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徳川家康公の仁政(一)

聖人を模範にして、わが身を修養してすべての人を真に安楽の境地にいざなうことこそ、我々の生きるべき道であり、またそれがひいては、自分の幸福をもたらすことになる。家康公こそは、聖賢の教えを見習えば平和な世界が築ける、という絶好の手本である。日本のみならず、世界の人達にも家康公の真の偉大さを知って頂きたいものである。


   
     

1、東洋の聖賢の道
2、
家康公の遺言
3、家康公の人格形成と聖賢・仏祖の教え
4、家康公が重視した書物と人物
5、慈悲が万事の根本

 


       

1、東洋の聖賢の道

二十一世紀に入ってからの世界情勢は、ますます争乱・混迷の度合いを深め、先行きはまったく不透明で、悲観的でさえある。もうこの辺で、人間同士がいがみ合い、殺し合うことの愚かさを、人類全体が謙虚に反省してよい時ではないか。
 
こういう時にこそ、世界史上その類を見ない、江戸時代二百六十年の長きにわたる太平の基(もとい)を築いた、偉大な日本人である徳川家康公(天文十一年−元和二年、1542−1616)の
仁政(慈愛に満ちた政治)と、それを可能にした人徳を学ぶことは、極めて意義深いことであろう。

家康公の人望・人徳を培ったものこそ、他ならぬ
東洋の聖賢の英知である。我が身のことだけしか考えない人に、人望・人徳がつくはずがなく、(他国のことを思いやるふりをして、その実は)自国の利益だけしか眼中にない国は、真の大国とはなり得ない。
東洋の聖賢の道は、まさに仁(相手に対する真の慈愛)の道である

『論語』にこういう一段がある(憲問第十四、岩波文庫、207頁)。

孔子の弟子の子路が「君子(徳行すぐれた人格者)とはどういう人ですか」と孔子に尋ねると、孔子は言われた。
わが身を修養して慎み深くなることだ。(己れを修めて以て敬す)
そこで、子路が、「そんなことだけでしょうか」と問うと、孔子は
わが身を修養して人を安らかにすることだ。(己れを修めて以て人を安んず)
と答えられた。そこで更に子路が、「そんなことだけでしょうか」と問うと、孔子は言われた。
わが身を修養して万民を安らかにすることだ。
わが身を修養して万民を安らかにするということは、(古代の聖天子である)堯(ぎょう)や舜(しゅん)ですら苦労された。
(己れを修めて以て百姓〔ひゃくせい〕を安んず。己れを修めて以て百姓を安んずるは、堯・舜もそれなおこれを病めり。)

これが聖人の大いなる仁の心であり、東洋精神の真骨頂である。『大学』の「修身・斉家・治国・平天下」という有名な言葉も、孔子のこの高邁な志を体したものであり、明治大帝が「
修身」の必要性を痛感されたのもそのためである。
戦前の日本は、せっかく修身を学びながら、修養不十分だったために、諸外国からの策謀に余裕をもって対処できず、帝国主義・軍国主義に走り、真の「平天下」(天下を安んずること)に至り得なかったのは、まことに痛恨の極みである。
真の「修身」(わが身を修養すること)の重要性は、その真意を熟考吟味することなく、この言葉を聞くだけで「戦前の軍国主義」を危惧する早まった人々や、国歌・国旗を強制していたずらに教師達の懸念を招くことしか考えつかない情けない政治家達などの、いまだ夢にだも見ざるものである。

これからご紹介する家康公の行跡は、聖賢の教えに学びつつわが身を修養する人が施政者になれば、遂には天下太平の時代を築くことが可能であるという確かな証拠である。

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2、家康公の遺言

昔から東洋では、「棺を蓋(おお)いて事(こと)定まる」と言われるが、家康公が元和二年(1616)に享年七十五歳で駿府城にて逝去される間際(まぎわ)に、諸大名を前にして、人生の総決算として残された次の「遺言」は、公の人物とその仁政の核心をよく顕(あらわ)すものである。

「わが命は風前のともしびではあるが、将軍(秀忠公)がこのようにしておられるので、天下のことも安心できる。だがしかし、もし将軍の政道が道理に外れ、万民が難儀して苦しむようなことがあれば、誰でもよいから国を統治する将軍職を交代して頂きたい。
天下は一人のためだけの(従ってまた、徳川氏だけの)天下ではない。天下は天下万民のための天下である。
たとえ徳川家以外の人が天下の政務を執り行なったとしても、四海安穏(天下泰平)になり、万人がその慈愛に満ちた政治の恩恵を蒙(こうむ)ることができるならば、もとよりこの家康も本望で、いささかも恨みに思うことはない。」

(わが命旦夕〔たんせき〕に迫るといえども、将軍かくおわしませば、天下のこと心安し。されども将軍の政道、その理にかなわず、億兆の民、艱難〔かんなん〕することあらんには、誰にてもその任に代えらるべし。
天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なり。
たとえ他人が天下の政務をとりたりとも、四海安穏〔あんのん〕にして万人その仁恵を蒙らば、もとより家康が本意にして、いささかも恨みに思うことなし。)

この遺言から明らかに見て取れるのは、家康公が、わが身や徳川家一門の繁栄のみをこととするような、器量の小さい人物ではなく、戦国の動乱で苦しみ疲弊していた天下万民のために、平和な時代の到来を心から願う
慈愛に満ちた風格の人であったということである。
 
豊臣家を滅ぼさざるを得なかったのも、秀頼では万民が安んじて暮らせるような時代を築くことができぬという洞察があったからでもあろう。
家康公の大器量は、「権力欲」という観点からしか施政者を見ることのできない人達には、決して理解されるものではない。

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「棺を蓋いて事定まる」:亡くなって棺(ひつぎ)のふたをして初めて、その人の生前の真価が定まる、ということで、『晋書』にある劉毅(りゅうき)の言葉。詩聖と称された杜甫などもこの言葉を使っている。

3、家康公の人格形成と聖賢・仏祖の教え

家康公は、幼時に多年の人質生活を送り、人生の辛酸をなめた人である。織田信長の父である信秀のもとには、6歳から8歳まで、今川義元のところには、8歳から、義元が桶狭間の合戦によって信長に討ち取られた19歳まで、という長きにわたる。
しかし、その雌伏十有余年の間に、家康公は、法蔵寺の教翁和尚に手習いや漢籍を習い、大樹寺の登誉上人には、
「厭離穢土・欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」を初めとした、人生の根本に関わる仏教の教えを学んだ。
 
家康公といえば、「南無阿弥陀仏」という六字の名号の筆写が有名であるが、それもこの登誉上人の勧めによるものだといわれる。公がどれほど上人を尊敬していたかについては、「位牌(いはい)は大樹寺に」という遺言が残っていることからも伺うことができる。

さらに、家康公は、駿府臨済寺の雪斎長老こと太原崇孚(たいげんすうふ)という禅僧についても古典籍を学んだ。
こうした幼時からの古典による学問鍛練の結果、家康公は、人の道の修養を説く聖賢の経典を読むことを終生やめることはなかった。その逸話集である『披沙揀金』巻第十九、「文学(学問の意)御取用(おとりもち)ひの御事」(420頁)には、家康公の学問(聖賢の教え)に対する熱意が次のように述べられている。

四書、取分け孟子を重んじられし事
「私は好んで書物を読ませ聞いているが、天下国家を治めるものは、四書をよくよく見聞しなければならぬ。それが時間がかかってできぬと言うのなら、孟子をよくよく味わうべきである。ただ、人によって考えが違うであろうが、私はそのように考える。」

(我好んで書物を読せ聞に、天下国家を治るものは、四書を能々見聞せずんばならざる事なり。是も永々敷事にて成ずんば、孟子を能々味ふべし。但、人によらんずるか。我は左様にあるなり。)
   
書籍版行の意義を説かれし事
「人として毎日をどのように暮らすべきかを知らないために、世の中も乱れ、君臣父子の恩(いわゆる忠孝)も見捨てられゆく。この道理を知らせるものは書籍である。世の中に広まるのは仁政(恵み深く思いやりのある政治)でなければならぬ」と言われて、家康公は書物の出版を命じられ、それより以後、四書五経や諸種の書物が世に多くなったのである。

(人として今日の行を知らざる故に、世も乱れ、君臣父子の恩も背けゆく。この道理を知らせんものは書籍なり。世に広まるは仁政なるべし」とて、書物の板行を仰付られ、夫よりして、四書五経・諸の書物、世に多くなりたり。)

「私がこの頃書物の版木を作り直して原版を改めさせているのは、古版が悪いからというように思うか。そうではない。このように古書を改版させ、文字の意味の間違いなどを細心の注意をして改めさせれば、人の道の吟味がこのことから起こると思うが故である。天下が皆そのような風になれば良いと思うのである。」
(我近頃書の改板さするは、何も古板を悪敷にすると思はんか。さにはあらず。如此古書を改板させ、字義の間違等を心を付、改さすれば、人道の吟味、是より起ると思ふゆへなり。天下皆其風になれよかしと思うなり。)

今引用した言葉から明らかに見て取れるように、家康公の考えでは、真の仁政を行なわんとすれば、治政者はまず人の道を学んで体得せねばならず、それには何よりもまず、四書五経を初めとする古典を学習して聖賢の教えを身に付けなければならないというのである。改版奨励に秘められた公の深謀遠慮の、何と気高いことであろうか。
 
今どきの日本の政治家や政治学者で、このような古典学習を通した「人の道」の体得の必要性を痛感し力説する人が、果たしているであろうか。人の道を学んでいないから、その言動たるや、低劣な現実論に終始し、家康公の如き人望も高邁な見識も欠けているから、太平の世を望むべくもないのである。

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厭離穢土・欣求浄土:この世を汚れた世界として厭(いと)い離れ、極楽浄土への往生を願うこと。民衆の苦を救い、太平の世を招来する言葉として、公が後に旗印に掲げた言葉。

4、家康公が重視した書物と人物


家康公は、雪斎長老一人を重用して滅亡の道を辿った今川義元の轍(てつ)を踏まず、良く知られた天海僧正や金地院崇伝以外にも、何人もの名僧の助言を受けておられたようである。
また、高名な儒者の藤原惺窩(せいか)には、唐の太宗の『貞観(じょうがん)政要』を、その弟子の林羅山(らざん)には『論語』などを、それぞれ講じさせて、学問修養に努められた。

人格修養のために学問をことのほか好まれた家康公が重視された書物と人物は、以下の通りである(『披沙揀金』421頁)。


 漢籍(中国の書籍):論語・中庸・史記・漢書・六韜(りくとう)
           三略・貞観政要など。
 和本(日本の書籍):延喜式・吾妻鏡など。
 中国の偉人    :大明の高祖・唐の太宗・魏徴・張良・韓信・
           太公望・周の文王・武王・周公旦
 日本の偉人    :源頼朝

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5、慈悲が万事の根本

それでは聖賢の教えに培われた家康公の人格の、従ってまた治政の核心となるものとは何か。
 
別名を『東照宮御遺訓』と呼ばれる『松永道斎聞書』(久能山東照宮刊)なる一書がある。これは井上主計頭正就(かずえのかみまさなり)が元和年間(1615−1623)の初め、二代将軍秀忠公の使いで駿府の家康公のもとへ行き、数日間の滞在中に、家康公が天下国家の政道の教訓を述べられたものを、後に松永道斎に述べた記録である。

家康公は元和三年に逝去されたので、この聞書きはまさに公の最晩年の円熟した境地を示すものである。江戸時代にこれを筆写して藩政のための手本とした藩主も多かったと伝えられる。
その中で、家康公は、古今不易の「日本の大宝」とは「三種の神器」であり、その理は「慈悲・智慧・正直」であるとして次のように言われている。

 
「まず慈悲が万事の根本であると知れ。慈悲より出た正直がまことの正直ぞ、また慈悲なき正直は薄情といって不正直ぞ。また慈悲より出た智慧がまことの智慧ぞ、慈悲なき智慧は邪な智慧である。中国ではこの大宝を智仁勇の三徳という。」
(先づ慈悲を万の根元と知れ。慈悲より出たる正直が誠の正直ぞ、又慈悲なき正直は刻薄と云て不正直ぞ。又慈悲より出たる智慧が誠の智慧ぞ、慈悲なき智慧は邪智慧なり。漢土には此大宝を智仁勇の三徳と云う。)
(同上書、54頁)

そのことを踏まえて、家康公は天下太平の秘訣を次のように説く。


「忘れても道理や人の道に反したことを行なってはならぬ。およそ悪逆(道に背いた悪事)は私欲より生ずるぞ。天下の乱はまた思い上がりより生ずるぞ。人民の安堵(あんど)は各人が家の職業を勤めることにある。天下の平和と政治の永続は上に立つ人の慈悲にかかっている。慈悲とは仁の道である。思い上がりを断って慈悲を万事の根本と定めて天下を治めるようにと申さねばならぬ。」
(忘ても無理非道なることを行はざれ。凡そ悪逆は私欲より出るぞ、天下の乱は又奢〔おごり〕より出るぞ。人民の安堵は銘々家職を勤るにあり。天下太平・治政長久は上たる人の慈悲にてあるぞ。慈悲とは仁の道ぞ。奢を断ちて慈悲を万〔よろず〕の根元と定て天下を治めたまへと申すべし。)

これなどは、弱小国に戦争を仕掛け、罪なき民を殺戮して止まない、かの国の大統領や、彼を支持する国民達に読み聞かせたいものである。

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