雲門文偃禅師は唐末から五代(864−949)にかけて活躍された名僧である。その伝記は、何といってもその言行録である『雲門広録』(とりわけ、その末尾の「雲門山光泰禅院匡真大師行録」)が基本となるが、『五燈会元』巻十五所載の記述、『禅学大辞典』(大修館書店)も参考になる。
1、雲門禅師の伝記
雲門禅師は諱(いみな)が文偃といい、俗姓を張という。浙江省・嘉興の出身であった。幼時から俗世間を厭(いと)い、17歳の時、遂に嘉興の空王寺の志澄律師の弟子となって出家した。禅師は生まれながら賢く聡明で、経典を読んでも一度で理解して再見を要しないほどであったので、律師も大層その器量を称(たた)えたという。20歳にして江蘇省・毘陵(びりょう)の戒壇で具足戒を受け、再び志澄律師のもとに戻って、戒律を集大成した四分律(しぶんりつ)を学んだ。
「行録(あんろく)」では、「厳格清浄に身を持する律を学んだことによって、悟りへの志が深く生じた」と言っているが、戒律を学ぶことを通して、「己事(こじ)究明」(真の自己の究明)の必要性が若き禅師に自覚されてきたものであろう。
そこで、禅師は志澄律師のもとを辞して、黄檗希運禅師の法嗣である睦州(ぼくしゅう)の道蹤(どうしょう)禅師(生没年不詳)に謁(えっ)して、そのもとで修行に励むことにした。だが何分にもこの道蹤禅師は、峻厳極まりない機鋒の禅匠であった。母親孝行でもあり、時の人は尊称して「陳尊宿」と呼んだ。或いは草鞋を作って母を養ったことで、「陳蒲鞋(ちんほあい)」とも呼ばれた。
雲門が初めて参じた折りのこと、睦州はわずかにその来るのを見るや、門を閉めてしまった。雲門が門を叩くと、睦州は「誰だ」と言ったので、「私です」と答えると、「どうしたのだ」と反問され、雲門は、「己事(自己の問題)をいまだ明らかにしてはおりません。どうかお示しを」と懇願したが、睦州は門を開いて一見するや直ちにまた門を閉じてしまった。こうして三日続けて同じように門を叩いたが、三日目に至り、睦州は遂に門を開いたので、雲門が中に入るや、睦州はたちまち胸ぐらを掴まえて、「さあ、(仏法にかなった一句を)言え言え」と迫り、雲門がたじろいで躊躇すると、睦州は推し出して「秦時のタクラクサン(阿房宮を造った際の大きな棒ぐいのこと、「この役立たずめ」の意)」と悪口を浴びせかけざまに重い門を閉めたが、その際に雲門は片足を折ってしまった。しかし、その刹那、雲門は図らずも大悟する機縁に恵まれたのである。
表面上は無慈悲極まりないように見える睦州のこの作略(さりゃく、活き活きした働き)こそは、その実、三日にわたり門を閉ざされ会ってもらえないうちに次第に凝縮したであろう、雲門の身心を挙げての大疑団を打ち破る慈悲の鉄槌(てっつい)であり、同時にそれ自身が、仏法の端的な直指(じきし、そのものずばりをじかに示す禅のやり方)でもあった。
こうして見性した(悟りを開いた)雲門は、真の名僧・睦州禅師のもとで更に真っ正直な修行生活を続けたが、或るとき睦州は、「わしはお前の師となって大成させてやることが出来ぬ。これからは雪峰義存禅師(822−908)に参ぜよ。これ以上ここに留まってはならぬ」(「行録」)と命じた。
このことから、雲門の大成のみを望んで、自分のことを顧慮することのない睦州の大悲心が見て取ることが出来るであろう。雲門ほどの越格底(おっかくてい、ずば抜けた人物の意)を弟子に持ったなら、誰しも自分の法を嗣がせて、わが法脈を盛んならしめたいと念願したいものであろうが、睦州は雲門自身のこと、ひいては仏法そのものを重視して、この愛弟子を雪峰禅師に託したのである。
それは、雪峰が、あちこちの道場で下積みの典座(てんぞ、飯炊き役)をしながら刻苦して修行を円成(えんじょう、成就)されたので、その道力と徳とを兼備していた新進の雪峰の力量を、睦州が見込んでのことと思われる。
果たして睦州の眼力に違わず、雲門は雪峰と師資証契(しししょうかい、師弟の境涯がぴったりと合致すること)して、遂にその法を嗣ぐことになるのであるが、雲門が初めて雪峰に相見(しょうけん)した経緯(いきさつ)が面白い。
雲門が雪峰山の麓(ふもと)にある寺領に到って、一人の僧を見かけた。雲門が「上座はこれからお寺に行かれるお積もりか」と問うと、僧は「その通りです」と答えたので、雲門は言った、「一則の因縁(禅的問題)を出して堂頭和尚(どうちょう・おしょう、住持のこと)に尋ねて頂けないか。ただ、それが別人の語であるとは言ってもらっては困る」と。その僧が納得したので雲門は次の様に頼んだ、「上座が山中に到って和尚の上堂を見て、大衆が集まった頃を見計らって出て腕を上げて立ち上がり言って頂きたい、『この老漢(おやじ)頭の上の鉄枷(てつのかせ)をどうして脱却出来ないのか』と」。
くだんの僧は雲門に頼まれた通りに言ったが、雪峰はこの僧がそういうのを見て、たちまち座を下って僧の胸ぐらを掴まえて、「すみやかに言え」と迫った。僧はもとより答えられるはずもなかったので、雪峰は胸ぐらを押して「これはお前の言葉ではあるまい」というと、僧が「いや、これは私の言葉です」と否定したので、雪峰が痛棒をくらわそうとしたところ、さすがにその僧も、「その言葉は私自身のものではなく、質問するように寺領のところで或る上座に言われたのです」と告白したところ、雪峰は、「修行者達よ、寺領まで出向いて五百人を指導する善知識(名僧)をお迎えしてこい」と命じた。次の日、雲門が雪峰山に登り、道場まで到ると、それを見かけた雪峰は、「何故にこの地に来られた」と尋ねると、雲門はご無礼を致しましたとばかり、低頭した。
こうしてぴったりと息の合った明師に巡り合った雲門は、雪峰義存禅師のもとで玄沙師備・長慶慧陵・保福従展・鏡清道フ・太原孚上座などの歴々と切磋琢磨して修行研鑽を積み、遂にその法を嗣ぐことになる。
雪峰に嗣法した雲門は、そこを辞して諸方を遊歴して様々な禅者と交わった。『雲門広録』所載の「遊方遺録」を見ると、雲門が如何に多くの名僧に歴参したかが分かる。
その後、広東省にある曹溪六祖大師の塔を拝した雲門は、霊樹如敏禅師(長慶大安の法嗣、知聖禅師と号す)の道場に赴き、そこで、首座(しゅそ、雲水中の筆頭者)として長養の時節を過ごすことになる。
この霊樹はこの道場に住すること二十年の間、修行僧達の懇願にも拘らず、首座を置かず、「わが首座は遊方中である」などと予言し、雲門が到るに及んで、ようやく首座職を命じたと言われる。
そうして、その遷化(せんげ、禅僧の死去のこと)に際して、雲門が霊樹の後住になることを遺言し、その結果、雲門はその法席を嗣ぐことになる。時に雲門はすでに54歳になっていた。更にその5年後にようやく雲門山を開いてその開山となり、「雲門天子」と称された宗風を大いに振うのである。
それにしても、雲門が、睦州のもとで大悟し、雪峰に嗣法したにも拘らず、更に歴参して霊樹のもとで長らく首座を勤めたということは、まことに「ただ大法あることを知って、わが身あることを知らず」というべきもので、それこそ無我の実践そのものである。
歴参・長養の芳躅(ほうちょく)が地に落ち、歴参する者を「転錫者」呼ばわりする日本禅界の現状を見るにつけても、そこまで我を空しくして長養された雲門文偃禅師の高風が慕われるのである。
雲門宗はあまりに宗風が気高くて後世途絶えてしまったが、わが国の臨済宗には、「雲門の関」の公案によっていずれも大悟された大燈・関山の両国師を通じて、雲門宗の家風が流入している。
禅師が開かれた雲門山大覚禅寺(光泰禅院)の境致は、今なおその高邁な宗風を彷彿(ほうふつ)とさせる気高い息吹を醸(かも)し出している。
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2、雲門禅師の活作略
雲門の弟子に対する指導法は、自分が睦州の悪辣(あくらつ)の手段によって開悟した経験を踏まえ、修行者の分別を根こそぎ奪い尽くす、まさに天然の活作略(かっさりゃく)である。
『雲門広録』を拝読すると、雲門の臨機応変の対応が随所に散見されるが、ここでは有名な二つの場合を採り上げてみよう。
雲門の道場へ洞山守初(とうざんしゅしょ、910−990)が初めて参じた時のことである。雲門が「近離いずれの処ぞ」(どこから来られたかな)と尋ねたところ、洞山は「査渡(さと)」と答えた。また雲門が、「夏(げ)いずれの処にか在りし」(夏安居の修行期間をどこで過ごしたか)と問うと、洞山は「湖南の報慈(ほうず)」と答えた。更に、雲門が、「幾ばく時か彼(かしこ)を離る」(そこを出立したのはいつ頃か)と問うと、洞山は「八月二十五」と答えた。すると、雲門は突然、「汝に三頓の棒を放(ゆる)す」(お前のような奴は六十棒を喰らわせてぶちのめしてやるところだが、今日はこらえておいてやろう)と痛烈な言葉を投げ掛けた。
洞山は、ありのままを正直に答えたのに、自分がどうして痛棒を喫するべきなのかが分からない。一晩悩み苦しんだ洞山は、次の日に再び雲門に参じて尋ねずにはおれなかった。「昨日、三頓の棒を許すと言われましたが、一体、私の答え方のどこが間違っていて痛棒を喰らわされなければならないのでしょうか」、こう洞山が問うと、雲門は、「飯袋子(はんたいす)、江西湖南、すなわち恁麼(いんも)にし去るか」(この無駄飯喰らいめが、禅の盛んな江西湖南をうろつきながら、そのざまはなんだ)と大喝した。『無門関』の一則としてこの問答を採り上げた無門慧開禅師は、この雲門の言葉に関して、「前箭(ぜんせん)はなお軽く、後箭は深し」(最初の「汝に三頓の棒を放す」の語はさほどでもなかったが、この後で発せられた「無駄飯喰らいめ云々」という言葉の矢は深く洞山の胸に突き刺さった)と評している。まことにこの雲門の大喝によって、遂に洞山は大悟することができたのである。
洞山は正直に答えていながらどうして雲門に大喝されなければならなかったのであろうか、また何故にこの大喝によって洞山は大悟できたのであろうか。
雲門の矢継ぎ早の問いに対して何の計らいもなく極く自然に有りのままを答えていた洞山の対応は、すでに大悟徹底した雲門から見れば、無我の妙用(みょうゆう、摩訶不思議で霊妙な働き)そのものに外ならない。自ら大光明を放ちながら一向にそれを覚(さと)ることのない洞山のために、雲門ははからずも「汝に三頓の棒を放す」と慈悲の痛棒を喰らわせざるを得なかったのである。
この雲門の一言によって洞山は満身疑いの固まりになってしまった。現在の臨済禅のように、別に師家の室内に参禅して公案をもらい拈提するように命じられた訳でもないのに、洞山は当たり前の答えをしている自分がどうしてあのように痛罵されねばならぬのかという疑団に取りつかれてしまった。だが、これこそ修行にとっては好時節というものである。
おそらくあれこれ考え抜いて一睡もできずに夜を過ごした洞山は、翌日再度雲門に問い質(ただ)さざるを得なかった。その洞山に対して雲門は更に百雷落つるが如き大喝を喰らわせた、「この禅の盛んな地方をうろつき回りながら、自己の一問一答、一挙一動がいちいち大光明を放っていることをどうして分からないのか。お前自身がすでに円満具足した存在ではないか」と。時節因縁が熟したと言おうか、ようやく洞山は大悟することができたのである。
それにしてもこの雲門の活作略は何と見事なことであろうか。修行者を絶体絶命の処に追い込んで命根(みょうこん、生死・分別・二元対立の根)を根こそぎにして大死一番させ、絶後に蘇らせ大悟に導く、これこそ雲門が越格底(おっかくてい、ずば抜けた)の名僧たる所以(ゆえん)である。
大悟した洞山は嬉しさのあまり、覚えず雲門の深恩に報いる一句を吐いて言った、「この法悦を自分だけが享受することはできませぬ。宇宙大の無の自己を悟った上は、最早米一粒も貯えることのできない草庵のわび住まいでも一向に構いませぬ。そうして、大法を求めてやって来るもの達の煩悩を抜き、悟りの垢を抜き、これまでの習い性を根こそぎにして臭みを取り、無礙自在の境地に至らしめて、一切のはからいのすり切れた『無事』の禅僧にしてやりたいものです。こんな痛快なことがありましょうか」と。
それを聞いて、雲門は喜びのあまり、「お前はヤシの身の様な小さな身体をして、何と大口をたたく様になったことか」と毒舌を吐いたということである。
今一人は、香林澄遠(きょうりんちょうおん、908−987)の場合である。この人は雲門の一言一句を紙の衣に書き留めて後世に伝えた人で、「紙衣侍者」と呼ばれ、後に雲門の有力な法嗣の一人となるのであるが、その修行たるや、並み大抵のものではなかった。
雲門が呼んで香林が応じるたびに、雲門はいつもすかさず「これ何ぞ」(そう答えているお前自身は一体何ものか。お前の真実の自己とは何か)と問い続けること、何と十九年であったという。
現代の様に、弟子の初見性を見届けずして容易に公案を許し、弟子を失望させてしまう師家が多いのに比べて、雲門と言い香林と言い、これは一体何という根気のある修行振りであろうか。この赤心・菩提心をもってこそ、真実の名僧が打出されるのである。真の道心ある師弟の間柄には、マンネリや形式だけの問答は決して起こり得ない。
この師弟共に命がけの十九年の研鑽が遂に結実して、香林は大悟の時節を迎えた。名僧となって大いに雲門の宗風を振った香林澄遠は、八十歳で遷化するに際して、「老僧四十年まさに打成一片(たじょういっぺん)」(わしはこの四十年間というもの、まさに心境一如の禅定三昧の只中で暮らしてきたわい)と言い残したという。
真の名僧のもとには真の弟子が打ち出されることが良く分かる。雲門文偃禅師の高風を学んで、今一度風前のともしびの宗風を挽回したいものである。
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