無い]
無自性故無去来(むじしょうこむこらい)
[自性がないが故に、行き来が無い)
無去来故無所得(むこらいこむしょとく)
[去来がないが故に、これが自分のものだというものは無い]
無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)
[無所得であるが故に、結局は空である]
畢竟空故是名(ひっきょうくうこぜみょう)
[畢竟空であるが故に]
般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)
[これを至高の悟りの智慧と名づけるのである]
彼はこの句の深遠な境地の醍醐味を存分には味わった訳ではないが、そのえも言えぬ香りに導かれて日々を過ごすことであろう。73歳の老境にして、この哲学教授の向上心は限りがない。我々も見習いたいものである。
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Vol.11 年頭所感 (2004年1月)
今新年明けましてお目出とうございます。
禅者の境涯としては、中国宋代の無門慧開禅師の言われたように、「春に百花有り、夏に涼風有り、秋に月有り、冬に雪有り。もし閑事の心頭にかくる無くんば、すなわちこれ人間の好時節(春夏秋冬の風景も、心によけいな分別妄想をもたない場合にこそ、初めて「好時節」となる)」と日々を味わうのが自然であろう。しかし、昨今の不穏な世界情勢を見ていると座視できないのもまた事実である。
イラク問題は当初このコラムで予想した通り、泥沼化の兆しを見せている。フセイン元大統領の身柄を確保したとはいえ、テロは一向に収束する気配がない。これは当然の理である。
米国が圧倒的軍事力を背景にして力でテロを封じ込めようとするのは、覇道(はどう)というものであり、真の大国の所業ではあるまい。米国追従こそが日本のとるべき道であり、他に選択肢はないというのが政府の見解であり、そう言う識者も数多くいることは事実である。しかし、それはただ西洋の学問的知識だけを学んで、東洋の先人の叡知から何も学んでいない人の言である。
江戸城無血開城を行った勝海舟は、西郷南洲(隆盛)との談判が決裂して戦闘となっても江戸市民を救済する方途を予め確保した上で、山岡鉄舟と共に尽力して日本国の危機を回避した。この三人に共通していたのは、禅修行などの東洋的伝統によって培(つちか)われた「無我と至誠」の赤心である。この二心なき赤心あるが故に、彼らはおのれの狭い利欲にとらわれることなく、平和裡に難題を解決することができたのである。
もし南洲が官軍の勢いをかさにきて、有無を言わせず幕府軍を成敗しようとしていれば、海舟を中心とした幕府軍も必死の抵抗を試み、江戸市中はもとより日本全土は戦乱のちまたと化し、挙げ句の果ては西洋列強の侵略にあっていたことであろう。明治になって海舟は、日本国の行く末を思うあまり、勝算はあったが徳川方は矛(ほこ)を収めるという卓見をもって対処したことを告白している。我々は賢明な先人を持ったことを誇りに思って良い。
翻って現今のイラク情勢を見るに、米国は圧倒的軍事力を背景にして、イラクの治安回復のためと称して占領統治を続けている。
半数以上のイラク民衆が失業し、一般市民も怒りの矛先(ほこさき)を米国などに向けている。
「テロの根絶」は一見もっとものような主張に聞こえるが、テロの原因は米国の強引な武力介入にあることを忘れてはいけない。
テロの根絶に武力を用いるのは、現在のイラク情勢でも分かるように、「火に油を注ぐ」ようなものであり、愚かで無慈悲な所業である。
西郷南洲の言うように、真の「大国」とは弱小国に対しても思いやりをもって慈悲深い態度で臨む国のことである。そうであってこそ他国から畏敬される国になれるであろうが、そのことを正面切って物申す識者がいないのは嘆かわしいことである。
テロを根絶させようとするならば、武力に訴える愚かな方法によるのではなく、イスラムの人々に対してテロを起す気にならぬような真の慈悲をもって臨むべきではなかろうか。
年頭に際して、イラク国民に早く平和な日が来るようにと願わずにはいられない。また、それがひいては世界平和をもたらすことになるであろう。
日本の賢明な先人の気高い行いを、今一度思い起こしたいものである。
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