「温故知新」(月刊コラム【No.92】2011年2月)

わが国最初にして最大の哲学者であった西田幾多郎博士は、『万葉集』を連日のように読まれたという。若い頃にはその理由が分からなかったが、還暦の齢を幾春秋か越えたいまは、万葉人の心の琴線に触れて、その素直さ、誠実さに感銘を受けることが多い。まことに『万葉集』は中国屈指の古典である『詩経』にも比すべき気韻がある。そういえば、越後の良寛さんも万葉集や論語を愛読されたという。

いまひとつ、西田博士が『万葉集』と並んで、「日本人としての自覚を持つために読むべき書物」として推奨されたのが、硬骨の儒者・湯浅常山(宝永五年ー安永十年、1708-1781)の著した戦国時代逸話集である『常山紀談』である。或る方がだいぶ以前に月報か何かで、はっきりと「西田先生が言われた」と書いていたのを読んだ記憶がある。

なるほどこの『常山紀談』を読むと、戦国時代の武士たちが、死地に入っていながら、権謀術数の限りを尽くして、いかに機略縦横の働きをしたかがよく分かる。たとえば、かの真田幸村の父で戦国時代屈指の智将と称された真田昌幸が、北条勢をその智謀で破ったという一段がある。

真田家はもともと武田信玄に仕えていた。薩埵嶺(さったとうげ)の役の初戦で武田方は北条勢に大敗北を喫した。そこで武田信玄はこんどは真田昌幸に次回の先鋒を命じたところ、昌幸はわずか二十八騎の手勢を引き連れて勝ち誇っていき盛んな敵陣の偵察に出かけた。そして使いをもって兄の信綱を呼びよせたところ、信綱は一騎当千の兵、八百人あまりを従えてやってきた。

昌幸は前もって準備していた酒宴の席を開いたので、信綱は「弟よ、北条の大軍を前にして酒盛りをするなど一体どんなつもりか」といぶかったが、昌幸は「はかりごとは密なるをもって良しとしますので、いまは申せません。まずは気を静めて酒を飲んで下さい」といったので、信綱は「弟は今回はどんな策略を用いるつもりであろうか」と思いながら、酒宴に参加した。

昌幸は酒宴が始まると部下のひとりを呼びつけ、「急いでこの近辺で酒を沢山集めてきてくれ」と命じた。その部下がたくさんの酒を手に入れて戻ると、昌幸はたいへん喜び、酒樽のふたを全て打ち抜いて諸兵を呼び出し、「皆の者よ、とりわけ今日はあまりの寒さに耐えがたいではないか。だからこの酒を飲んでどうか寒さをしのいでくれ」といった。

さらにご飯を炊く大釜に味噌汁を作らせ、銘々にひしゃくを与えたので、一同の者が喜ぶこと限りがなかった。「大将からのお許しで、寒さをしのぐうれしさよ」と我先に酒を飲み、舞を舞い歌を歌う者まで現れるほどの盛り上がりであった。

兄の信綱は「こんなことで陣中で諸兵に酒を飲ませるなど、負けたも同然だ」と憤慨したが、昌幸は将兵たちに向かって、「どうだみんな、酒を飲んで寒さを忘れたか」と問いかけると、一同の者はみな「寒さが吹っ飛びました。大将のお情けにより、寒さがしのぎ、手足が温まりました」と大いに喜んだ。

そこで昌幸は指を指し、「みな、あれをみよ。薩埵嶺に配備された敵兵はさぞかし寒いことであろう。弓を引くにも鉄砲を撃つにも手はかじかみ、兵は前進も後退も不自由なはずだ。平地にいるお前たちでも寒さが激しいのに、山中の敵は酒で身体を温めていない。われらのこの勢いであの敵にひと攻撃くわえてみようと思うのだが、どうだろう」というと、みな、躍り上がらんばかりに勇み立ち、「これこそ我らの望むところ、酒を頂いた代わりに手柄を立てて、敵の首をさかなにして、いま一度酒宴を開こうではないか」といって、三千の兵が酒を勢いを借りて薩埵嶺に押し寄せた。

ちょうど雨あられが降ってひどい寒さであったが、真田勢はその寒さをものともせず、敵陣に押し寄せた。昌幸が「勝利品である鎧などの武具は好きなだけ手に入れたらよい。手柄を立てるのはこのときだ」と大声で呼びかけた。北条勢は寒さを避けて民家に入っていたので、つぎつぎに民家に火を放つと、非常に驚いた北条勢は我先にと退散したという。

以上が真田昌幸の機略縦横な逸話であるが、大部の『常山紀談』にはこのような興味深い逸話が満載されているのである。それによって戦国時代の武将たちの気韻を肌で感じ取れることができる。京大で政治哲学を専攻している或る新進気鋭の青年学者に『常山紀談』の一節を見せたところ、「全部を読みたいものです」と感想を述べてくれた。

『万葉集』にしろ、『常山紀談』にせよ、わが日本には比類なき精神的財宝がまだまだ眠っているというべきである。「温故知新」(故きを温〔たず〕ねて新しきを知る)の言葉をいま一度かみしめてみたいものである。

(なお、光雲寺では3月21日まで「京の冬の旅」の特別拝観を行っております。お時間の許されるお方はどうぞご来訪頂ければ幸いです)。

「旧年と新年と」(月刊コラム【No.91】2011年1月)

新年明けましておめでとうございます。皆様方は旧年中はどのように過ごされたでしょうか。もとより楽しいこと、悲しいこと、いろんな経験をされ、またいろんな出会いがあったことでしょう。小衲の場合に、夏頃に和歌山県に出向き、和尚方50名の前で自分の修行体験を話したことが印象に残っております。

中国唐代の名僧である潙山霊祐禅師に「両喚の話」という公案がある。潙山がある日、院主を喚んだ。やってきた院主に対して潙山は、「わしは院主を喚んだのに、お前がきてどうするのだ」と言い放った。院主はなんとも答えることができなかった。潙山はまた侍者に第一座(首座ともいう修行僧中の最上位の者)を呼び寄せさせた。やってきた第一座に対して潙山はまた、「わしは第一座を喚んだのに、お前がやってきてどうするのだ」というと、第一座もまた何とも答えることができなかったという。分別心にとらわれていると、二途に渉らせようとする潙山のはめ手に引っかかって、院主と自分、第一座と自分というきょろつきができてしまう。

師匠は何とかして弟子を鍛えようとしていろんな試練を与えるものである。小衲が和歌山で修行時代を回顧した折に思い浮かんだのは、この公案であった。小衲もこれと似た経験をしたことがあったからである。老師の隠侍(お世話係)をしていた或る日のこと、老師の花壇の雑草を公案三昧になって法悦に包まれながら引いていた時、ちょうどそばを通られた老師が、「庸さん、茶礼にわしの部屋まで来るように」といわれ、「本当は声をかけない方がいいんやけどな」とつけ加えられたので、小衲は、「せっかく工夫が乗っているのに茶礼などで中断させられるとは」と正直不満であった。

隠寮(老師の部屋)に伺うと役位さん(高位の雲衲)たちがすでにいて、老師は小衲に向かって、「何だ、お前は一体何しに来たのか」とかみつくように言われた。小衲はわれながら非常に冷静に、「はい、老師ご自身が喚ばれました」と答えると、役位さんの一人は大笑され、老師はそこでそれ以上の詰問は差し控えられた。その際、もし「わしは庸さんを喚んだのにどうしてお前がやってきたのか」と老師から問われたとしても、小衲は難なく答えることができたであろう。

もっとも、いまの小衲は定時に茶礼の時間を設けており、それが遅れると弟子に注意をしているが、果たして「工夫の邪魔をしないでほしいのに」と嘆く工夫三昧の弟子がいるかどうか。いれば嬉しい限りである。

先般、ある弟子の母親と電話で話をしていたら、「どうぞ厳しくご指導頂きますように」と懇願された。わが子にはなかなか厳しくなれないであろうし、また厳しい試練を経なければ人は錬磨されない。このお母さんは子息に対して本当の愛情を持っておられると感じた次第である。

また、昨年12月に初めてお目にかかったある大企業の社長さんはさすがに品格があり、3時間半の話し合いはなごやかで楽しい雰囲気のうちにあっという間に過ぎてしまった。聞けば、坐禅経験もあり、趣味は蕎麦の手打ちとのこと。前社長が急逝されて急遽社長になられて2年経たれたとのことであったが、「毎日を楽しみながらやっております」というお言葉に、孔子聖人の「楽しんでもって憂いを忘れ・・・」という言葉を思い出し、「わが意を得たり」の感を深くしたのである。

皆様方もどうか今年もよき出会いや楽しい時を過ごされますことをご祈念申し上げます。

(なお、来年のNHK大河ドラマの主人公の「お江様」が光雲寺を菩提寺として復興された東福門院様のご母堂様に当たられるということで、京都市観光協会主催の「京都冬の旅」の企画により、1月8日から3月21日まで、光雲寺では特別拝観がありますので、夜の土曜坐禅は光雲寺で如常に行いますが、第2、第4日曜日の坐禅は、南禅寺山内の南陽院で行います。どうぞよろしくお願い申し上げます)。

「東福門院念持仏」(月刊コラム【No.90】2010年12月)

10月のコラムで申し上げたように、光雲寺では12月5日まで京都市指定名勝庭園の修復記念の特別公開をしている。また次のNHK大河ドラマの主人公が光雲寺を菩提寺として再興された東福門院の御母堂に当たられる「お江様」であることから、来年1月8日から3月21日まで「京の冬の旅」の特別公開が予定されている。

そこでこの際に、東福門院が日夜線香と花を手向けておられたという念持仏の聖観音像厨子裏の朱書き文を読み下して現代語訳した次第である。読みが不確かで、意味のとりにくいところもあるが、ひとまずこれをもって今月のコラムにかえさせて頂きたいと思う。もしお気づきの点があれば、ご指摘を賜れば幸いである。

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靈芝山安國光雲禪寺觀音大士記

慈悲以抜苦、喜捨以與樂、上同諸佛妙覺、下合衆生悲仰、其唯阿那婆婁吉低輪耶、故無華無裔凡流乎、眞教之域莫不恭敬于此尊焉、

吾師幼而信之、素患頭疼、明暦丁酉偶駐錫於武陵、時三十一歳、一夕夢詣一寶殿、宏壯嚴麗金碧燦爛而觀音大士儼然坐、師至心頂禮自覺氣血流暢、徹骨清涼、其慶快不可言也、迨醒宿恙頓愈、宛如雲霧忽散、尒後無此患、寛文甲辰奉

東福門院命營建於光雲禪刹殿堂像設、漸次成褫矣、領衆匤徒、講大雄之古規、挑大明法燈、於是

門院寄大悲像一軀 坐像左手持蓮、長六寸五分 以鎭山門、師迎拜瞻之、即是昔日所夢大士也、其相其好毫釐無差、不任感嘆處安于道場焉、原此尊像者、名工運慶之雕刻而妙容端嚴威靈勝絶也

門院恒備香華務伸供養、寛文元年春正月、瓊宮有鬱攸之變

門院親奉保護此像於御輿裏、以逃其厄、誠心至切亦如此矣、而今赴吾師之感光賁于此寺、可謂千載之奇遇也、蓋光雲者大士之微妙光明臺而

門院也吾師也同是大悲之所變者歟、傍有客云盛哉子之言、其旨可得而聞乎、曰夫大士之靈感如月之印於千江普應群有機、能以同事攝也

門院乃女中菩薩吾師乃僧中大士、所謂上同諸佛妙覺下合衆生悲仰者也、大士妙應、豈止三十二種云乎、達磨誌公總是觀音、乃至水鳥樹林草芥人畜悉是圓通三昧帝網重重主伴無盡、汝以爲如何、客唯唯而退、因爲之記云、



今茲延寶第七己未六月十五日伏値

門院小祥御忌侍女某等奉其遺金使作此寶龕於是

本師英中和尚命某作此記因書龕陰諭于後來者也

光雲外史 玄秀 謹撰



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慈悲、以て苦を抜き、喜捨、以て楽を与え、上、諸仏の妙覚に同じうし、下、衆生の悲仰に合するは、其れ唯だ阿那婆婁吉低輪(あばろきてしゅばら)か。故に無華無裔の凡流、真教の域、此の尊を恭敬せざるということ莫し。

吾が師、幼くして之を信ず。素(もと)より頭疼(ずとう)を患う。明暦丁酉、偶(たまたま)錫を武陵に駐(とど)む、時に三十一歳なり。一夕、一宝殿に詣るを夢む。宏壮厳麗、金碧燦爛(さんらん)として、観音大士儼然として坐したもう。師、至心に頂礼して自ら気血の流暢(りゅうちょう)なるを覚え、骨に徹して清涼なり、其の慶快言うべからず。醒(さ)むるに迨(およ)んで宿恙(しゅくよう)の頓に愈(い)ゆること、宛(あた)かも雲霧の忽ち散ずるが如し。尒後(じご)此の患い無し。

寛文甲辰、東福門院を奉じて光雲禅刹に殿堂像設を営建することを命じ、漸次成褫(じょうち)す。衆を領じ徒を匤(ただ)して、大雄の古規を講じ、大明(だいみん)の法灯を挑(かか)ぐ。是(ここ)に於て

門院、大悲の像一軀(坐像、左手に蓮を持す、長きこと六寸五分)を寄せて、以て山門を鎭(しず)む。師、迎拝して之れを瞻(み)れば、即ち是れ昔日夢む所の大士なり。其の相、其の好(ごう)、毫釐(ごうり)も差無し。感嘆に任(た)えず、処を道場に安んず。原(たず)ぬるに、此の尊像は、名工・運慶の雕刻にして妙容端厳、威霊勝絶なり。

門院、恒に香華(こうげ)を備え、務めて供養を伸ぶ。寛文元年春正月、瓊宮(けいきゅう)、鬱攸(うつゆう)の変有り。門院、親しく此の像を御輿(みこし)の裏(うち)に保護し奉り、以て其の厄いを逃る。誠心至切なること、亦た此の如し。而今(いま)、吾が師の感に赴き、此の寺に光賁(こうふん)す。謂(いっ)つべし、千載の奇遇なりと。蓋(けだ)し光雲は大士の微妙光明台にして、門院也(ま)た吾が師也た同じく是れ大悲の変ずる所のものか。

傍らに客有りて云く、盛んなる哉(かな)、子の言、其の旨、得て聞くべきか。曰く、夫れ大士の霊感は月の千江に印するが如く、普く群有の機に応じ、能く同事を以て摂(たす)けるなり。

門院は乃ち女中の菩薩、吾が師は乃ち僧中の大士なり。所謂、上、諸仏の妙覚に同じうし、下、衆生の悲仰に合するものなり。大士の妙応、豈(あ)に三十二種に止まると云わんや。達磨・誌公、総に是れ観音なり、乃至水鳥樹林草芥人畜、悉く是れ円通三昧・帝網重重・主伴無尽、汝以て如何と為す。客、唯唯として退く。因て之の記を為して云く、

今茲(ことし)延宝第七己未六月十五日、伏して

門院小祥の御忌(ぎょき)に値(あ)い、侍女某等、其の遺金を奉じて此の宝龕(ほうがん)を作らしむ。是(ここ)に於て、

本師・英中和尚、某に命じて此の記を作り、龕陰に書するに因って後来を諭(さと)すものなり。

光雲外史 玄秀 謹撰

(註)

東福門院=慶長十二年(1607)ー延宝六年(1687)六月十五日崩御、世寿七十二歳。

英中玄賢=寛永四年(1627)ー元禄八年(1695)八月二十三日遷化、世寿六十九歳。

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東福門院念持仏厨子裏朱書文 訳文



慈悲をもって苦しみを抜き、喜捨をもって楽しみを与え、上は諸仏の妙なる覚りと同じで、下は迷える衆生の助けを求める悲痛な願いに応じるのが、観音菩薩というものであろうか。都と地方のいずれの一般民衆も、真の教えが広まった地域では、この尊い観音菩薩を謹み敬わないものはない。

私の師匠(光雲寺中興・英中玄賢禅師)は幼い頃から観音を信仰された。もともと頭痛の持病があったのだが、明暦三年(1657)、たまたま江戸のある修業道場に掛錫していたおり、ちょうど三十一歳のときであった。ある晩、ある仏殿にお参りした夢を見た。その仏殿は、壮麗で黄金と碧玉に飾られて燦爛として輝いており、その中にはご本尊の観音菩薩が厳然として坐しておられた。

私の師匠が、心を込めて五体投地の最敬礼をしたところ、気と血流の流れがよくなったのを感じ、身心の底から清涼な境地になられた。その心地よい悦びというものは言葉では表現できないほどであった。眼が覚めるにいたって、長年の持病が一挙に快癒したが、それはちょうど雲霧がたちまちのうちに消え去ってしまったようなものであった。それ以後は、師匠はこの頭痛を患うことはなくなった。

寛文四年(1644)、東福門院様がご自分の菩提寺として光雲寺を再興されるにあたり、仏殿などの諸堂や仏像などを造営することを私の師匠は命じて、次第に出来上がった。道場の規矩を定め、五十人の修行する雲水たちを導き、唐代の名僧百丈懐海禅師の作成された清規を提唱し、大明国師・無関普門禅師(南禅寺・光雲寺開山)の挙揚された仏法をかかげられた。ここにおいて、東福門院様は、大悲の菩薩である聖観音像一体(坐像、左手に蓮を持つ、六尺五寸の高さ)を寄進されて、光雲寺の安泰を祈願された。

私の師匠が恭しくこの観音像をお迎えして拝して見れば、まさにその昔、自分が夢の中で見たとおりの観音菩薩像であった。その容貌には、いささかの違いもなかった。非常に感激してこのお像を道場に安置した。聞くところによると、この尊い御像は名工・運慶の彫刻で、妙なる容姿に厳かな面持ちをされ、その霊験は格別にぬきんでている。

東福門院様は、女院御所において、いつもお香とお花を供えられ、心を込めてこの観音様を供養された。寛文元年(1661)、ある正月、美しい玉で飾られた御所が火災に遭遇したが、東福門院様は、自らこのお像を御輿のうちに保護され、火災の災いを逃れられた。東福門院様のこの観音像に対する至誠心の切なることは、ちょうどこの通りである。

そうして今、私の師匠に感応道交してこの光雲寺にこの観音像がやってこられた。これは、めったにありえないほどの思いがけない巡り会いであった。まさに光雲寺は観音菩薩の妙なる光明の台であり、東福門院様も私の師匠も、同じように観音菩薩の再来といえるのではないだろうか。

傍らに客がいて言うには、「あなたは非常に立派なことを言われるが、その真意を今しばらく詳しくお聞きしたく思います」と。そこで私が言った、「観音菩薩の霊感は、月が数限りない川面に映るように、あまねく色々な衆生の機根に応じて、同一のことをもって助けるものである。東福門院様こそは女性の中の観音菩薩、私の師匠こそは僧の中の観音菩薩であるといってよい。先に述べた、上は諸仏の妙なる覚りと同じで、下は迷える衆生の助けを求める悲痛な願いに応じるものにほかならない。

観音菩薩が衆生を済度する絶妙の対応は、一般に言われるように観音菩薩が衆生済度のために行う三十二応身にとどまる、というどころではあるまい。達磨大師や宝誌和尚(梁の武帝の側近、418ー514)も、いずれも観音菩薩の再来である。さらには、水鳥や草木や人間や動物にいたるまで、すべて円通三昧・帝網重重・主伴無尽である。あなたはこの私の説明を聞いてどう思われるか」。

客は納得して引き下がった。そこでこの顛末を記すものである。

今年、延宝七年(1679)六月十五日、東福門院様の小祥の御忌(一周忌)に遇い、侍女らが東福門院様の遺金をあてて、この観音菩薩の御厨子を作らせた。そこで、私の師匠の英中和尚は、私に命じてこの記を作り、御厨子の裏に書くことによって、後の世の人々に告げ知らせるものである。

光雲寺書記 玄秀 謹んで撰す

(註)

円通三昧=円通は仏菩薩の悟りの境界で性体周遍なるを円といい、妙用なるを通という。

帝網重重主伴無尽=帝釈天の、網羅座の珠と珠とが相映じて、互いに主となり伴となって限りのないのをいう。華厳の法界観の意。

「人人具足、箇箇円成」(月刊コラム【No.89】2010年11月)

光雲寺では毎月二回の月例坐禅会(ただし今年の11月は14日の第二日曜日のみ)と毎週の土曜夜坐禅以外にも、「南禅寺禅センター」という看板を掲げて、大本山南禅寺との連携のもと、多くの人々の坐禅研修を受け容れている。多い月には二千人以上の人が来ることもあり、来訪者の中には、最先端医学研究者の集団なども稀ではない。また坐禅研修を通じて地方の若者たちのお見合いを企画するという斬新な試みをしたグループもある。

その中でも、最近経験した七人の青年たちの坐禅研修は、長年にわたり坐禅希望者に接してきた小衲にとっても、初めての異色な体験となった。少人数の参加者の場合には弟子たちに任すのが普通なのであるが、その時には巡り合わせで小衲が指導することになっていた。

彼らと出会った弟子のひとりは、「頭の髪の毛を茶髪にして、どうもバンドなどをやっているグループのように見えますが、どうされますか」と尋ねた。茶髪おおいに結構、もとより異論のあろうはずがない。ということで、仏殿での坐禅指導の段になったわけであるが、どうも音楽のバンドをやっているような雰囲気の青年たちではない。そこで職業を尋ねると、即答するという風ではなかったが、ひとりが「ホストです」と応じた。

ホストという職業は女性のお酒と話しの相手をするのが仕事と聞いている。以前に偶然見たテレビの番組で、ナンバーワンの座を得るべく、体調の不調を無理をしてアルコールを飲んで、それこそ自分の命を削って勤務している青年のことが採り上げられていた。一見華やかな職業のように見えるが、実際はいろいろと心の安らぎを必要とするような過酷な現実に直面しているであろうことは、想像に難くない。

さて、こうして坐禅を始めて見ると、みんななかなか真剣に坐るではないか。線香一本の時間の坐禅が終わり、抽解と呼ばれる小休止があるが、彼らのうち誰ひとりとして脚を解くことなく、そのまま微動だにせずに熱心に坐り続けている。十五年以上続いている月例坐禅会ではこうしたことは普通ではあるが、初めての坐禅研修グループが、全員組んだ脚を解かなかったという例は経験したことがない。以前、東大生がハーバード大の学生を連れて三十人ほどでやって来たことがあるが、その時よりも真剣である。これには一驚せざるを得なかった。

法話の時間が始まると、これまたこちらを見すえてうなずきながら、実に真剣に聴いている。小衲は、「皆さんたちは女性を相手にするお仕事をしておられると思いますが、私のところへも大勢の女性たちが坐禅や相談に見えられたりします。その場合には、打算など考えずに、本当に親身になってその人のためにお話をし、アドヴァイスをします。そうすると、どの人も例外なく明るくなり笑顔になって帰って行かれます。どうせなら人を幸せにし、楽しくさせる仕事をしませんか。皆さんたちもきっと真心から対応してあげられれば、お客の女性たちだけではなく、自分自身が楽しくなってくるはずです」という内容の話をした。

法話のあとで特別に、東福門院の念持仏の聖観音像を開帳して見せてあげたが、全員感激した面持ちで下山していった。当方もまた、なんともいえぬ一陣の薫風を経験したような心地良さを感じた。人は職業などで偏見を持ってはならないという教訓を得た思いがする。まことに、「人人具足、箇箇円成」(にんにんぐそく、ここえんじょう)(どの人も例外なく仏心仏性を具えて円満成就した身である)ということを実感した一日であった。

「秋の特別公開」(月刊コラム【No.88】2010年10月)

七代目小川治兵衛(植治)作の京都市指定の名勝庭園である光雲寺の中庭は、昨年より二年がかりで、池の護岸工事・排水路・築山・植栽・杉苔植えなどを行って修復を試みてきたが、ようやくひとまずめどがつき、来たる11月20日(土)から12月5日(日)まで、「秋の特別公開」を開催することとなった。京都市と京都市観光協会との協賛であり、JRの各駅や京都の主要ホテルに張り出される予定だということである。

金戒光明寺(黒谷さん)と同時公開となるが、京都市指定の名勝庭園でも、一部の庭園改修はこれまであったものの、光雲寺の場合のように全面的改修をした例は極めて稀であるということで、京都市観光協会との話し合いの中で紅葉の時節の公開を決定した次第である。江戸時代には光雲寺の加藤清正公ゆかりの手水鉢を見てから黒谷さんの方に参詣するという人が多かったという記録があるので、何か今回の同時公開には奇しき因縁を感じるのである。

もっか、詳細な「庭園改修報告書」を京都市文化財保護課の専門職の方に依頼して作成して頂いているところであり、池の護岸修復や庭園改修の過程のパネル展示も予定している。拝観に見えられた方々には、通常の拝観だけではなく、庭園の改修過程をもご覧頂き、日頃の喧噪を離れてゆったりとした安らぎのひとときをお過ごし頂く機会を提供できたらと願っている。

中庭の本格的な整備をする前に、これも手つかずになっていた前庭の池の整備と杉苔植えと疎水からの導水設備工事とを、住職を初め光雲寺のメンバー総出で造園業者と一緒に行い、すでに完了している。池は積年の泥をさらえることから初め、水漏れを防ぎ、また石を敷き詰めて錦鯉が動いても水が濁らないように工夫した。取り出したすさまじい量の泥は栄養十分なので、畑の土に利用したところ、作物の出来映えがよくなったのは嬉しいことであった。

池の護岸工事はまず詳細な調査から始め、泥ざらえをして、護岸の石をひとつひとつ丁寧に復元しながら設置する護岸工事を終えたあとで、版築と呼ばれる専門的工法で聚楽の土を階段状に突き固めて土が雨などで流出しないようにした上で、苔植えを行ったのである。この間、造園業者さんは実に根気強く取り組んで頂いた。特に護岸の石の設置は周りの土を突き固めながらする必要があり、傍らで見ていても難しい施工であることが感じられた。この工事を引率する庭師さんはそのために体重が10キロ以上減ったということである。

苔を植え、園路ができて砂利石が敷き詰められると、ますます庭の風情が好くなった。これからもう少し杉苔を植え、竹垣を作る予定であるが、どうか大勢の方々に新たになった光雲寺の庭園をご覧頂きたいものである。

なお、11月の月例坐禅会はこの特別公開のため第4日曜日の28日は休みとなり、14日のみとなります。

「ガンとの闘病」(月刊コラム【No.87】2010年9月)

今月はいささかこれまでとは相違したテーマについてお話ししたい。「ガンとの闘病」といっても、小衲自身が現在罹患しているわけではないが、昨年以来、何人もの親しい知人や、知人に関わりのある人たちが、ガンに襲われた。中には治療空しく亡くなった方々もいる。相国寺僧堂の師家をしていた小衲の実弟も、二年数ヶ月前に前立腺ガンで遷化した。

皆さん方の回りにもきっと何人かのガンと闘病中の知り合いがおられるはずである。それほどこの病はわれわれの身近になってきており、自分がいつガンになっても不思議ではない。ガンとの闘いは情報戦だといわれている。手術・放射線・抗がん剤といういわゆる三大療法にのみ頼っていては、かえって免疫力の低下を招き、助からないことになる。

弟の場合、大阪の実家近くにある病院の人間ドックを毎年のように受けていたのだが、一度小衲が受けている「日赤のドックを受けては」と勧め、その結果、オプションの前立腺ガン腫瘍マーカーの検査で六百という異常に高い数値が出て、発覚したのである(四以上あるとガンの疑いで、精密検査の必要がある)。以前から患部の異常を感じていたとのことであるが、先の病院では腫瘍マーカーの検査がなく、不調を訴えたのだが、担当医は「別に異常はありません」と断言していたという。まことに憤りを通り越して痛恨の極みであった。

それからは、京都にある大学病院へ通いホルモン療法を受けたりしながら、食事療法など色々と試みたのであるが、二年で効かなくなり、ついにはかなり強い抗がん剤を十三クールも投与するに到ったことをあとになって知った。抗がん剤の副作用に関しては、以前から弟とはその危険性について再三話しあっていたのではあるが、担当医の勧めで受け容れることになったわけで、「この抗がん剤がこれほどひどい副作用があるとは分からなかった。こんなきつい薬は決して使うべきではない。このことを君はほかの人たちにどうか伝えてほしい」と、弟は辛い体調のなか、介護していた人に依頼したという。

西洋医学は病根を縮小させることに急なあまり、身体全体のことを顧慮することが少ないという問題点はつとに指摘されるところであるが、明らかに抗がん剤の副作用が免疫力低下を招き、遷化を早める要因になったと思われるのである。これに対して、自然療法や代替療法を選択した人たちは、末期ガンの人でも実に多くの人がガンを克服しているのである(東城百合子著『自然療法が体を変える』、船瀬俊介著『病院に行かずに治すガン療法』、参照)。

安保徹氏、船瀬俊介氏、東城百合子氏などの著書を読むと、ガンは決して不治の病ではなく、これまでのライフスタイルを根本から変え、肉食を避けて玄米菜食にし、ガンに対して恐怖を持たずに「必ず治る」と確信して、笑顔で適度に運動をして過ごせば(笑えば、ガンを攻撃するNK細胞が六倍も増える)、自然治癒に至るという。「ガンがそんなに簡単に治るなら医者は苦労しない」と小衲にいわれた医師もいたが、それは彼らが三大療法に固執して、「生活」と「食事」と「運動」と「心」を変えるという自然療法の本質や意義を見ようとしないがためである。

自然療法としては、ビワの葉温灸・里芋パスタ・コンニャクの温湿布などがよく知られている。温泉や温熱治療をして身体を芯から温めるのも、熱に弱いガンに対して効果がある。色んな体験談を読めば読むほど、末期ガンの人でも奇跡的な治癒を遂げている人が数多くいることが分かってくる。

名古屋市にはガン患者の集まりである「いずみの会」があり、その生存率は何と九五%だという。名古屋大学の医学部も注目して追跡調査中であるという。これを各地のガンセンターや大学病院の生存率と比較してみればよい。三大療法一辺倒の医療機関の生存率はおそらく驚くほど低いと思われる。末期ガンから生還した体験者たちこそ、一番の良医というべきであり、「いずみの会」ではそうした体験者から色々アドバイスを受けることができるという。それがどれほどガン患者にとって免疫力を向上させることになるであろうか。

しかも、こうした自然の民間療法は安価である。高額の医療費を要求する先進医療や高価な薬を買わせようとする医者には要注意である。小衲もガン保険には入ろうといったんは考えたが、以上のような実情を知るに及んで、その愚を悟るに至った。

とはいえ、弟を含め、こうした情報を十分に集めきれなかったがために、図らずも十分にガンとの闘いのお力になることができなかった方々が、小衲の回りにはおられる。衷心より深くお詫び申し上げると共に、ご冥福をお祈り申し上げます。

「跼天蹐地」(月刊コラム【No.86】2010年7月)

表題は、中国の五経のひとつに数えられる『詩経』小雅という、周の宮廷の賀歌を収録した篇にある「正月」と題する詩中の句である。「天、けだし高しといえども、あえて跼(せぐぐま)らずんばあらず。地、厚しといえども、あえて蹐(ぬきあし)せずんばあらず」(天が高くても遠慮がちに身をかがめ、地が厚くても遠慮がちに抜き足して歩かねばならぬ)という、戦々兢々としてわが身に何か落ち度がないかを恐れ慎むさまのことである。

現代人の中にはこういう言葉を聞くと一笑に付する人もあるかも知れないが、われわれ禅の修行で鍛えられ苦労したものにとっては、まことに有難く、身に沁みる言葉である。東京の白山道場の名僧・南隠老師は蚊帳を吊るされる際に、いつもご自分の顔につかんがばかりに低くされたが、それを怪訝(けげん)に思って「高く釣った方が気持ちが良いではありませんか」と尋ねた弟子に対して、南隠老師は上述の一句を引いて、「そんな了簡(りょうけん)ではいけぬ」と戒められたという話を読むと、名僧の行履(あんり)の気高さに身の引き締まる思いがする。

さて、先月のコラムは「作務の法悦」と題していたが、どうも弟子たちには今ひとつよく浸透していないようで、大いに反省することがあった。「植治(七代目小川治兵衛)の庭」を復元するべく、庭師さんたちが入って中庭の築山や苔張りをしていた時のことである。梅雨に入ってからますます雑草が伸びて除草の必要が増大したが、植えたばかりの苔の中に生える草を除くには、細心の注意がなければ苔を傷めることになりかねない。そこで、小衲が一人で中庭の除草をし、他の五、六人は境内内外の掃き掃除のあと、墓地の除草に専念してもらった。

四、五日たって中庭の除草がひと通り終わったので、墓地の方ももうほとんど終わっているだろうと思い、出かけて見ると、何と、「一体どこをやったのか」と思われるほど、あちこち雑草だらけでさっぱりできていないではないか。さっそく厳しく訓戒し、率先垂範して三日でやり終えたのである.

禅の専門道場では、「働きがある」かどうかということがよくいわれる。不器用な小衲などは、最初の道場では、なかなか働きができずに苦労し怒られもしたのであるが、次の道場では、自分自身の工夫と法悦も格段に進み、それに比例して自分なりに働きが自然についてきたという経験がある。

よい働きができるためには、その場所全体の状況を見て、どこからどういう手順で行えばよいかを瞬時に判断できなければならない。全員が思い思いのところを漫然と除草しているようでは、たいした成果が上がらないのも無理からぬことである。毎回注意しているのではあるが、それがまだ弟子たちに身についていないのは小衲の指導の不徹底である。

「戦々兢々」の配慮が必要なのは、たとえば人のお宅に訪問する時などでも同じことである。約束の時間に遅れることはあってはならないことであるが、さりとてあまり早く着くのも迷惑なことである。どんぴしゃりの時間が理想的であるが、そうはいかない場合もある。時間が遅れたり早まったりする時には、当然のことながら相手方に電話して了承を得るのが常識であるが、中には非常識と思えるほど約束を違える人も稀にいるものである。

少し前のことであるが、以前に施工をお願いした工務店の支店長が工事責任者を伴ってこちらの問題の箇所を見に来るという約束をして、当日の二時間前に、「では午後四時に二人で参ります」という電話があった。冬場のこととて、当方では三十分前には暖房を入れ、十分前には線香を立て、抹茶と菓子を準備して待っていたのであるが、いつまで待っても一向に来る気配がない。結局、その日は何の連絡もないままであった。こんな無礼なことはない。

小衲はそれで彼を見限って、「これ以後は出入り無用」の伝言を携帯電話の留守電に入れておいた。翌日早朝に彼はやってきて玄関に背広のまま土下座して無礼を謝したが、小衲はけんもほろろに応対して決して許すことはなかった。人によれば、このような応対振りはあまりにも非情に見えるであろうが、約束を守らない人物と信頼関係を築けという方が無理である。特に禅寺では時間厳守が厳格で、そうした現場を見聞したことが小衲には一再ならずある。連絡なしに十五分遅刻した或る本山の管長が、先輩格の僧堂の老師から痛烈な一喝を喰らった場面は、いまでも眼に焼きついている。

ただこの支店長の場合、救いなのは、「何というひどい仕打ちだ」などと当方の対応を恨むより、自らの非を悟って、それ以来連日、出勤前の早朝にやってきては郵便ポストに挨拶代わりの名刺を入れ続けたことである。彼にとってこの苦い経験が良薬としてこれからの人生の糧になることを願ってやまない。

それにしても、われわれはいかなる順風満帆・得意絶頂のときでも、戦々兢々たる「跼天蹐地」の念を忘却せぬように心がける必要があるであろう。「天、けだし高しといえども、あえて跼(せぐぐま)らずんばあらず。地、厚しといえども、あえて蹐(ぬきあし)せずんばあらず」である。

「作務の法悦」(月刊コラム【No.85】2010年6月)

春寒の季節も過ぎたというのに、今年は天候不順で先月末には最低気温が十度をわずか超えたくらいの日が続いた。さらに追い打ちをかけるように、雨の日が多く、畑の野菜の成長も芳しくない。農家の方々はさぞかし大変であろう。それでも雨のお蔭で、昨年植えたばかりの前庭のスギゴケが一面に芽を吹いて新緑の鮮やかな色を見せ、泥ざらえをし敷石を入れて改修した池の水が雨水で浄化され、錦鯉が気持ちよさそうに泳いでいる様は、見る人の心を和ませてくれる悦ばしい光景である。

この時期にぜひともやらねばならぬ、庭の十数本ある松のみどり摘(つ)みは雨で中断しながらもようやく終了したが、今度は墓地・前庭・中庭・畑の草引きが立て続けに待ち構えている。まことに中国唐代の名僧・百丈懐海(えかい)禅師が言われたように、「一日作(な)さざれば一日食らわず」の実践がなければ、清浄の伽藍を維持するお寺の生活はやって行けるものではない。しかし、みどり摘みにせよ草引きにせよ、一心不乱に打ち込んでやっていると、朝のお粥の知らせで中断するのが惜しいほどに楽しくなってくるから妙である。

松のみどり摘みや古葉摘みは松の一番高い部分からやっていくのが常識である。でなければ、上から落としたものが下の枝に引っかかるので、下を先にしていると今一度振るい落とすという余計な手間がかかるからである。光雲寺では一本の松を六、七人ほどでやるのであるが、いつも頂上の危険な箇所での仕事は住職である小衲の役目で、弟子たちや他の者には決してさせることはない。それは少しでも気を抜くと命にかかわる危険な作業であるからである。

知り合いの中には「そんな危険なことを住職がするなどもってのほかで、庭師さんに任せればよい」と忠告をしてくれる人もあるが、庭師さんにはまた別に、専門家でなければできない箇所をやって頂いており、我々は自分たちでもでき、手間もかかる松をするのである。実は三年前にこの光雲寺に住職として入山してしばらくは、経費節約のためにほとんどの庭仕事を自分たちでやっていたのであるが、京都市指定の名勝庭園を修復するに際して、京都市や専門家の先生からの推薦を受けたすぐれた庭師さんの仕事ぶりを見てからというもの、やはりその道のプロにやってもらった方がよいと反省したのである。

専門の庭師さんに教わりつつ一緒にするというのが、一番の理想であるが、この光雲寺は「南禅寺禅センター」として多くの人々の坐禅研修を受け容れており、多い月には1700人を超えることがあるので、多忙のためなかなか毎回理想通りには行かないことが少し残念である。

さて、こうして松のみどり摘みを済ましたある朝、仕事に来られた庭師さんに、「みどり摘みをしていると朝ご飯の知らせが残念で、あとせめて一時間でも続行したいという気持ちになります」と苦笑しながら話しかけると、その熟練した庭師さんは、「いや、そういうお気持ちだと危険が少なくなります」と真顔で応(こた)えてくれたので、なるほどと感じるところがあった。

或る造園業者のところに勤めていた若い庭師が光雲寺に先頃まで下宿していた。彼の仕事はほとんど休みももらえないほどの非常に過酷な日々が続くので、みんなで心配していたところ、高い木に登っていた職人で木から亡くなった者がその業者のところで二人出たということである。いくら仕事をあちこちから依頼されるからとは言え、労働基準法からは到底認められないほどの長時間を極端な低賃金で働かせるとは、従業員を取り替え可能な歯車のようにしか考えていない浅はかな会社であるという他はない。

食品業界でもそういう話はよく見聞するところである。不況であるからとはいえ、雇われている人を大切にしない会社は早晩衰退するのは目に見えている。利害得失に拘泥して一喜一憂していては心が乱れて足元がおろそかになる。法悦どころか不満が生じて我見が増長し、他人(ひと)のことを思いやる余裕もなくなり、充実した日々が送れなくなる。

禅寺での生活はそうではない。作務にせよ坐禅にせよ、衣食(えじき)のためにするのではなく、利害得失のみならず一切の雑念を放下(ほうげ)し成り切って楽しみながらするので、えもいえぬ法悦が醸成されてくるのである。

このことで思い起こすのは、妙心寺僧堂から鎌倉の建長寺僧堂に転錫して寸暇を惜しんで工夫三昧だったころの思い出である。あるとき雲衲三人で畑の畝作りをしたことがある。小衲は坐禅のみならず作務の最中もなるだけ公案工夫に心がけていたので、何をしても楽しい思いがした。その折りも畝作りを乗りに乗って一番手早くしたので、それを横で見ていた高単の先輩雲水が、「園さん(建長寺ではこう呼ばれた)、まるで百姓の子みたいだな」と思わずいってくれたが、その言葉を聞いて、嬉しかったこと嬉しかったこと。田舎とは無縁の都会(大阪)育ちで不器用な小衲がそのように見られたことが、忘れることのできぬ嬉しい思い出として心に焼きついているのである。

小衲は西洋の哲学を専攻していたが、「画餅、飢えを充たさず」という如く、単なる理論的詮索に飽きたらず、足実地を踏む実参実究の道である禅の修行をするべく出家した。この道に入ることがなければ、かかる法悦を経験することは非常に難しかったであろう。今の青年たちも禅修行がもたらすこの法悦の醍醐味を味わい尽くして、充実した楽しい人生を送って頂きたいものである。

「利他行」(月刊コラム【No.84】2010年5月)

先月初めのことであるが、佐賀県の唐津市で、魚釣りをしていた四歳の弟が足を滑らせて海中に落ちたのを救おうとして、十歳の兄が海に飛び込んだが、救助できずに自分が溺死してしまったという、何とも切ない出来事があった。弟は別の男性に救助されたが、この十歳の兄は弟を常日ごろかわいがり、弟の方も兄にとてもなついて、あとを絶えず追いかけていたという。

小衲が感心したのは、その兄が学校で、「どんな人間になりたいか」という設問に対して、「人のためにお役に立つ人間になりたい」という希望を述べていたことである。子供の道徳教育に親が比較的熱心だった戦前ならいざ知らず、いまどきの十歳児がこのような気高い見識を持っているとは驚嘆したのである。わが身の同時期を思い起こすと、恥ずかしながら格段の違いがある。それにしてもこのような志をもつ子がなくなってしまったのはまことに残念なことであった。

人のためにするというのは「利他行」と呼ばれる。利他行の人は潤いがあるので、「徳は孤ならず」で、人が集まってくる。これに対して、自分中心の生き方に固執して他人のことを何ら思いやる余裕がなければ、人も離れていくであろう。利他行を実践する人には必ず心に悦びが生まれ、それが自分のためにもなり得るのでないだろうか。

これは或る病院の院長先生からお聞きした話であるが、ガン患者の人がひとのために行動を起こせば、免疫力が増加してガンが縮小したり消滅する場合があるということである。また別の或る先生は、宗教に対する敬虔な心持ちにより難病を好転させることも可能であると説かれた。

江戸時代に創業され今に続く大企業を築いた商家の家訓を見ると、共通しているのはいずれも「顧客本意」の理念を掲げていることである。むやみに暴利をむさぼることなく、誠実な商売をして顧客に喜んで頂き、それが結果的には自分の利益になるという仕方で商売を発展させていったのである。

たとえば、高島屋を創業した飯田家の家訓には、「もって客を欺かず、薄利に甘んじ、客を利し、あわせて我も利し、いわゆる自利利他は古来の家風なり」とうたわれている。まことに商売の極意はここにあるであろう。京セラの稲盛会長は「利他行」をもって自己の経営理念としておられるということを聞いたことがあるが、もっともなことである。

仏法では、道元禅師の有名な「愚かなる我は仏にならずとも、人を渡す、僧の身なれば」という道歌に歌われたような、さらに高邁な「自未得度先度他」の教えがある。世の多くの人たちが日々苦しんでおられるのは、自分本位の生き方から脱却できないがためである。

徳川家康公は孫の竹千代君(のちの三代将軍となる家光公)に対して。「なんじは天下の主(あるじ)ぞ、天下は慈悲ぞ」と肝心かなめの一句を言われたという。世の人々が無縁の人に対しても思いやりや慈悲をもって対してわが身の法悦の醍醐味を味わうとともに、潤いのある世の中が到来すればと願うものである。

「坐禅の功徳」(月刊コラム【No.83】2010年4月)

先月のコラムでは「子弟の教育」に触れたが、毎回新たな参加者が何名かいる月例坐禅会や土曜ごとの夜坐禅、また修学旅行生や一般の人たちがまとまって参加する南禅寺禅センターの坐禅研修も、ここ光雲寺では盛んであり、参加者も増加の一途をたどっている。

最近初めて月例坐禅会に参加した若者がいた。彼は大学院の博士課程で政治学を専攻する学生で、光雲寺に二年半以上寄宿している先輩の人徳に感化されて坐禅を志したという。「先輩が光雲寺に住むようになってから、人格が円満になってみんなの尊敬を集めるようになった経過を目の当たりにして、坐禅の必要を感じました」と彼は心中を披瀝した。

実際、彼の先輩は、大学教授をしておられたお父さんが亡くなってから、光雲寺の檀家になって墓地に建立した墓石の前で、連日ひそかにお経をよんで供養していたのであるが、これは生前の父親に対する彼の気持ちを聞かされていた小衲にとっても、大いなる驚きであった。

学者の中には自分の研究本位で、あまり家庭のことを顧みない人がいるということを聞いている。高名な学者の中にも、奥様がずいぶんご苦労されたという逸話をもつ方もいる。そういう父親に、子息や子女が反発するのは無理からぬことである。小衲のところに相談に来る若い女性の人の中には、教育者である父親との関係がうまくいかずに悩んでいる人がことに多い。

とはいえ、お父さん自身も仕事の上で家族にいえない悩みを抱えながら、黙黙として家族のために日々頑張っておられるという面もあることを分かってあげなくてはならないのではないか。家庭の中での不和は、決してお互いのために幸せなことでも賢明なことでもない。

彼の先輩は多忙な研究生活の中で、夜坐や早朝坐禅を自発的に行っていたが、それだけではなく境内の内外の掃除や作務も厭うことなく参加した。それによって自分でも意識しない間に、いつのまにやら自我が薄紙をはがすようにとれていったということであろう。

自我のとらわれが苦しみのもとである。それから解放されて無我の自分が次第次第に感得されてくるから、心が柔軟になって真心が養われ、ひとの身になって考えられることができるようになるのである。博士論文を刻苦して書き上げ無事に博士号を授与された彼は、亡父の一周忌に際して、古くなってほころびが目立ってきた門幕を、御尊父の菩提を弔うために新調し、それを大学に奉職する自分の初任給をもって充てたい旨、申し出てくれた。亡き御尊父に対する何よりのご供養になるであろう。

この先輩の影響を受けて坐禅会に参加するようになった前述の学生は、外国語の文献を読み、論文執筆に精を出すだけであったこれまでの生活を一変させて、土曜の夜坐禅を含めて、週に四回は坐禅に来訪している。そのお蔭で、彼の顔つきは一見して分かるほど柔和になり、光を放ってきた。おそらくは、本業の学業の方もさぞかし進展してきたことであろうし、何よりも心に法悦が育ってきていることは間違いない。うれしいことである。

さらに、先日、以前坐禅会に参加したり、小衲と一緒に中江藤樹の『論語郷党啓蒙翼伝』を会読したりしてのち、東京の官庁に奉職した男性が久しぶりに訪ねてきた。彼は奥さんが早産で、お子さんが十日ばかりで亡くなられたにもかかわらず、「小さな大切な命を一つ失ってしまいしましたが、悲しいばかりではなく、喜びももらえました。天から何か特別なものを授かった気がします。仏道についてもまた異なる気持ちで考えました。久々に坐禅をして無になれました」と述べ、「こういう心境になれたのも坐禅に出会ったお蔭です」とお礼を言ってくれた。そして非常に辛い経験をしたにもかかわらず、彼の顔つきが以前よりはるかに円満になって耀いていたことに感動したのである。

以上述べたのは、小衲が身近で経験した「坐禅の功徳」の一端である。南禅寺禅センターの坐禅研修で修学旅行生が先生がたに引率されて来るのも、何か学業だけでは足りないものを感じておられるからであろう。明治時代以降、わが国では「行的実践」という側面が次第に軽視されてきたが、いま一度その必要性を反省して、ひとりでも多くの人が坐禅を実践して、心からの法悦を得られんことをお祈りするものである。

「子弟の教育」(月刊コラム【No.82】2010年3月)

光雲寺の弟子の一人がいま臨済宗の専門道場(僧堂)で修行中である。ようやく三年が過ぎて四年目に入ったところであるが、安居(あんご、修行期間)が変わる半年ごとに暫暇(ざんか、休暇)を頂いて、光雲寺に帰山させている。つい先月も二週間暫暇したのち、また僧堂に戻っていった。

修行中の雲衲を弟子としておられる尊宿の中には、「うちの弟子は三年間無暫暇でやり通させる」と堅固な決心を抱いている方もおられると聞く。だが小衲は、自分自身の経験から、弟子たちにはこれまで僧堂にお願いして暫暇をさせてきた。

専門道場は規矩厳然としているのが確かに長所ではあるが、道心のある者は、時として規矩に束縛されることなく思う存分坐り込んでみたいという思いの起こることもあろう。独摂心(ひとりで坐禅三昧の工夫をすること)もこの時にこそ可能である。

また、僧堂での在錫年数が高くなると、老師や高単の役位からでなくてはなかなか注意を受けることがないので、どうしても自分が何か偉くなったように勘違いして増上慢になりがちであるから、厳格な本師の点検を受けて自らの到らぬところを指摘してもらわねばならぬ。また弟子の方でも師匠の親切心を感じ取って、我見を捨てていわれるがままに従っていく素直さが肝要である。

僧堂では書見はできないから、暫暇した時には越格底(おっかくてい、ずば抜けた境涯)の古人の行履(あんり、行状)を学んで道情を養うことを忘れてはならない。かの臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師でさえ、修行の合間に祖録を拝読することにより幾たびも大歓喜を得られたと伝えられる。「禅堂裡に坐禅弁道し、明窓下に古教照心する」というのが車の両輪の如く必要であるのは、白隠禅師の一番の法嗣である東嶺禅師も述べておられる通りである。

禅的生活の醍醐味を味わうためには、なんと言っても願心をもって日々修行に励むことである。全身全霊を打ち込んで四六時中公案工夫に没頭していると、えもいえぬ法悦(すべてを空じ尽くした無所得の法悦)が自然(じねん)に感得されてくるから妙である。法悦が育ってくれば、僧堂生活はますます充実してくるから面白い。

住職資格を取るだけのために不本意ながら僧堂修行をする者は、できるだけ修行を短期間で終えようとする。それではせっかくこの上もなき道に入った甲斐がないというものである。父親が師であるのは息子にとってよくないと思われ、他の有徳の尊宿にわが子を預かり弟子として托される和尚様もおられるのは貴いことである。

いずれの尊宿方もご自分の子弟の教育に日夜腐心しておられることであろう。小衲は暫暇してきた弟子に向かい、「ここは僧堂とは違い、自由時間が多い。こういう時にこそ道心ある者とそうでない者との差がはっきりする。ぬかりなく坐禅弁道し、古教照心に励むように」と訓戒した。

日常の一挙一動に関しては至らぬところがまだまだ目につくので、その都度再々にわたり注意した。僧堂の老師にはなるだけ長く下積みをさせて頂き、できるだけ長く僧堂に置いて頂くようにとお願いしてある。雲水の在錫年数が短いのを嘆かれる僧堂師家方は多いのである。

とはいえ、半年ぶりに彼を見た坐禅会の旧参の人の中には、「風格が出てきた」と彼のことを認める者もいた。毎回暫暇のたびごとに二、三日の休暇を取らせて実家に帰らせるのであるが、そうすることで実家や親戚に法の潤いが生じて、一族の希望の星となっていくのが如実に見てとれる。これが上求菩提即下化衆生(自らの向上の道がそのまま他を教化することになる)ということではないか。済度しようと思わないのに、期せずして済度になっているのが好い。

この弟子に対して僧堂に掛搭する前に読み聞かせた『雛僧要訓』の序には、「能(よ)くこれによって行いて怠らざる則(とき)んば、後日必ず明眼の宗師も崖を望んで退く底(てい)の妙高峰と成らん」とあった。この要訓をぬかりなく守り行っておれば、他事異日、悟りを開いた名僧ですら、その威風を見ただけで後ずさりするような高峰の如き妙(たえ)なる禅僧になることができるというのである。

このことがいかに困難であるかは身をもって知ってはいるが、師匠としては弟子の大成を祈らずにはおられないのである。「少なくとも師匠勝(まさ)りの弟子になれよ」というのが、小衲の口ぐせではある。「見、師と等しきときは師の半徳を減ず、見、師に過ぎて初めて伝授するに堪えたり」であり、「投げられて親方喜ぶ、相撲取り」である。

「大安楽」( 月刊コラム【No.81】2010年2月 )

龍牙居遁(りゅうげきょとん)禅師という、中国唐代の名僧がいる。曹洞宗の開祖である洞山良价の法を嗣いだ禅僧であり、臨済禅師との問答も残っていることは、少し禅に触れた人ならばご存じであろう。

江戸時代の禅籍である『鉄笛倒吹』(てってきとうすい)の第二十八則に「龍牙古休」の話がある。「龍牙遁禅師、因みに僧問う、古人、箇の甚麽(なに)を得て便ち休し去る。牙曰く、賊の空室に入るが如し」(龍牙遁禅師にある僧が質問した、「古人は一体なんの道理をを得て大安楽の境地に至ったのでしょうか」。龍牙が答えた、「ちょうど盗賊が空室に入ったようなものだ」。)

この僧の問いに対する風外禅師の、「汝、什麽(なに)を得てか、恁麽(いんも)に休せざる」(かくいうお前は、一体なにを得てそんなに心安らかならずに質問するのか)という下語(あぎょ、禅的ヤジ)が面白い。これが下語の妙味である。龍牙の「賊の空室に入るが如し」に対しては、風外は「ただおそらくこの僧はこの空室という宝を捨て去ることができないであろう」と下語している。

盗賊が空室に入ることが、どうして大安楽につながるのか。また空室がどうして宝物といえるのか。しかもこの宝を捨て去らねばならぬとは、一体どういうことか。

盗賊は部屋の中にはさぞかし素晴らしい宝物があるに相違ないと思って進入するのだが、しかし期待に反して何もない空き家であった。修行に骨を折って悟れば必ずや目を見はるような境地に至るに相違ないと思いこんでいた者(盗人根性のある修行者)が、現に悟ってみれば、これといって所得はなく、本来無一物であることを知り、求め回る心がやんだのがちょうど同じようなことであると龍牙はいうのである。

この則に対する奥龍禅師の偈頌は格調高いものである。「幾たびか剣刃上に之(ゆ)き、また曾て薄氷を履んで猜(うたが)う。入得すれば是れ空室、偸心(ちゅうしん)死して灰となる。帰り来たって晨夕(しんせき)分に随って送れば、恰(あたか)も平地に徘徊を打するに似たり。清風明月、何の極まりか有らん。自家の宝蔵、ここに到って開く」(何度も剣の刃の上を歩くような苦難を重ね、また目指す境地をいろいろと推量して、薄氷を履む思いで疑った時節もあった。だが、悟入してみれば、空き部屋に入ったようなもので、所得とすべき一物もない。かくして、何とかして悟ってやろうなどという妄想分別は灰の如くに消え失せてしまった。そうした境地になれば、ただ腹がへれば飯を食らい、疲れたら眠るという、何らの造作も計らいもない淡々とした毎日である。悟ったならば思う存分に衆生済度をしようと思っていたが、悟ってみれば迷える衆生というのも見あたらない。自分自身も本来無一物(空)という宝物であることが分かった。)

臨済禅の修行では一則の公案に取り組んで、文字通り目の色を変えて工夫三昧になることが求められる。といっても、師家がいくら力説しても、やるか否かは本人にかかっている。自分の境地を顧みることなく、また悟りすらも求めることなく、四六時中ひたすら馬鹿になって真一文字に工夫を続けていると、知らず知らずの間に分別がこそげ落ち、八面玲瓏となってえもいえぬ法悦の境地が現前してくるから面白い。たとえ短時間でも真剣に工夫すれば、ただちに佳境に入ることが可能である。

禅の修行を格別にする人でなくても、あれこれ悔やんだり先のことを取り越し苦労したりせずに、眼前のことに心を込めて対処していれば、そのうちに道が開けるものである。たとえ不遇であっても、不満の念を起こさず、足るを知って日々を楽しんで過ごす人に、憂いの起こりようはない。

安楽の道がこの方向にあるということをお話すると、たちまち見違えるように顔を輝かせる人がほとんどである。どうかご自分の中にこそ真の宝物があるということを信じて、自信をもって生活して頂きたいものである。

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