「仁と誠の生き方」2016年12月【No.162】

弟子たちが編纂した孔子の言行録である『論語』には、儒教の最高徳目である「仁」についての記述が数多くあります。「子の曰く、人にして仁ならずんば、礼を如何。人にして仁ならずんば、楽を如何。」(八佾第三)礼楽(れいがく)とは礼儀と雅楽(音楽)のことで、人間の品性や社会秩序をととのえるものとして孔子も非常に重視されたものですが、それすらも「人として仁でなければどうしようもない」と言っておられるのです。「仁」とは「他人に対する思いやりや慈しみの心」のことで、仁の人は「有徳者」であると讃えられております。

『論語』にはこのとりわけ重要な「仁」について、色んな記述があります。例えば、「巧言令色、すくなし仁」(学而)(言葉を巧みに飾り、顔色をとり作ったりするような人に仁はない)、「まことに仁に志せば、悪しきこと無し」(里仁)、「君子は食を終えるの間も仁に違うこと無し」(里仁)、「仁者は憂えず」(子罕)などで、いずれも人口に膾炙した孔子聖人の金言です。その孔子の風格を弟子の子貢は「温良恭倹譲」(おだやかで、すなおで、うやうやしくて、つつましくて、へりくだりであられる)と評しておりますが、この様な肩の力を抜いた自然体で謙虚な方がおられれば、それこそまさに万人に仰ぎ慕われるでありましょう。

小衲が出家前の25歳の時から3年間の薫陶を受けたのが60歳年長の森本省念老師(室号・孝慈室)ですが、名利の念が微塵もなく、ご母堂の介護をされながら仏道に邁進され、徳の高いことで知られる森本老師は、孔子をとりわけ尊敬しておられました。提唱の講本にも『論語』が使われたことがあります。禅を世界に広めるのに絶大な功績のあった鈴木大拙居士が、もっとも尊重された禅僧として森本老師は知られておりますが、この老師の日常底はまさしく「温良恭倹譲」そのものでした。勝海舟は、明治天皇の教育係である侍読を務め、明治天皇のご依頼によりわが国最初の修身書として『幼学綱要』を編纂した熊本藩出身の元田永孚(もとだながざね)のことを、「温良恭倹譲の人だ」と評していますが、これ以上の称賛はないほどの評価だと思われます。小衲はまた或る方が森本老師へのお葉書の末尾に「賢聖様」と書かれておられたのを見て、「徳の高いお方はこのように呼ばれるのか」と感嘆した覚えがあります。

「仁」と並んで重要な徳目は何といっても「誠」です。他人に対する思いやりである「仁」も、真心がなければ本当には起こらないでしょう。孔子も、礼は末節のことよりも誠心が根本だと考えておられましたが、それをさらに明確に表現されたのが、孔子の孫である子思です。子思の編纂された『中庸』はいわゆる四書のひとつとして極めて重要な書物ですが、そこには「至誠息(や)むことなし」とか「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり。」といわれております。天の道である誠を本当に実践することこそ人の道であるというのです。

鎌倉円覚寺の今北洪川老師(文化13年—明治25年、1816−1892)は儒者の身で禅僧となられた名僧ですが、「性誠の論」という一文をものされ、「誠」ないしは「至誠」の重要性を次のように述べておられます、「 性は誠である。これを尊崇して、至誠といい、徳性といい、正法眼蔵といい、一真法界という。つらつら考えるに、性誠の外に神道は無く、性誠の外に儒教は無く、性誠の外に仏法は無い」、「わが禅門では、若年にして書物を放擲して専門道場に入り、十年・二十年と幾多の艱難辛苦を喫し、一大事因縁を参究するのは、ただ行解(法理と実践)が純真な性誠の心境に到達せんがためである」と(『蒼龍広録』巻二・二丁表)。今北老師の薫陶を受けた鈴木大拙居士が、老師の人格を「至誠」の一語で言い表されているのは、老師が日常底にあっても「純真な性誠」の心境に到達しておられたからでしょう。

禅の修行をする雲衲たちは、この至誠心をもって老師にお仕えし、作務や坐禅や公案工夫に邁進するのです。このような基本態度で修行生活を送ると毎日が充実して法悦三昧になってきます。それに反して手抜きや横着をすれば、師家にたちまち見抜かれてしまいますし、第一、自分にとっても不平不満がつのることになります。江戸時代に編纂されました『雛僧要訓』という書物には、「自分の師匠が正しくないと思っても、決してその非を数え上げてはならない。他人の非を論じるだけでも、わが身の徳を損なうものである。まして大恩ある自分の師匠の非を並べ立てることはなおさら徳を減ずることになる。わたしは多年このことを注視してきたが、師家の到らぬところをとやかくいうもので修行生活を全うした者をただの一人も見たことがない。これは深く慎むべきことである。」と厳しく忠告しておられます。真箇に工夫三昧でおれば、他人のことをとやかく批判する暇はないはずです。

私たちの日常生活にあっても、他人のことを色々と陰口を叩く人は信用できないように思います。禅の修行を専門にする人でなくても、相手に対して思いやりをもち、真心を尽くすことは、とても大切ではないかと思います。

小衲も、至らぬながらも、来客にはできるだけ誠心誠意をもって応対致します。5,6年前のことでしょうか、米国人の監督とカメラマンが、禅寺の撮影をしたいということでやって来て、色々と案内や禅について話をしたのですが、カメラマンがひそかに語ったところによると、監督の息子さんはうつ病気味で監督自身も気に病んでいたとのことでしたが、帰り際には実に晴れ晴れとした笑顔で、”Thank you for your hospitality.”といってくれました。hospitalityとは「歓待」ということでしょうか。小衲が歓迎してもてなしたことが伝わったことが分かり、こちらも笑顔でお見送りした次第です。

これはたまたまあるテレビ番組で知ったことなのですが、自分が満足することをおこなうのは私たちの免疫力を向上させるように思われていますが、実はそうではなく、自分だけのためにした行動に満足感を感じても、それは免疫力を向上させるどころか、かえって減少させることになるということです。ではどうすれば向上させることができるのかといえば、何といっても他人のためにすることが最も免疫力を向上させることになるそうです。これは人類の長い歴史の中で育まれてきた助け合いの重要性を示しているそうです。

私たちもお互い自分だけのことを考えずに、親身になって他の人のことを考えられる心豊かで楽しい毎日を送りたいものですね。世知辛い世の中ですが、そういう人が何人もできれば、周りの人たちも次第に潤いを感じていくことになるのではないでしょうか。しかし、「言うは易くして行い難し」で、かく申す小衲もまだまだ至らぬことを痛感する毎日です。

「先の大戦の真相と戦後日本の反省」2016年11月【No.161】

飯田進という方をご存知でしょうか。去る10月の13日に93歳で亡くなられた元BC級戦犯の方です。テレビなどでも放映されましたし(例えば「サンデーモーニング」の「風を読む」のコーナー)、ネットでも情報が発信されました。小衲はネットで初めてこの方のことを知り、ぜひともその著作を拝読する必要があると思い、『魂鎮(たましずめ)への道』、『地獄の日本兵』、『たとえ明日世界が滅びるとしても』などを取り寄せて、貪るように一挙に読みました。そしてその結果、自分のこれまで抱いていた先の大戦に関する思いを根底から覆される経験をしたのです。

禅僧がこのようなことに言及するとはと、怪訝に思われる方もあるかも知れません。ですが、終戦二年半後にこの世に生を受け、数々の戦禍の残る有様が眼に焼き付いている世代です。亡き母と大阪の環状線に乗った際、長い間、米軍の空爆を受けてそのままに放置されていた広範囲に及ぶ戦禍の跡について、母が「あれは砲兵工廠(ほうへいこうしょう)が爆撃された跡だ」と教えてくれました。砲兵工廠とは大村益次郎の構想により明治初年(1867)に大阪城内に造られた陸軍の兵器工場です。その後、だいぶ経ってからいつの間にかその跡は撤去されましたが、往事のすさまじい状況は眼の底に焼きついております。また梅田の地下街では白衣の傷痍軍人が松葉杖をつきながら物乞いをする光景を何度も見たことがあります。

しかし、何よりも三百数十万人もの方々が亡くなられ、わが国が初めて敗戦の憂き目を見て米国の占領国となったというこの厳然たる事実は、日本人ならば何人たりとも決して看過することのできないことではないでしょうか。ご自分の身近な人が戦没したり出征された経験を持つ人は数多いことでしょう。小衲の坐禅会の久参底の方のご尊父は生まれたばかりの一人息子を日本に残して舞鶴港から出征され、そのまま戦死して今は靖国神社にお祀りされているとのことです。わが国の至るところで言語に絶する辛酸をなめた国民が多くいることを、私たちは決して平和な現代でも忘れてはならないと思います。

実は飯田氏の著書を拝読する少し前に、井上和彦氏の『大東亜戦争秘録 日本軍はこんなに強かった!』という本を読んだのですが、井上氏は、敗れはしたものの日本軍が各地の戦線においていかに勇猛果敢に戦ったかということを、敵将であった蒋介石の「日本の軍人精神は東洋民族の誇りたることを学べ」という訓示などを引いて称揚しています。この書を読んで初めて知ったのは、全長30メートル、全幅43メートルに及び、「超空の要塞」といわれ、日本の各地に焼夷弾を投下して数多くの一般市民を殺戮した最強の米軍爆撃機であったB−29が、本土防空を担う陸軍航空部隊によって700機以上も撃墜されたという事実です。母の口からもよくB−29による爆撃の話がでました。高度1万メートルを飛ぶB−29には日本軍は到底なすすべがなかったと思っていたのですが、これほど撃墜していたとは意外なことでした。

とはいえ、確かに日本軍が一面で「勇猛無比」であったことは事実でしょうが、実際に戦場に行って想像を絶する苦難を経てこられた飯田氏が、「満身創痍」の「手負い」となってさらけ出された戦争の暗部の厳然たる実相の記述に比すれば、あまりにも楽観的で皮相的であるとの思いはぬぐいきれません。「戦争」という国家間の殺し合いがどれほど悲惨を極めたものかを、私たちは飯田氏の一連の遺著により身に沁みて知る必要があると思います。そして戦なき平和の時代の有り難さに心から感謝し、もう二度とあのような悲劇が起こることのないように国民一人一人が心することが大切なのではないでしょうか。どうも昨今の政治情勢を見ていると、その点に大いに危惧の念を禁じ得ません。

実はだいぶ以前に小衲が日課の早朝掃き掃除をしていると、南禅寺の山内をときおり散歩するご老人がおられたのですが、その方が或るとき、「戦友から送ってきたものです。どうぞお飲み下さい」といって銘酒を数本もってきて頂きました。それ以来、幾度となく頂戴しましたが、戦地に従軍の経験がおありになるということを知って、ぜひとも体験談を拝聴したいとお願いしましたが、ほとんど話を聞かせて頂くことはできませんでした。飯田氏の著作を拝読して、そのわけが分かりました。戦地での実情などはとても人に話して聞かせられるようなものではなく、言語に絶する悲惨なものだということです。

飯田氏は『地獄の日本兵』の「おわりに」で次のように述べておられます。
「これまで、私の体験と元兵士たちの記録をたどって、ニューギニア戦線の実相を描いてきました。それは、勇戦敢闘したある兵士の物語ではなく、飢えて野垂れ死にしなければならなかった大勢の兵士たちの実態です。
重ねて強調しておきますが、これはニューギニアに限りません。太平洋戦争戦域各地に共通していたことなのです。二百数十万人に達する戦没者の大多数が、本国から遠く離れて、同じような運命をたどらされたのでした。
この酷いとも凄惨とも、喩えようのない最期を若者たちに強いたことを、戦後の日本人の大多数は、知らないまま過ごしてきました。この事実を知らずに、靖国問題についていくら議論をしても虚しいばかりだと私は思います。この思いが、人生の終末を生きている私に、この原稿を執筆させる動機を与えたのです。
嫌なことには目を向けたくない習性が、人間にはあります。嫌なことを忘れることによって、人間は生き延び得るのかもしれません。この習性は個人には許されても、国家や民族には許されません。60年前のことをすっかり忘れるような集団健忘症は、また違った形で、より大きな過ちを繰り返させるのではないかと危惧するからです。今日の日本を覆う腐敗や犯罪をもたらしている禍根は、ここに淵源していると私は考えています。」

飯田氏はまた『魂鎮(たましずめ)への道』の中で、次のように吐露しておられます。
「忠勇無比をうたわれた日本兵は、ジャングルのなかを右往左往したあげく、みじめなのたれ死にしたのです。(中略)戦いの相手は、もちろんアメリカ軍を主とする連合軍でした。だから日本兵が敵に対して、憎しみをもっていたのはあたりまえです。しかし飢えと疲労の極限をさまよい、のたれ死にを迫られた兵隊たちが、だれをもっとも恨んで死んでいったと思いますか。
あえて断言します。それはアメリカ兵に対してではない。日本軍の参謀たち、とりわけ作戦の中枢にいた大本営の参謀に対してです。兵士たちが書き残したおびただしい手記のいたるところに、軍上層部に対する呪詛(じゅそ)と怨念があふれています。日本兵は、敵によるだけでなく、日本軍の参謀によって殺された、といって差し支えありません。」

その大本営参謀本部を実質的に牛耳っていたのは、作戦課長の服部卓四郎と作戦課戦力班長の辻政信とでした。この二人は共に実情を無視した攻撃一辺倒の向こう見ずな作戦に固執し、敵を過小評価して次々に部隊を繰り出し、数多くの兵士を飢え死にさせるような愚行を重ねたのです。しかし飯田氏らのようにやむを得ずに犯さざるを得なかった罪のためにBC級戦犯となって巣鴨プリズンに投獄されたり、戦勝国の理不尽な裁判の結果、処刑された兵士たちとは異なり、服部と辻の両人は戦後何らの責任を問われ追究されることがありませんでした。本当に理不尽極まりないことです。

それどころか、辻は戦後に衆議院議員・参議院議員を長く勤めました。またソ連を仮想敵国としていた関東軍の作戦主任であった服部の如きは、戦後の米国により重要な人材と見なされ、朝鮮戦争の勃発を契機としてGHQの依頼により再軍備を画策し、その結果として創設されたのが警察予備隊です。現在の自衛隊の創設には多くの旧軍人が関与しているということです。それはまさに「奇怪な衣裳をまとった」日陰者としての軍隊の出現であり、東京裁判の訴追理由と、真っ向から相反する出来事であったがために、巣鴨プリズンに収監されていた人々は、「おれたちは一体何のために裁かれたのか。何のために収監されているのか」という「計り知れない衝撃」を受けたのです。

飯田氏は結論づけておられます。「戦後の日本が内蔵し続けている倫理的・道徳的な堕落と退廃の淵源は、そこにあるとぼくは思っています。」(『魂鎮(たましずめ)への道』岩波現代文庫版、348頁)

飯田氏が明らかにされているように、日本軍の悪行を断罪して多くの戦犯を作り出したアメリカ軍が、捕虜や沈没船の兵士らを片っ端から機銃掃射したということが普通にあったそうです。B−29の各都市へのじゅうたん爆撃や原爆投下による一般国民の無差別殺戮は明らかに戦争犯罪に他なりません。とはいえ、一方では、日本の侵攻により2000万人以上もの人たちが亡くなったということを忘れるわけには参りません。こうした理不尽なことが次々に起こるのが戦争というものなのでしょう。

いずれにしましても、小衲には、先の大戦の実相を本当に知りたいと思われる方があれば、飯田進氏の一連の遺著は必読のものであると思われます。また飯田氏が参考にされた他の方々の著作も重要です。そこに書き連ねられている想像を絶する悲惨な出来事を直視し、戦後のわが国の問題点を根本的に反省することなくしては、戦後の清算は決してできないのではないでしょうか。

今回のコラムは、切実なテーマゆえに例外的に長くなりましたことを、ご寛恕のほどお願い申し上げます。合掌。

「近世京都の宮廷文化展」2016年10月【No.160】

今月のコラムは「近世京都の宮廷文化」展のご紹介をしようと思います。

京都は延暦十三年(794)に桓武天皇が都として定められて以来、宮廷を中心として幾多の雅びな文化を育んで参りました。慶応三年(1867)十月十四日の十五代将軍・徳川慶喜公の二条城における大政奉還により、江戸幕府は統治権を京都の朝廷に返上してここに明治新政府が誕生したのです。若き明治天皇は江戸で直接政治をみて、関東の人心を安んずるために江戸を「東京」として行幸・滞在され、時の太政官(政府)も移動となったのですが、時の天皇が正式に都の移転を宣言されるいわゆる「遷都の詔勅」は発布されてはおらず、「行幸」である以上、京都の人々は「天皇はまた還幸される(京都に戻ってこられる)」と思い込んでいたようです。しかし天皇はそののちも京都には還幸されることなく、明治十年(1877)に京都御所の保存を命じられ、それ以降は現在に至るまで日本の首都は東京と考えられております。

京都で花開いた宮廷文化の粋を結集した最高の晴れ舞台が、天皇の大礼(即位式と大嘗祭)であることはいうを俟たないことです。明治天皇の時には、慶応二年十二月に孝明天皇が崩御され、翌年の正月に睦仁親王(明治天皇)が践祚され、践祚の後に皇位継承を知らしめんがための即位式は慶応四年八月二十七日に京都御所の紫宸殿にて行われ、大嘗祭(即位の礼の後で行われる新嘗祭のこと)明治四年十一月十七日に東京で行われました。

明治維新により東京遷都があり、天皇が国家の最高指導者に位置づけられてからは、旧皇室典範並びに登極令の制定により、天皇の践祚・即位に関する一連の儀式の様式が定められ、御大礼(即位の礼)は京都で行う旨が規定されていたため、大正天皇・昭和天皇の場合には、京都御所で平安様式により執り行われました。昭和二十二年制定の現行の皇室典範では場所については規定されておらず、平成の即位の礼・大嘗祭は皇居で行われました。このために従来は「紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」と呼ばれました。

このたびの「近世京都の宮廷文化」展は皇學館大学・佐川記念神道博物館所蔵の小原家文庫をはじめ、大切に伝えられてきました江戸時代以来の大礼(即位式・大嘗祭)に関する貴重な史料に加えて、拙寺である光雲寺所蔵の東福門院(後水尾天皇の中宮・徳川二代将軍秀忠公の姫君)ゆかりの品々が展示されております。

会場は京都の伏見区にある京セラ本社の一階会場と、そこから徒歩五分の至近距離にある城南宮との二会場に分かれて展示されております。平安京の初めに都の安寧と守護を祈願して創建された城南宮は「曲水の宴」が催されることでも有名ですが、「方除(ほうよけ)の大社」と呼ばれ、方位の障りや家相の心配がないように祈願する人がお参りされるということです。

両会場とも貴重な展示品の数々が集められております。このような素晴らしい展覧会が可能となりましたのも、京都産業大学名誉教授であられる所功先生のご尽力によるところが多いと思われます。光雲寺に東福門院御像を初めとするゆかりの品々の出展を依頼してこられたのも先生です。どうか多くの方々がこの重要な展覧会にご来訪下さるようにお願い申し上げます(なお、入場料は両会場とも無料で、駐車場も完備されております。)

「呼吸法と禅定」2016年9月【No.159】

坐禅修行にとって「呼吸法」が重要な意味を持つことは、いやしくも少し坐禅を経験した人ならば、誰しも知っていることだと思います。しかし、では正しい「呼吸法」を実践して真箇の禅定に入った人が多くいるのかと言えば、長年、専門道場で修行したり坐禅会を主宰したりしている経験からありていに申せば、なかなか本当に禅定を体験した人は少ないように見受けられます。

その原因は、恐らくはその人が惰性で坐禅をするだけで、肝心の呼吸法を真剣に修していないからではないでしょうか。もとよりどの人も無意識の間に呼吸はしているのですが、それに意識的に集中することで「呼吸法」というものが成り立ちます。そして呼吸に対するこの集中があるかないかで雲泥の差が生じます。目の色を変えるほど真剣に呼吸に集中すれば、禅定に入ることは実はそれほど難しいことではありません。真剣に坐禅工夫している人には、何か犯しがたい威厳や風格が見られるはずです。

釈尊が行じておられた「呼吸法」は、「安那般那(あなはな)」、すなわち出入の息に心を集中して禅定に入る観法である「入出息念定」(アナパーナ・サチ・サマーディー)と呼ばれるものです。坐禅を組んで、脊梁骨を伸ばし、肩の力を抜いて臍下丹田に気を充実させ、「調身」ができれば、次に深い呼吸をしながらそれにひたすら意識を集中します。この「調息」ができれば、おのずから「調心」が可能となります。

仏教が中国に入ってきた二世紀後半に安世高という人により翻訳された『大安般守意経』という、「入出息念定」を論じた経典がありますが、この教えの通りに息を調えることに集中していけば、通常の意識分別による「われ」や「自分」という思い込みがいつの間にか消失してしまいます。そうして天地宇宙につながる大いなる命が実は私たちを貫いている本来の有り方であることをしみじみと味わうことができるようになります。

ただその際、釈尊も強調されているように、何よりも大切なことは出入の息を「意識する」ことです。呼吸を意識することなしに漫然と坐禅をしていても、時間の浪費になるだけで、何年経っても禅定力のつくはずはありません。工夫をしていなければ、どうしても居眠りなどが出てしまいますし、長年坐禅修行した人から見れば、一見しただけで、「この人は真剣に工夫していない」ということが分かるものです。「意識せよ」とは「集中せよ」ということでしょう。この意識や集中を欠けば禅定に入ることは不可能になります。小衲も出入の息に集中して、それこそ何時間でも坐禅可能のような佳境に入ったことが幾度となくあります。釈尊は二ヶ月の間、食事を運ぶ弟子以外は人を遠ざけられて「入出息念定」の坐禅工夫を続けられたと言われておりますが、その際の法悦たるや、如何ばかりであったかと拝察されます。

公案を工夫している方は、坐禅の時だけではなく、行住坐臥・四六時中目の色を変えて工夫三昧になることが肝要です。成果を求めず、ただひたすら公案三昧になることです。公案工夫に骨を折られた人はその三昧境の醍醐味をご存知のはずです。「坐禅は安楽の法門」と言われておりますが、その法悦を味わえるのは自分が実際に骨を折って工夫した人だけです。

くれぐれもご注意申し上げたいのは、ただ呼吸法の重要性を知っているのと、出入りの呼吸への集中を実際に行うのとは全然違うということです。公案工夫も本当にやらなければ法悦を得ることはできません。坐禅弁道によって真の禅定を得たいと思われる方は、どうぞ実際に呼吸への集中や公案工夫に専念することをお勧め致したいと思います。

「師匠看護と仏道修行」2016年8月【No.158】

今月は前回と前々回のコラムでお話し致しました青年たちと学んだ中から、ひとつの大切な問題を彼らに提起して考えてもらっていることをお話ししようと思います。(現在は彼らの中の一人は見聞を広めるために海外旅行中で、今一人は九州の自坊にお盆などの荷担のために帰省しております。)

さて、『雛僧要訓』の中に、「世尊成道の初め説きたまう華厳に、父母師僧に孝順せよ、孝順は至道の本(もと)なりと有り」という一節があります。それとの連関で小衲は、道元禅師の『正法眼蔵随問記』の中で、道元禅師が、老病のために死の床にある師匠を見捨てるような形で入宋求法(にっそうぐほう)された明全和尚のことを「真実の道心」の持ち主であると称賛されている箇所を取りあげました(岩波文庫版、百十五頁)。非常に大切な問題が含まれていると思われますので、少し長くなりますが、当該箇所を全訳させて頂きます(ただし少し分かりやすいように敷衍して訳します)。

道元禅師は或るとき、次のようにお示しになりました、「先師明全和尚が入宋されようとした時、本師である比叡山の明融阿闍梨は重病が起こり、病床でまさに瀕死の状況であった。その時にこの師は弟子の明全に向かい、わしはすでに老病が起こり死去するのも間近だ、どうか今しばらく入宋するのを待って、病を看護してわしが遷化した後に本意を遂げてはくれないか、と懇願された。そこで先師明全和尚は弟子や法類の和尚方を集めて話し合いの場をもたれて次のように言われた、私は幼少の頃から出家して両親の膝元を離れてから、この明融阿闍梨の養育のたまものでこのように成長することができた。その養育のご恩はこの上なく重いものだ、また仏法の教えを色々と学び、同輩にも越えた名誉を得たこと、また仏法の道理を知って今入宋求法の志を起こすことまでも、ひとえにこの師匠の恩でないものはない、しかるに今年すでに年老いて重病の床に臥しておられる、余命も再会も期しがたい故に強いて入宋するのを止められたのである、師の命も背きがたいが、いま私が命をなげうって入宋求法しようとするのも菩薩の大悲利生のためである、師の命に背いてまで宋の国に行くべき道理はあるであろうかと。」

この時、その場のすべての列席者は、今年の入宋は留まられて、師匠の遷化ののちに入宋した方が、師命にも背かずまた師恩にも報いる道だと意見を述べましたが、それを聞き終わって明全和尚は次のように言われました、「おのおの方の評議はみな、留まる方がよいという道理ばかりである、私の思うところはそうではない。今回たとえ私が留まったとしても、師匠が死ぬべき運命ならば、それによって命が長らえるわけでもないし、また私が留まって看病したとしても苦痛が止むはずもない。・・・ただ命に従って師の心を慰めるだけである。このようなことは出離得道のためには一切無用である。錯って私の求法の志を妨げるようなことがあれば、師匠にとって罪業の因縁となりかねない。しかしもし入宋求法の志を遂げて一分の悟りを開くことができたならば、師匠一人の煩悩の情念に背いたとしても、他の多くの人を得道させる因縁となるであろう。この功徳が優れたものならば、これこそ師恩に酬いるというものである。・・・師匠ひとりのために失いやすい時を空しく過ごすことは、仏の本意にかなうことではあるまい。それゆえ、私はこのたび思い切って入宋することを決心した」と言って入宋されたのです。

先に述べたように道元禅師は先師明全和尚のこの様な決心を「真実の道心」だと称賛し、「それであるから、現在の修行者も父母のためや師匠のためであるからといって、(看護などの)無益のことをおこなっていたずらに時を空費して、諸道に勝れた仏道を差し置いて空しく光陰を過ごすべきではない」と力説されております。明全和尚や道元禅師のような名僧方に対して批判的愚見を述べるのは恐れ多いことですが、小衲は果たして師匠看護が「無益」なことであり「時の空費」になるかどうかは一概には言えないように思いますが、皆さん方はいかが思われるでしょうか。

幼い頃から手塩にかけて徒弟教育を受けた恩師に対する言葉として、明全和尚の「今回たとえ私が留まったとしても、師匠が死ぬべき運命ならば、それによって命が長らえるわけでもないし、また私が留まって看病したとしても苦痛が止むはずもない。・・・ただ命に従って師の心を慰めるだけである。このようなことは出離得道のためには一切無用である。」というお言葉は、いささか酷薄に過ぎはしないかという気が致します。

このお二人の名僧方は、師匠看護をすることと仏道修行とを別物だという風に考えられておられるように受け取られるのですが、心をこめて師匠のお世話をすることもまた仏道修行の一環だとは言えないでしょうか。小衲も実は修行時代の絶頂期に、明全和尚と同じく、師匠看護の問題に遭遇致しました。小衲の場合には実は(そのお寺に一日たりとも暮らしたことのない)名義を拝借しただけの師匠だったのですが、明全和尚の事例をも考慮に入れた上で、「ここで看護から逃避したのでは自分は駄目だ」と決断して、師匠をお見送りした上で再度行脚修行を致しました。当時を想起すれば不充分で至らぬことばかりで申し訳なく、いま一度看護をやり直したいという思いがぬぐえません。白隠禅師の伝記を拝読して、禅師が心をこめて師匠看護をしながら坐禅弁道をされ、また不祥事があって放逐された兄弟子を迎え入れて面倒を見られたというのを知って感動したことがあります。師匠看護は必ずしも仏道の妨げとはなるまいと思うのですが、いかがでしょうか。

重病の恩師の懇願を振り切って入宋求法された明全和尚は、入宋三年後に病のために天童山の了然寮で遷化されることになります。建仁寺開山栄西禅師に嗣法された明全和尚のものと伝えられるお墓が建仁寺の開山堂の傍らに寂しげに建っております。曹洞宗の方々がときおり墓参に見えられるようですが、了然寮で遷化される直前、明全和尚の脳裏には自らが看護を見放してきた先師明融阿闍梨のことが去来したのではないかという思いが致します。

この明全和尚のことを若い二人に話し、小衲の見解を披瀝しましたところ、「たとえ名僧の言われることでも、そのまま鵜呑みにせずに自らの体験に照らし合わせて考えるべきだということですね。」という反応が返って参りました。こういうやりとりができるというのが『雛僧要訓』を学ぶことの醍醐味かも知れません。

「跼蹐の情」2016年7月【No.157】

標題に掲げましたのは難しい漢字ですが、「跼蹐(きょくせき)の情」と読みます。中国六朝の梁の武帝の長子である昭明太子の編纂した『文選』には、「高天に跼(せぐぐま)り、厚地に蹐(ぬきあし)す」(張衡「東京賦」)という句が見えますが、『禅林句集』などに載っているのはこちらの方です。

しかしもともとこの「跼蹐」という語は、五経のひとつである『詩経』の「小雅」という、周の朝廷の賀歌を収録した篇にある「正月」という詩中の句で、そこでは、「天蓋(けだ)し高しと謂えども、あえて跼(せぐくま)らずんばあらず、地蓋し厚しといえども蹐(ぬきあし)せずんばあらず」(大空は高いけれども,背をかがめて行かねばならない。大地は厚いけれども、足音を立てぬように抜き足して歩かねばならない)と、君子平生の万事に慎み深い様子を形容する言葉として使われております。

剣禅書の達人である山岡鉄舟居士と親交のあった南隠全愚老師(天保五年~明治三十七年)(1834—1904)は東京文京区に白山道場を建立されて坐禅指導をされた名僧です。或るとき、真夏のこととて蚊帳を使用しておられた老師が、その蚊帳をお顔すれすれになるほど低く釣り下げておられたのを見て、隠侍が「どうしてそんな窮屈なことをされずに、もっと上の方まで上げられないのですか」と不審に思って尋ねると、南隠老師は、『「天蓋し高しと謂えども、あえて跼らずんばあらず、地蓋し厚しといえども蹐せずんばあらず」という言葉をお前は知らんのか』とたしなめられたということです。

今どきの禅修行などしたことのない若者からすれれば、一笑に付すような逸話かも知れませんが、明治の中頃生まれの名僧方の薫陶を受けた私たちから見れば、この南隠老師のお言葉はまことに身の毛もよだつような有り難さが感じられるのです。南隠老師はまたお風呂などには入られずに、ただ湯桶一杯のお湯でお身体をぬぐわれるだけであったと伝えられております。

先月のコラムで言及しました『雛僧要訓』には、相国寺の名僧・大典(梅荘顕常)禅師(享保四年—享和元年)(1719−1801)のご垂戒として、「福を慎むべきこと」を述べられ、「我等従来過分に福を消(しょう)し来たることを恥ずべし、畏るべし」と力説しておられます(十六丁表)が、まさしく上述の南隠老師の気高い行履(あんり)は「福を慎むべきこと」の実践躬行です。

『雛僧要訓』や『論語』や『近世禅林僧宝伝』などを一緒に勉強している青年たちに、「福を慎むべきこと」の実例として南隠老師の逸話を披瀝し、「高天に跼(せぐぐま)り、厚地に蹐(ぬきあし)す」という句を伝えましたが、それを肝に銘じて行うのは一朝一夕では不可能です。

この言葉を伝えたあとで、ワゴン車で外出した際に、若い学生さん三人が雑談を始めたのです。しばらく聞いておりましたが、これは聞き捨てならぬと思い、「君たちはわしと一緒に車に乗っていて、そのような雑談をすることは慎まねばいかんではないか。『雛僧要訓』を読んだばかりなのに、そんなことでどうするのか。気を抜いているからそうなるのだ」とその場で叱責した次第です。同様の忠告を何人もの若者にしたのは、これで三度目になります。このように高僧の優れた行いを学んでも,それを我が物とすることはなかなか困難です。まさしく「高天に跼(せぐぐま)り、厚地に蹐(ぬきあし)す」という心持ちで常日頃を過ごす必要を感じます。

最後に、菅原道真公が太宰府に左遷された折りに詠まれた「門を出でず」と題された漢詩をご紹介致しましょう。そこには道真公の慎ましやかな「跼蹐の情」が如実に言い表されております。

「一たび謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就きしより、万死兢兢(きょうきょう)たり跼蹐の情、都府楼わずかに瓦色を看、観音寺ただ鐘声を聴くのみ」
(ひとたび罪を科せられてこの太宰府に左遷され、このあばら屋に住むようになって以来、わが身に着せられた万死に当る罪に畏れおののき、身の縮まるかのような思いで、少しも外出する気にもなれず、太宰府官庁の楼閣はわずかに瓦の色を見ているだけで行ったこともなく、観音寺はただ鐘の声を聴くだけで訪ねたこともない。)

「青年教育と禅修行」2016年6月【No.156】

最近、来年僧堂に掛搭する予定の青年が、僧堂生活に資することもあろうかと思って拙寺の坐禅会に参加してきたので、これも何かの因縁かと思い、彼に週一度ほど、江戸時代の名僧方が雛僧の心得を説き示された『雛僧要訓』や『論語』などを一緒に読みながら、小衲も再度勉強し直しております。
もとより彼にはお父上が本師としておられるわけですから、小衲のお弟子ではありませんが、これも宗門興隆のための一助となればと思い、当方に迷惑をかけてはと遠慮されるのを、「よろしければどうぞご遠慮なく」と申して行っている次第です。

そうこうしているうちに、これも奇縁というのでしょうか、特別休学制度を活用して禅寺での生活を体験したいという大学生の若者が拙寺にしばらくの間寄宿することになりました。報道されましたのでご存知のお方もあろうかと思いますが、東京の最難関大学が本年より設けた制度で、新入生が学費を払わずに休学できて、しかもその間に受験勉強では体験できないような色んな活動をすることによって、かえってその後の大学生活や自分の人生にとって有意義になるような貴重な体験をするというのが、主眼だそうです。海外の大学ではすでにそのような制度が設けられているようですが、彼の大学では実際の希望者は今のところ少ないそうです。それを思い切ってそのような英断をした彼の決意のほどを称賛したいと思います。

ちょうど臨済禅師と白隠禅師の遠諱記念の禅の特別展が京都国立博物館で開かれていましたので、先ずは二人を連れてその特別展に行って名僧方の気高い行履(あんり)について色々と話を致しました。これほどの特別展はなかなか見られないものですので、二人にとっては非常に良い経験になったかと思います。それ以後、二人一緒に勉強する機会をもつことになりました

拝読しております『雛僧要訓』は出家した雛僧のためのものではありますが、一般の青年にとりましてもまた意義深い教えが多々散見されます。例えば、「師匠のお供をしてよそに出向く時は、師匠のそばを離れることなく、万事に付けて心を配らなければならない。長旅の際には自分がお手洗いに行くなら茶店などで休憩中に行くべきで、普段は師匠のそばを勝手に離れてはいけない」と、師匠に孝養を尽くすことが色々と説かれておりますが、家庭や学校では教えることのないこうした人生の心得は、前途洋々たる若者たちにとっては、とても大切なことではないかと思います。

また、「万事に不足のないのは雛僧の身にとって大毒であると思い、ただただ仏道修行に志を励まなければならない。昔から高僧と称賛される人は多くは貧寺の弟子であった人が多い。というのもそれはひとえに不自由を忍んで自ずからその身に徳を身につけ、その上に苦行困学したからであることを知らなければならない」という一段では、「忍の徳たること、持戒苦行も及ぶこと能わざるところなり」という『仏遺教経』の有名な一節を引いて、小衲の存じ上げている或る高徳の老僧が若い頃に師匠の厳しい仕打ちに堪えながら孝養を貫かれたという実話などを話すと、若い二人は真剣に聞き入っておりました。

『論語』の勉強に際しましても、孔子の「温良恭倹譲」(おだやかで、すなおで、うやうやしくて、つつましくて、へりくだりであられる)の風格や、郷党篇にある「孔子、郷党において恂恂如(じゅんじゅんじょ)たり。言うこと能わざる者に似たり」(孔子は郷里では恭順なありさまで、ものも言えない人のようであった)という記述に、近江聖人と称(たた)えられた中江藤樹は、「夫子、徳光の影迹(えいせき)」を認められ、非常に感動された、という話をしたことです。

何しろ若い二人に話しておきたいことはそれこそ山ほど材料がありますので、あっというまに時間が過ぎてしまいます。そしてその時間は小衲にとってもまた非常に充実した楽しい時間です。しかし講説だけでは不充分です。作務をしながら、薬石(夕飯)の支度をしながら、「これが『雛僧要訓』の実践だ」といいつつ、色々と二人に注意を与えますが、素直で道心のある二人は一向に嫌がる気配を見せずに心を尽くして頑張ってくれます。

そうした若者たちがいることは嬉しいことです。こういう人たちがますます増えて育っていくことを願わずにはおれません。光雲寺では禅寺の生活をしながら大学に通う学生さんを募っております。我と思わん方や、お知り合いのある方がおられましたら、どうぞご連絡をお待ちしております。合掌。

「熊本地震と原発事故」2016年5月【No.155】

4月14日の夜に熊本を襲った震度7の地震の余震がなかなか収まりません。半月を過ぎて地震回数はすでに千回を超え、大分県などにも連鎖して地震を誘発しております。前例を見ないほどの強い余震におびえる被災者の方々のご心労はいかばかりかとお察し申し上げます。早く余震が終息に向かい、被災者の方々に平穏な日々が戻ることを願わずにはおれません。

とりわけ熊本のシンボルとして観光の中心をなす熊本城の甚大な被害は、熊本県民の方々にとって衝撃的な出来事だったことでしょう。石垣などの再建には数十年の歳月と莫大な費用がかかるということですが、復元された偉容を見て熊本の人々に笑顔が戻る日が待たれます。また土砂崩れによる阿蘇大橋の崩落は地震被害の凄まじさを如実に感じさせるものでした。これ以上、阿蘇山の噴火などが続発しないように祈るばかりです。

しかし、しばらくは余震が続くとしましても、そのうちには地震は次第に終息に向かうのは疑いのないことです。それによって地元の人々はまた元通りの日常生活を取り戻すことができるようになるはずです。これに対して、東北大震災での福島原発事故の放射能汚染が及んだ地域は廃墟のようになっており、放射能汚染によって異形の動植物が生まれているとのことです。高濃度汚染地域ではもう帰郷することができないでしょう。政府は何とか汚染の状況を隠し通そうとしておりますが、ネットには(虚実混淆しているとはいえ)色んな情報が暴露されていて、とても隠し通せるものではありません。莫大な費用を費やして除染作業をするなどというのは単なる気休めに過ぎないのではないかという気さえ致します。

福島原発事故が起こって間もない頃、小衲の知り合いの京都在住の米人教授が妻子と共に米国に帰国しました。その先生は日本に留学していた外国人や日本人の学生などを連れて、小衲のお寺を来訪して禅の話を聞く機会を定期的に開催されていたのですが、「急用ができたので」ということで突如として帰国されたのです。後になって彼の日本人学生の一人から、「原発事故があったので、日本はもう危ない」ということが本当の理由だったということが分かりました。外国の人たちの中には、私たちよりももっと深刻にこの事故を見ている人たちがいるということを忘れてはなりません。

わが日本には未知の断層をも含めて幾多の断層があり、いつどこで大地震が起こっても不思議ではないといわれています。今回の九州地方の地震の近辺には、川内原発や伊方原発などがありますが、今回の甚大な被害をまのあたりにして、なおも原発に固執しようとする政府の方針には大いに疑問を感じざるを得ません。福島のようなことが起これば、またもや「想定外のことが起きた」で済まして誰もその責任をとらないつもりなのでしょうか。

関西圏でも大飯原発や高浜原発が「想定外の」地震に遭えば、近畿の水瓶である琵琶湖は汚染されて、関西には住めなくなることは火を見るよりも明らかです。「30キロ圏外に逃げれば安全だ」などというのは余りにも楽観的な現実無視の見方に過ぎません。今回の熊本地震に際して、知り合いの和尚方の中にはこのことを危惧する人が多くいることを改めて知りました。

小衲は宗教者として責任を痛感致します。取り返しのつかないことが起こってからでは遅いのです。私たちはこれからの若い世代の人たちにこの素晴らしい自然環境の日本を、住みよいままに保持して引き継ぐ責務があるのではないでしょうか。

「保福長慶遊山」2016年4月【No.154】

「保福長慶遊山」というのは宗門第一の書といわれる『碧巌録』の第二十三則の公案です。小衲は京都近郊の長岡禅塾で、40年以上も前にこの古則を森本省念老師が提唱された際の印象をいまだ忘れることができません。そのとき老師は『槐安国語』の提唱をしておられました。この書は大徳寺開山大燈国師の語録に、五百年間出の名僧の誉れ高い白隠禅師が著語評唱されたものですが、頌古評唱の第六則がこの機縁です。

森本老師の迫力のある格調高い提唱と共に、大燈国師の「妙峰孤頂、人到り難し、只だ看る白雲の飛んで又た帰ることを、松檜蒼蒼、幾歳をか藶たる、莫教(さもあらばあれ)巌畔、鳥声の稀なることを」という偈頌のえもいえぬ風韻も強く印象に残っています。

保福と長慶は共に中国唐代の雪峰義存禅師の法を嗣いだお歴々の名僧です。このお二人がまだ雪峰の道場で修行時代のことでしょう。連れ立って山に登った際に、保福があたりを指さして「只だ這裏(しゃり)便(すなわ)ち是れ妙峰頂(みょうぶちょう)」といったのです。妙峰頂とは華厳経入法界品にある言葉で、善財童子が発心して五十三人の善知識を歴訪したときに、妙峰山にいた徳雲比丘に相見しているのですが、妙峰頂は尽大地塵ひとつないという悟りの頂き、絶対無の本分のところを指しています。それを道友の長慶が聞きとがめて、「是(ぜ)なることは是なり、可惜許(かしゃっこ)」(それは貴公のいうのはもっともなことだが、そんなところで有頂天になってはいかんではないか)と釘を指しました。

眼の色を変えて坐禅工夫をしておりますと、色んな体験をすることがあります。有頂天になってそれを「自分は悟った」などと自惚れますと、鼻持ちならない天狗になって周りの人たちから疎まれるようになりかねません。そうした例を小衲は見聞したことがあります。師家はそうした者を作り出さないように、生半可な許可は厳に慎むべきだと思いますが、修行者達自身もくれぐれもそのような増上慢に陥らないように心がけることが肝要となります。もとより保福はそんな浅はかな思いなどなく、ただ道友の長慶の境涯は如何と探りを入れたのでしょう。しかし百錬千鍛の長慶はそんな手に乗るはずはありません。かえって保福に注意をしました。

雪竇(せっちょう)禅師は著語して「今日、這(こ)の漢と共に遊山して、箇の什麽(なに)をか図る」(二人とも道場での修行から抜け出して遊山して一体どういうつもりか)と保福・長慶の二人を叱責した上で、「百千年の後、無しとはいわず、只だ是れ少なし」(この二人のように、道場の中のみならず、遊山していても仏道を問答商量するような修行者は、百千年の後もおらぬとは言わないが、少ないであろう)と今度はおおいに持ち上げておられます。

圜悟(えんご)禅師も評唱の中で、「古人は行住坐臥においてただ道のことだけを問題としていたので、一言でもそれが道の問答商量となる」とたたえておられます。道心のある人には真の道友ができるでしょうが、果たして昨今は道のためだけに出家して弁道するという人はいるでしょうか。

あたかも本年3月には臨済禅師の1150年大遠諱と白隠禅師の250年大遠諱が大本山東福寺で臨済宗と黄檗宗の師家・雲衲勢揃いで厳修されました。こうした本物の名僧の心から追慕して一人でも真の道心をもった雲衲が現れてほしいものです。

「涓滴も施さぬ」2016年3月【No.153】

標題に掲げた「涓滴(けんてき)」という言葉は、「水のしたたり、しずく」の意味で、転じて「極めて少ないものの喩え」として使われます。従って、禅宗で使われる際の「涓滴も施さぬ」とは、「一点の妥協も人情も入れない」という意味になります。

現在の臨済宗では、修行者は「公案」といわれる祖師方の大悟の機縁を師家(しけ、参禅指導する老師)より与えられ、その公案に対する見解(けんげ)を呈するべく入室参禅するのですが、頭で考え出された分別ではなく、四六時中その公案三昧となり、自己を忘じ尽くして始めて到達できる境地が要求されるのですから、生半(なまなか)な骨折りでは到底この見解は出てくるはずがありません。

それで修行中の雲衲は、それこそ寝る間も惜しんで夜坐に精を出し、日中の作務の最中にも公案三昧に取り組むようにならざるを得なくなるのです。しかしこのとき、その修行者にまだ充分に三昧境が育っていないにもかかわらず、公案の透過を中途半端に許可されると、せっかく醸成されつつあった境地が台無しになってしまいます。それで、師家はそういうことがないように、「涓滴も施さぬ」という無慈悲の慈悲を行ずることが、本当の親切ということになります。

小衲の師事していた或る大悟徹底された老師が、「公案とは透っている時には透ってない、透ってない時に透っている、そういうものだ」と言われたことがあります。まことにその通りです。しかし参禅者の中には、えてして自己の本心本性を徹見することなしに公案を透過させられて、かえってそれを悦ぶ人が多いのも事実です。とはいえ自分に正直であれば、たとえ師家が許しても、「肯心自ら許す」ということがなければ、納得できるものではありません。小衲も雲水修行時代の当初に、見性(自性徹見、本心本性に目覚めること)してもいないのに初関(最初に与えられる基本的公案、無字や隻手音声の公案)を許された際、「どうかまだ透さないで下さい」と室内で懇願したところ、老師は「別の基礎的公案をそのうち与えるので、そのときに骨を折れば良い」といわれたことがあります。雲衲や在家の修行者のほとんどが見性することなしに公案を許されているのが現状ではないかと思います。

臨済禅では、公案を集大成した白隠禅師以来、それぞれの師家が自分独自の(公案)を創始して付加したがために、時代を経るに従って次第に修行者が透過すべき公案の数が増えて行き、その結果、公案体系を早く消化して印可証明を貰うことが目的となってしまい、自我を破産して肝心の自己の本心を明らめることがかになってしまったのは、本末転倒といえるのではないでしょうか。

「涓滴も施さぬ」ことの必要性を身をもって痛感したことがあります。初掛搭の僧堂から別の僧堂に転錫(てんしゃく)してからの話です。長年の骨折りの末に大悟徹底されていたその僧堂の老師は、「容易なことでは公案を許可しない」という噂を聞き及んでいましたので、その僧堂を目指したわけです。果たして期待に違わず、まことに素晴らしい老師で、初めての参禅で「私もあなたと同じ道を歩いてこの禅門に入ったものです。もう一度生まれてきてももう一度雲水になりたいと思っております」と仰せられたのを聞いて、バットで殴られたような衝撃を受けました。師弟の息もぴったりと一つになり、日々法悦のただ中で過ごすことができたのは、本当に有難いことで、感謝に堪えません。転錫後のこととて背水の陣で臨んだその道場での日々は、夜坐にも骨を折り、目の色を変えて作務の最中も工夫三昧に励んだ結果、それまで体験したことのないような深い禅定を幾度となく経験することができました。

それでも公案の数が多い臨済禅では、公案の調べを済ますのに年月がかかるので、学人の見性を待ちくたびれた老師は公案を透されるようになりました。『碧巌録』第一則の「達磨廓然無聖(かくねんむしょう)」の公案を与えられた小衲は、南禅寺・妙心寺両方の管長を経験された近代の名僧・高源室毒湛老師の嗣法の師である柏樹軒潭海老師がこの則で痛快な大悟をされたことを『近世禅林僧宝伝』で知っていましたので、何とか自分もこの則で大悟したいものだと思い、真一文字に公案三昧に取り組みました。その結果、雪達磨式に三昧境が醸成され、「今度こそは」と確信するほどの境地に到達しました。ところが、こちらの工夫がある程度充実しつつあることを見て取られたためか、突如として老師が公案を許されてしまったのです。せっかく乗りに乗っていた工夫はこれによって、まるで極限まで膨らませられた風船に穴が空けられたように、一瞬でしぼんでしまいました。

こうした経験から、師家として学人の参禅を聞くようになってからは、小衲は決して容易には許可しまいと誓いました。公案の数を数えたい人や老婆親切な対応を期待する人は、わが坐禅会には不向きでしょう。道心のある人は自ら進んで工夫に邁進するはずです。小衲が隠侍をさせて頂いた建仁寺管長の竹田益州老師は、名僧・竹田黙雷老師に参じられること十七年の間、ほとんど「チリンチリン」と鈴(りん)を振られて追いかえされ、一言二言いわれることも稀であったと述懐しておられますが、黙雷老師に比べれば、小衲も多言であり、不親切であることを免れません。

「投げられて親方喜ぶ相撲取り」という世語もあります。どうか小衲の禅体験を凌駕するような工夫三昧の方のご参加を切望したいものです。

「若者たちの心の荒廃とその打開」2016年2月【No.152】

拙寺に坐禅に通っておられる教職員の人たちから最近うかがって、本当に驚いたことがあります。今どきの小学校などでは、授業中に窓から出入りしたり、ゴミ箱を蹴飛ばしたり、子供たちの好き勝手し放題が蔓延しており、ベテランの先生方も如何ともし難いほどの荒れようの学校があるそうです。これも道徳などの「徳育」をおざなりにした戦後の自由放任主義的教育の当然の帰結であるとは言えないでしょうか。

学校教育ばかりではなく、家庭でもそうです。親子が友だち感覚で暮らしていて、昔のように両親が子供を厳格にしつけている家庭はあまり見かけなくなりました。その結果として、禅の修行道場ですらも、以前では考えられないくらいの勝手気ままな振る舞いをする雲水もいるという話をよく聞きます。まことに嘆かわしい時代になったものです。

ただこうした状況に対処するには、問題のある生徒をただ単に頭ごなしに否定するのではなく、彼らがそういう行動に走らざるを得ない理由を胸襟を開いて理解してあげ、もっと楽しく充実して他人からも悦ばれる生き方があるということを教えてあげることが大切なのではないでしょうか。これまで家庭でも学校でも生き方の規範を教わってこなかったがために、若者たちはどのように生きるべきかが分からなくなっているのではないでしょうか。

拙寺は本山からの委託のもと、「南禅寺禅センター」という看板を掲げて年間一万五千人以上の坐禅研修者を受け容れておりますが、その多くは修学旅行の生徒さんたちです。小衲が現今の小学校の悲惨な状況を聞いて心から驚いたのは、これまでの小学校・中学校・高等学校などの生徒さんたちの坐禅指導をしてきた経験からは、そのような気配は生徒さんたちからいささかも見て取れなかったからです。荒れた生徒さんたちを相手にしている先生方は、逆に生徒さんたちがそのように規律正しく坐禅研修を行うということに驚きを禁じ得ないようです。

坐禅研修の法話で、禅寺の修行体験などを話すと、全員が眼を耀かせてこちらの方を見ます。彼らも自分たちの生き方を模索して、「どのように生きたらいいのか」を知りたいと求めているように感じます。現在は一流大学に在籍しているものの、小学生の時には0点を取るほど荒れていた学生さんに、当時の心の状況を聞きますと、「勉強するということが一体どんな意味があるのかということが分からなかったので」という答えが返ってきました。彼は「好成績をとるようになってからも、その解答がなかなか見つかりませんでした」と述懐しています。

その答えを得るための一つの方法は「温故知新」です。優れた先人が歩んだ人生の軌跡を謙虚に学ぶことです。最近、江戸時代中期の神澤杜口(かんざわとこう)の『翁草』について聞いてこられる人があり、色々と読み返しました。原著そのものは非常に大部のものですが、参考文献としては立川昭二著『足るを知る生き方 神澤杜口「翁草」に学ぶ』という本が優れているように思われます。杜口を「人生の達人」として敬慕する立川氏は、丹念に『翁草』を読んでそこから杜口の心のひだに触れるような達意の文章をものされています。是非一読をお勧めしたい本です。

杜口は「若い頃から養生をもっぱらにすべきである」といい、殊に内面の病に関しては、「思の一字さえ工夫すれば、煩うことはない」といっています。「気を養うのを養生の第一とする」という杜口は、「すべての人は物に深く執着するがために気が休まる暇がなく、そこから色んな病や災いが起こる」と指摘して、気を養うためには何よりも物事に執着しないことを力説していますが、これはまさしく私たちが禅の修行において常日頃生徒さんたちに対して申し上げていることです。

私たちは通常は外にばかり目を向けているから、色んな喜怒哀楽の感情を起こし、それにとらわれます。そしてそれが悩み苦しみのもとになります。ところが真剣に数息観なり随息観なり公案工夫なりをしてみると、まわりの物事がまったく気にかからず、八面玲瓏の心境になってきます。自分の心境などを他人に対して自慢げに話す人がありますが、それもまた執着に他なりません。本当に呆(ほう)けて、人様に馬鹿にされるくらいの、良寛さんのような「大愚」の境涯が望ましく思われます。

明治天皇が元田永孚(もとだながざね)に命じて編纂させられたわが国最初の修身の書というべき『幼学綱要』という本があります。「人として生きる道」に関して色々と大切なことが述べられています。
若者たちが生き方の指針を見つけるための一助となるかと思い、前述の先生方と共に現代語訳を校正する予定です。暗中模索してもがき苦しんでいる生徒さんたちが、一人でも多く光明を見つけられるようにしてあげたいものです。

「坐禅の工夫について」2016年1月【No.151】

新年明けましておめでとう御座います。旧年中は、あいつぐ火山噴火や「激甚災害」に指定された鬼怒川の堤防決壊などの自然災害がありましたが、今年は何とか大きな天変地異などのない平穏な一年になってほしいものです。

「一年の計は元旦にあり」と申しますが、皆さん方はこの一年を迎えるに際してどのような抱負を持っておられるでしょうか。拙寺での月例坐禅会は、お蔭様で継続して来られる方々が増えて、ますます充実して参りました。中にはかなり遠方からこの坐禅会に参加するためだけに来られる熱心な参加者もあり、こちらが感心させられます。そうした坐禅に関心のある人たちの願いは、何よりも、これからの人生を有意義に過ごしたい、そのためには禅に参じて真の禅定の三昧境を体験してみたい、ということではないでしょうか。

特に初心の人たちは、どのようにすれば禅定に入ることができるのかが問題となります。「色んな雑念が出てきますが、どうしたらよろしいでしょうか」という質問をよく受けるのですが、それに対して、「それは本当に数息観を行なっていないからです」と答えることにしております。小衲の経験から申せば、四六時中、眼の色を変えて数息観を行じていけば、思わず知らず自然に三昧境にはいれるものだからです。

禅宗で一番厳しい修行期間といえば、12月1日から8日の鶏鳴(明け方)まで横にならずに坐禅三昧を修する「臘八(ろうはつ)大摂心」があります。臨済宗では、五百年間出の大禅匠である白隠慧鶴禅師の「臘八示衆」を老師が連日提唱することになっております。その朔日(ついたち)夜の示衆では、「禅定を修しようと思うものは、まず厚く座布団を敷き、結跏趺坐してゆったりと衣帯を着けて背すじを伸ばし、身体を整えた上で、数息観をなすべきである。無量三昧の中には数息が最上である」といっておられます。

曹洞宗の道場に行って来た人から聞いたところでは、永平寺などでは数息観を勧めないそうですが、それではどういう工夫をすれば三昧境に入れるというのでしょうか。「呼吸に集中せよ」とは指導されるようですので、或いは「随息観」を念頭に置いておられるのかも知れません。いずれにせよ、指導者自身がそのやり方で禅定に入ったという確固たる体験がなければ、それは説得力をもたないでしょう。

数息観や随息観などというと、坐禅中にのみ行うものと思っている人が多いようですが、四六時中の工夫をしなければ、なかなか三昧境は現前しません。動中の工夫を続けていると、静中(坐禅中)の工夫も相乗的に円熟して、短時間の中に禅定にはいれるようになるものです。

白隠禅師は臘八朔日夜の示衆で、前掲のご垂戒に引き続き、「気を丹田(へそ下にある気海丹田)に満たして後に、一則の公案を拈じて、断命根(だんみょうこん)をする必要がある。そのように歳月を積んで怠らなければ、たとい大地を打って打ち損じることがあろうと、見性は必ずや成就されるはずである。どうして努力しないでよいものか、努力しないでよいものか」と赤心を披瀝しておられます。

「断命根」とは祖師方の機縁である公案に成り切ることによって分別心や自我を根こそぎにすることで、「死に切る」ともいいます。確かに四六時中の工夫をする場合には、公案工夫の方が三昧境に入りやすいと思います。「ひとーつ、ふたーつ・・・」と十数えることを繰り返すよりも、無字の公案のように「むーむー・・・」とやるほうが単純で無意識の境涯になりやすいでしょう。それで小衲のところでは、旧参の人たちには「四六時中無字三昧」の工夫を勧めております。

熱心に拈提する人の中には、応分の所得を得て、法悦に包まれて報告してくる人もありますが、それに対して小衲は必ず、「どんないい境涯が現出しても、それに尻を据えていては小成に安んじることになるので、駄目です。得ては捨て、得ては捨てです」と申し上げることにしております。

参禅をする人の中には公案を何則透過したかを何よりも重視する人もありますが、公案の数を数えるのが目的ではなく、公案の恩力によって心地を開発することが根本です。せっかく修行するなら本末転倒にならないようにしなければなりません。それで参禅の師とするのなら、安易に許可しない厳師につくことが望まれます。

坐禅に関心を持ち、人生を充実させたいと念じられる方々は、ご縁のある坐禅会に参加して大いに三昧境を養ってみられてはいかがでしょうか。真剣に工夫に没頭すれば、きっとこれまでの人生で経験したことのないような大歓喜を得られることでしょう。「一年の計は元旦にあり」です。皆さん方は一体どのような抱負を持たれたでしょうか。