「地蔵菩薩の悲願」(月刊コラム【No.95】2011年5月)

光雲寺にはお厨子に納まった地蔵菩薩の立像がある。以前から気になっていたのであるが、両手が取れるなど痛み方が激しかったものの、何ともいえない品格のあるお顔の相好(そうごう)である。ちょうど「京の冬の旅」の長期拝観により皆様方からのご志納を頂いたので、そのお像を修復することにした。修復を依頼した仏師は、東福門院様の聖観音像念持仏の時と同様、由谷倶忘師である。

修復がなったお像を拝見すると、ますます気高く見えて本当に修復してよかったと納得した次第である。由谷師も「いいお顔ですね」と感嘆しておられた。来客の方々も例外なく驚嘆の声を上げられる。ただ残念なことには、このお像の由来を示すような記録は修復に際して見つからなかったということである。耳から推察するに南北朝時代、すそを見ればもう少し時代が下る、恐らくは桃山時代の製作年代でしょうということであった。

地蔵菩薩で思い出す話がある。江戸中期の臨済宗中興の名僧である白隠慧鶴禅師の高弟であった東嶺円慈禅師は、「八歳の時に父に従い山寺に行き、地蔵菩薩が地獄の衆を済度すること限りない図を見て心に憧れ慕う気持ちを生じ、自分も地蔵菩薩のように苦しむ衆生を救いたいものだと思いました」と師に述懐したところ、白隠禅師は、「わしは地獄の苦悩を怖れて出家したが、それはわが身ひとりの解脱を求めるものであり、師匠であった正受老人から厳しく叱責を受けた。奇特なことに、お前の初発心は衆生済度に邁進する菩薩の悲願を具備するものであり、わが師、正受老人の意にかなうものである」と大いに賛嘆されたという。

地蔵菩薩は釈尊の付嘱を受け、弥勒の成道に到るまでの無仏の世に住して、声聞の出家の姿をもって衆生を教化する菩薩である。わが国では平安時代中期以降、観音信仰と並んで盛んとなり、重要な民間信仰となった。この菩薩が幼くしてあの世に召された子供たちを救う賽の河原の救護者として子安地蔵・子守地蔵などとして理解されるのは俗説であるが、いまでも京都などの関西の町々では盛夏の頃に地蔵盆が行われている。子供たちの無事息災を祈願する子供たちの祭りといってよい。

「一切衆生を果たさなければ、自分は菩薩界には戻らない」という高邁な悲願を立てて、本来は子供たちのみならず苦悩する人々を救うという地蔵菩薩が、今回の東関東大震災の悲惨極まる惨状をご覧になったら一体どのように思われるであろうか。

自らが莫大な利権に群がりたいがためにかくも危険な原発を野放しにしてきたこれまでの政府や電力会社や御用学者たちを、厳しく糾弾されることは間違いあるまい。「想定外」という言い訳に終始する責任者たちを決して許されることはないであろう。大災害は想定を遥かに超える規模で起こるものである。殊に原発の如きは、いったん壊滅的な打撃をこうむれば、わが国全土はもとより、人類全体を滅亡の淵に追い込む危険をはらんでいる。

今回の大震災以来、原発に関する色んな書物を読んだが、すでに何人もの人たちが以前から声高に警告を発していたことを知った。作物を作れない農家の人たちや放射能のために故郷の地を離れることを強制された人々の苦悩は如何ばかりであろうか。破損した原発の状況は予断を許さないが、何とか一日も早く解決して頂きたいものだと、地蔵菩薩の大慈大悲に祈願せずにはいられない。

(なお、修復がなった光雲寺の地蔵菩薩像は、11月21日より12月4日までの京都観光協会主催の秋の紅葉の特別拝観の際に、皆様方のご覧に供する予定でおります)。

「東北・関東大震災」(月刊コラム【No.94】2011年4月)

本年1月8日より始まった京都市観光協会主催の「京の冬の旅」の長期にわたる特別公開は、3月21日をもって終了した。この73日間の期間中、一万八千人以上の方々がお見えになり、光雲寺を中興された東福門院様(大河ドラマの主人公である「お江様」のご息女である、徳川和子様)の遺徳を偲び、また光雲寺の境致を味わって頂いたかと思う。ご来訪の皆様やお力添えを頂いた関係各位には厚く御礼申し上げたい。

その63日目の午後3時前のことである。東北地方から来訪中の方々の携帯電話が一斉に鳴り響いた。東北で大地震が起こったという緊急の連絡であった。マグニチュード9,0というわが国史上未曾有の大地震によって次第に明らかになった被害は、かなりの広範囲に及び、甚大な津波被害に加えて、原子炉発電所の深刻な大事故により放射能汚染が広まり、これからの復興が非常に困難となることが予想される。

NHKを初めとするテレビなどの報道各社は、「亡くなった方と届け出があった行方不明者とを合わせると2万数千人になる」などとばかり言っているが、津波の押し寄せるあの映像を見る限り、一家ごと流されて届け出など到底できる人もいない家庭が数多くあることは容易に想像できる。沿岸ぞいの各町のかなりの人たちが行方不明になっており、そうした市町村が30ばかりあるという。あるインターネット情報によれば、死者の数は16万人にものぼるとも言う。マスコミはどうして真実を覆い隠そうとするのであろうか。

小衲は以前から原子炉建設の際などの被害想定値があまりにも低く常識的なのを危惧していたが、今回も福島原発では、識者から1100年以上前の貞観地震の例を挙げて危険を指摘されていたにもかかわらず、東京電力や国の機関が言を左右にして素直に受け容れなかったという。津波も30メートルを越えたところもあるという。大災害は予想を遥かに超えるのが通常である。ことに原発などの被害はひとたび起こってしまえば甚大な被害をもたらす。あまりにも甘い想定をもってこと足れりとしていた東電や国(特に自民党政権)は厳しく糾弾されてしかるべきであろう。

その他の地方も他人事(ひとごと)ではない。小衲は阪神大震災の直後の惨状をつぶさに見た経験から、木造建造物の多いここ京都でもしあのような大地震が起きたらと危惧し、平成18年夏の住山以来、光雲寺の建造物の耐震強度を測定してもらったところ(ちょうど姉歯氏の耐震強度偽装が世間を騒がせた直後のことである)、驚くべきことに、書院は0,2、方丈に至っては0,02という「ほとんど強度がない状態」であった。

京都市内の花折断層南部が動いたのは弥生時代だと言われているが、地震活動が活発化した昨今の状況を見れば、いつまた起こっても不思議ではない。早急に資金を集めて耐震補強や耐震新築をしたことが決して杞憂とはいえないことを、今回の大震災は示しているといってよい。120年前の濃尾地震でマグニチュード8,0という内陸部地震としては最大の規模の地震に襲われた濃尾(美濃・尾張)地方でも、「またいつ大地震が起こっても不思議ではない」と思い、しっかりした耐震補強をした禅宗の寺院を知っている。地震大国のわが国ではいつどこででも大地震が起こりうるのである。

それにしても、天皇陛下ご夫妻は、那須の御用邸のお風呂を被災者に開放され、宮内庁病院へ震災の患者を受け容れ、皇室向けの食品類を提供されておられる。しかもその上に連日時間を決めて自主停電を行っておられるということである。何という心のこもったお心配りであろうか。阪神大震災のあとでも、被災者の人たちを慰安するためにオーケストラによる演奏会を開いてくれるようにと、皇后陛下が決して潤沢とはいえぬ皇室の会計から多額の費用を出して懇願されたという秘話を、小衲は確かな筋から聞いたことがある。

大地震に大津波、その上に原発の一向に解決のめどが立たない状況を見れば、先行きは決して容易ではない。未曾有の大災害に対して、日本全国ばかりか世界中が色々と支援を表明している。私たちも総力を結集して、分に応じて東北・関東の人たちを支援し、一日も早く被災者の人たちが笑顔で暮らせる日が到来してほしいものである。合掌。

(なお、特別拝観中の浄財のすべてと志納金のいくばくかを日本赤十字を通じて義援金として送らせて頂きました。お力添え頂いた皆様がたには厚く御礼申し上げます)。

「板倉家と光雲寺」(月刊コラム【No.93】2011年3月)

専門道場で修行生活に入って五年目の弟子が、半年ぶりの暫暇を頂いて光雲寺に戻ってきた。道場の生活に次第に慣れてそれなりの風格らしきものが身につき始めてはいるが、師匠である小衲の眼から見れば、弟子の日常の一挙一動には動きに無駄があり、禅定を練っている修行者らしからぬ騒々しさがある。師匠によってはなるだけ弟子には暫暇をさせないという方もあると聞くが、小衲はやはりときおり暫暇して師匠の点検を受けることが必要だと感じるのである。

あまり修行経験のない者を厳しく注意すると、落ち込んだり恨んだりしかねないが、道場でいろんな失敗をして至らなさを叱責されるという洗礼を経ておれば、師匠の事細かな注意や小言も、「なるほどいわれる通りです」と感謝して真受けにできるようになるものである。こういう師弟の交わりを通じて向上するのは、弟子ばかりではあるまい、師たる者も同様である。弟子をもつ身の有り難さを感じる瞬間である。

先月のコラムでは『常山記談』に言及したが、武士でも、日常の心がけが武士の鑑(かがみ)となるような勝れた人物が何人もいたことが知られている。板倉周防守(すおうのかみ)重宗(しげむね、天正十四年ー明暦二年、1586ー1657)は江戸時代初期の譜代大名で、父である板倉伊賀守勝重(かつしげ、天文十四年ー寛永元年、1545ー1624)のあと、京都所司代の重責を担った板倉宗家第二代の人物である。

この重宗がいかに勝れた人物であったかは、『常山記談』に、「周防守重宗、京都の職にあること凡そ三十余年、人敬うこと神明の如く、愛すること父母に似たり。父子まことに同じ名臣とぞ聞こえし」とあるように、神のように敬われ、父母のように敬愛されたということからもよく分かる。いまどきの政治家でそのような人物が果たしているであろうか。

比較的知られた話ではあるが、この重宗は京都所司代になって毎日決断所に出向いて訴訟の裁定を行う際に、西に面する廊下ではるか彼方を伏し拝み、決断所には明かり障子を目前にすえ茶臼をおいてそれをひきながら訴えを聞いたという。当時の人はみな不審に思ったが、はるか後になってそのことを問う人に対して、重宗は答えていった、

「まず決断所に出るとき、西に面する廊下ではるか彼方を伏し拝むのは、愛宕山(あたごさん)の神を拝するのである。多くの神の中でもことに愛宕は霊験(れいげん)があると聞き及んでいるので、願うところがあってそのように拝するのである。その所願とは、今日重宗が正邪を判断するにあたり、できうる限り私心を捨てるように致しますが、もし誤って私心を差しはさむようなことがあれば、たちまちわが命を奪って頂きたい、と毎日祈り誓うのである」。

さらに重宗はいう、臼で茶をひくのは、心が定まって静かなときには手もそれに応じて臼が平らかに回り、ひかれた茶もいかにも細やかである。そのことでわが心も不動であると知って、その後、ようやく訴えを判断するのである。また明かり障子を隔てて訴えを聞くのは、人の顔を外見から判断して先入見をもってみては真の裁きができないからである。昔の訴訟を聞くのは当該者の顔色を見てしたというが、それは自分が及ぶところではない。わが身の生殺与奪を握っている人物の面前では萎縮していうべきこともいえずに罪科(つみとが)にあう者もあるであろうと思えば、所詮は互いに顔を見ることも見られることもなくした方がよいと考えて、障子で座を隔てるのである、と。

まことに重責を担った重宗の細心の心配りのほどがこの言葉からよく分かるのである。これほど綿密周到な自己反省をする人は本当に稀であろう。ひとはともすれば何か問題があれば、自己を是として他を非とし、何事も他人のせいにしがちである。お互い心したいものである。

実は板倉周防守重宗をこのコラムで採り上げたのは、いまひとつ理由がある。わが光雲寺中興の英中玄賢禅師(寛永四年ー元禄八年、1627-1695)が板倉家のご出身で、板倉家歴代の位牌が祀堂檀(しどうだん)に祀られていることが判明したからである。そのきっかけは、もっか「京の冬の旅」の特別展の会場で展示中の、「光雲寺幟(はた)観音記」である。

英中禅師(幼名、板倉藤次郎)の養父の板倉重吉の母は、重宗の父である勝重の姉であった。重吉は関ヶ原の戦いにおいて井伊直政の麾下(きか)として大いに力戦し、敵の首級を獲て、その幟が血で染まるほどの活躍をして、その勇猛のほどが鳴り響いたといわれる。

藤次郎が出家して英中禅師として大成され、その後、東福門院の帰依を受けて大明国師の古道場・光雲寺を再興するに際して、禅師は画僧の友禅に依頼して、亡父の追福のため亡父伝来の血染めの幡に観音像を画かしめ、「幡観音」と称された。

重宗の弟で島原の乱で戦死した重昌の子であった重矩(しげのり、元和三年ー寛文十三年、1617ー1673)は京都所司代となってから、勤めの暇に光雲寺に詣(もう)でて、英中禅師を板倉家累世の親戚として厚遇した。そして祖父であった勝重の三条の邸宅を喜捨して光雲寺に移築し、祀堂として板倉家代々の位牌を安置した。英中禅師も重矩の至孝の志に感じて、常に香華を供え、幡観音を祀堂に掲げて敬礼されたという。

方丈として移築された板倉勝重の邸宅はすでに天保年間に取り壊され、幡観音の所在も不明であるのは実に残念で、中興禅師と板倉家一族に対してまことに申し訳ないことである。板倉家の位牌のいくつかはもっか修復中である。徳川将軍歴代の位牌と共にお祀りする日が遠からず来ることであろう。

光雲寺は東福門院三百年御忌に向けて寺院整備を何年にもわたり行ってきた。しかし禅門で真に肝要なことは、道骨ある気鋭の弟子の育成である。折しも六十歳で発心して出家を希望する剣道七段の人が、四月から光雲寺で修行する予定である。祖師方や先人たちの深恩に万分の一でも酬いるために、光雲寺の一同、微力を尽くしたいと願っている。皆様方のますますのご法愛をお願い申し上げます。

「温故知新」(月刊コラム【No.92】2011年2月)

わが国最初にして最大の哲学者であった西田幾多郎博士は、『万葉集』を連日のように読まれたという。若い頃にはその理由が分からなかったが、還暦の齢を幾春秋か越えたいまは、万葉人の心の琴線に触れて、その素直さ、誠実さに感銘を受けることが多い。まことに『万葉集』は中国屈指の古典である『詩経』にも比すべき気韻がある。そういえば、越後の良寛さんも万葉集や論語を愛読されたという。

いまひとつ、西田博士が『万葉集』と並んで、「日本人としての自覚を持つために読むべき書物」として推奨されたのが、硬骨の儒者・湯浅常山(宝永五年ー安永十年、1708-1781)の著した戦国時代逸話集である『常山紀談』である。或る方がだいぶ以前に月報か何かで、はっきりと「西田先生が言われた」と書いていたのを読んだ記憶がある。

なるほどこの『常山紀談』を読むと、戦国時代の武士たちが、死地に入っていながら、権謀術数の限りを尽くして、いかに機略縦横の働きをしたかがよく分かる。たとえば、かの真田幸村の父で戦国時代屈指の智将と称された真田昌幸が、北条勢をその智謀で破ったという一段がある。

真田家はもともと武田信玄に仕えていた。薩埵嶺(さったとうげ)の役の初戦で武田方は北条勢に大敗北を喫した。そこで武田信玄はこんどは真田昌幸に次回の先鋒を命じたところ、昌幸はわずか二十八騎の手勢を引き連れて勝ち誇っていき盛んな敵陣の偵察に出かけた。そして使いをもって兄の信綱を呼びよせたところ、信綱は一騎当千の兵、八百人あまりを従えてやってきた。

昌幸は前もって準備していた酒宴の席を開いたので、信綱は「弟よ、北条の大軍を前にして酒盛りをするなど一体どんなつもりか」といぶかったが、昌幸は「はかりごとは密なるをもって良しとしますので、いまは申せません。まずは気を静めて酒を飲んで下さい」といったので、信綱は「弟は今回はどんな策略を用いるつもりであろうか」と思いながら、酒宴に参加した。

昌幸は酒宴が始まると部下のひとりを呼びつけ、「急いでこの近辺で酒を沢山集めてきてくれ」と命じた。その部下がたくさんの酒を手に入れて戻ると、昌幸はたいへん喜び、酒樽のふたを全て打ち抜いて諸兵を呼び出し、「皆の者よ、とりわけ今日はあまりの寒さに耐えがたいではないか。だからこの酒を飲んでどうか寒さをしのいでくれ」といった。

さらにご飯を炊く大釜に味噌汁を作らせ、銘々にひしゃくを与えたので、一同の者が喜ぶこと限りがなかった。「大将からのお許しで、寒さをしのぐうれしさよ」と我先に酒を飲み、舞を舞い歌を歌う者まで現れるほどの盛り上がりであった。

兄の信綱は「こんなことで陣中で諸兵に酒を飲ませるなど、負けたも同然だ」と憤慨したが、昌幸は将兵たちに向かって、「どうだみんな、酒を飲んで寒さを忘れたか」と問いかけると、一同の者はみな「寒さが吹っ飛びました。大将のお情けにより、寒さがしのぎ、手足が温まりました」と大いに喜んだ。

そこで昌幸は指を指し、「みな、あれをみよ。薩埵嶺に配備された敵兵はさぞかし寒いことであろう。弓を引くにも鉄砲を撃つにも手はかじかみ、兵は前進も後退も不自由なはずだ。平地にいるお前たちでも寒さが激しいのに、山中の敵は酒で身体を温めていない。われらのこの勢いであの敵にひと攻撃くわえてみようと思うのだが、どうだろう」というと、みな、躍り上がらんばかりに勇み立ち、「これこそ我らの望むところ、酒を頂いた代わりに手柄を立てて、敵の首をさかなにして、いま一度酒宴を開こうではないか」といって、三千の兵が酒を勢いを借りて薩埵嶺に押し寄せた。

ちょうど雨あられが降ってひどい寒さであったが、真田勢はその寒さをものともせず、敵陣に押し寄せた。昌幸が「勝利品である鎧などの武具は好きなだけ手に入れたらよい。手柄を立てるのはこのときだ」と大声で呼びかけた。北条勢は寒さを避けて民家に入っていたので、つぎつぎに民家に火を放つと、非常に驚いた北条勢は我先にと退散したという。

以上が真田昌幸の機略縦横な逸話であるが、大部の『常山紀談』にはこのような興味深い逸話が満載されているのである。それによって戦国時代の武将たちの気韻を肌で感じ取れることができる。京大で政治哲学を専攻している或る新進気鋭の青年学者に『常山紀談』の一節を見せたところ、「全部を読みたいものです」と感想を述べてくれた。

『万葉集』にしろ、『常山紀談』にせよ、わが日本には比類なき精神的財宝がまだまだ眠っているというべきである。「温故知新」(故きを温〔たず〕ねて新しきを知る)の言葉をいま一度かみしめてみたいものである。

(なお、光雲寺では3月21日まで「京の冬の旅」の特別拝観を行っております。お時間の許されるお方はどうぞご来訪頂ければ幸いです)。

「旧年と新年と」(月刊コラム【No.91】2011年1月)

新年明けましておめでとうございます。皆様方は旧年中はどのように過ごされたでしょうか。もとより楽しいこと、悲しいこと、いろんな経験をされ、またいろんな出会いがあったことでしょう。小衲の場合に、夏頃に和歌山県に出向き、和尚方50名の前で自分の修行体験を話したことが印象に残っております。

中国唐代の名僧である潙山霊祐禅師に「両喚の話」という公案がある。潙山がある日、院主を喚んだ。やってきた院主に対して潙山は、「わしは院主を喚んだのに、お前がきてどうするのだ」と言い放った。院主はなんとも答えることができなかった。潙山はまた侍者に第一座(首座ともいう修行僧中の最上位の者)を呼び寄せさせた。やってきた第一座に対して潙山はまた、「わしは第一座を喚んだのに、お前がやってきてどうするのだ」というと、第一座もまた何とも答えることができなかったという。分別心にとらわれていると、二途に渉らせようとする潙山のはめ手に引っかかって、院主と自分、第一座と自分というきょろつきができてしまう。

師匠は何とかして弟子を鍛えようとしていろんな試練を与えるものである。小衲が和歌山で修行時代を回顧した折に思い浮かんだのは、この公案であった。小衲もこれと似た経験をしたことがあったからである。老師の隠侍(お世話係)をしていた或る日のこと、老師の花壇の雑草を公案三昧になって法悦に包まれながら引いていた時、ちょうどそばを通られた老師が、「庸さん、茶礼にわしの部屋まで来るように」といわれ、「本当は声をかけない方がいいんやけどな」とつけ加えられたので、小衲は、「せっかく工夫が乗っているのに茶礼などで中断させられるとは」と正直不満であった。

隠寮(老師の部屋)に伺うと役位さん(高位の雲衲)たちがすでにいて、老師は小衲に向かって、「何だ、お前は一体何しに来たのか」とかみつくように言われた。小衲はわれながら非常に冷静に、「はい、老師ご自身が喚ばれました」と答えると、役位さんの一人は大笑され、老師はそこでそれ以上の詰問は差し控えられた。その際、もし「わしは庸さんを喚んだのにどうしてお前がやってきたのか」と老師から問われたとしても、小衲は難なく答えることができたであろう。

もっとも、いまの小衲は定時に茶礼の時間を設けており、それが遅れると弟子に注意をしているが、果たして「工夫の邪魔をしないでほしいのに」と嘆く工夫三昧の弟子がいるかどうか。いれば嬉しい限りである。

先般、ある弟子の母親と電話で話をしていたら、「どうぞ厳しくご指導頂きますように」と懇願された。わが子にはなかなか厳しくなれないであろうし、また厳しい試練を経なければ人は錬磨されない。このお母さんは子息に対して本当の愛情を持っておられると感じた次第である。

また、昨年12月に初めてお目にかかったある大企業の社長さんはさすがに品格があり、3時間半の話し合いはなごやかで楽しい雰囲気のうちにあっという間に過ぎてしまった。聞けば、坐禅経験もあり、趣味は蕎麦の手打ちとのこと。前社長が急逝されて急遽社長になられて2年経たれたとのことであったが、「毎日を楽しみながらやっております」というお言葉に、孔子聖人の「楽しんでもって憂いを忘れ・・・」という言葉を思い出し、「わが意を得たり」の感を深くしたのである。

皆様方もどうか今年もよき出会いや楽しい時を過ごされますことをご祈念申し上げます。

(なお、来年のNHK大河ドラマの主人公の「お江様」が光雲寺を菩提寺として復興された東福門院様のご母堂様に当たられるということで、京都市観光協会主催の「京都冬の旅」の企画により、1月8日から3月21日まで、光雲寺では特別拝観がありますので、夜の土曜坐禅は光雲寺で如常に行いますが、第2、第4日曜日の坐禅は、南禅寺山内の南陽院で行います。どうぞよろしくお願い申し上げます)。

「東福門院念持仏」(月刊コラム【No.90】2010年12月)

10月のコラムで申し上げたように、光雲寺では12月5日まで京都市指定名勝庭園の修復記念の特別公開をしている。また次のNHK大河ドラマの主人公が光雲寺を菩提寺として再興された東福門院の御母堂に当たられる「お江様」であることから、来年1月8日から3月21日まで「京の冬の旅」の特別公開が予定されている。

そこでこの際に、東福門院が日夜線香と花を手向けておられたという念持仏の聖観音像厨子裏の朱書き文を読み下して現代語訳した次第である。読みが不確かで、意味のとりにくいところもあるが、ひとまずこれをもって今月のコラムにかえさせて頂きたいと思う。もしお気づきの点があれば、ご指摘を賜れば幸いである。

*   *   *

靈芝山安國光雲禪寺觀音大士記

慈悲以抜苦、喜捨以與樂、上同諸佛妙覺、下合衆生悲仰、其唯阿那婆婁吉低輪耶、故無華無裔凡流乎、眞教之域莫不恭敬于此尊焉、

吾師幼而信之、素患頭疼、明暦丁酉偶駐錫於武陵、時三十一歳、一夕夢詣一寶殿、宏壯嚴麗金碧燦爛而觀音大士儼然坐、師至心頂禮自覺氣血流暢、徹骨清涼、其慶快不可言也、迨醒宿恙頓愈、宛如雲霧忽散、尒後無此患、寛文甲辰奉

東福門院命營建於光雲禪刹殿堂像設、漸次成褫矣、領衆匤徒、講大雄之古規、挑大明法燈、於是

門院寄大悲像一軀 坐像左手持蓮、長六寸五分 以鎭山門、師迎拜瞻之、即是昔日所夢大士也、其相其好毫釐無差、不任感嘆處安于道場焉、原此尊像者、名工運慶之雕刻而妙容端嚴威靈勝絶也

門院恒備香華務伸供養、寛文元年春正月、瓊宮有鬱攸之變

門院親奉保護此像於御輿裏、以逃其厄、誠心至切亦如此矣、而今赴吾師之感光賁于此寺、可謂千載之奇遇也、蓋光雲者大士之微妙光明臺而

門院也吾師也同是大悲之所變者歟、傍有客云盛哉子之言、其旨可得而聞乎、曰夫大士之靈感如月之印於千江普應群有機、能以同事攝也

門院乃女中菩薩吾師乃僧中大士、所謂上同諸佛妙覺下合衆生悲仰者也、大士妙應、豈止三十二種云乎、達磨誌公總是觀音、乃至水鳥樹林草芥人畜悉是圓通三昧帝網重重主伴無盡、汝以爲如何、客唯唯而退、因爲之記云、



今茲延寶第七己未六月十五日伏値

門院小祥御忌侍女某等奉其遺金使作此寶龕於是

本師英中和尚命某作此記因書龕陰諭于後來者也

光雲外史 玄秀 謹撰



*   *   *



慈悲、以て苦を抜き、喜捨、以て楽を与え、上、諸仏の妙覚に同じうし、下、衆生の悲仰に合するは、其れ唯だ阿那婆婁吉低輪(あばろきてしゅばら)か。故に無華無裔の凡流、真教の域、此の尊を恭敬せざるということ莫し。

吾が師、幼くして之を信ず。素(もと)より頭疼(ずとう)を患う。明暦丁酉、偶(たまたま)錫を武陵に駐(とど)む、時に三十一歳なり。一夕、一宝殿に詣るを夢む。宏壮厳麗、金碧燦爛(さんらん)として、観音大士儼然として坐したもう。師、至心に頂礼して自ら気血の流暢(りゅうちょう)なるを覚え、骨に徹して清涼なり、其の慶快言うべからず。醒(さ)むるに迨(およ)んで宿恙(しゅくよう)の頓に愈(い)ゆること、宛(あた)かも雲霧の忽ち散ずるが如し。尒後(じご)此の患い無し。

寛文甲辰、東福門院を奉じて光雲禅刹に殿堂像設を営建することを命じ、漸次成褫(じょうち)す。衆を領じ徒を匤(ただ)して、大雄の古規を講じ、大明(だいみん)の法灯を挑(かか)ぐ。是(ここ)に於て

門院、大悲の像一軀(坐像、左手に蓮を持す、長きこと六寸五分)を寄せて、以て山門を鎭(しず)む。師、迎拝して之れを瞻(み)れば、即ち是れ昔日夢む所の大士なり。其の相、其の好(ごう)、毫釐(ごうり)も差無し。感嘆に任(た)えず、処を道場に安んず。原(たず)ぬるに、此の尊像は、名工・運慶の雕刻にして妙容端厳、威霊勝絶なり。

門院、恒に香華(こうげ)を備え、務めて供養を伸ぶ。寛文元年春正月、瓊宮(けいきゅう)、鬱攸(うつゆう)の変有り。門院、親しく此の像を御輿(みこし)の裏(うち)に保護し奉り、以て其の厄いを逃る。誠心至切なること、亦た此の如し。而今(いま)、吾が師の感に赴き、此の寺に光賁(こうふん)す。謂(いっ)つべし、千載の奇遇なりと。蓋(けだ)し光雲は大士の微妙光明台にして、門院也(ま)た吾が師也た同じく是れ大悲の変ずる所のものか。

傍らに客有りて云く、盛んなる哉(かな)、子の言、其の旨、得て聞くべきか。曰く、夫れ大士の霊感は月の千江に印するが如く、普く群有の機に応じ、能く同事を以て摂(たす)けるなり。

門院は乃ち女中の菩薩、吾が師は乃ち僧中の大士なり。所謂、上、諸仏の妙覚に同じうし、下、衆生の悲仰に合するものなり。大士の妙応、豈(あ)に三十二種に止まると云わんや。達磨・誌公、総に是れ観音なり、乃至水鳥樹林草芥人畜、悉く是れ円通三昧・帝網重重・主伴無尽、汝以て如何と為す。客、唯唯として退く。因て之の記を為して云く、

今茲(ことし)延宝第七己未六月十五日、伏して

門院小祥の御忌(ぎょき)に値(あ)い、侍女某等、其の遺金を奉じて此の宝龕(ほうがん)を作らしむ。是(ここ)に於て、

本師・英中和尚、某に命じて此の記を作り、龕陰に書するに因って後来を諭(さと)すものなり。

光雲外史 玄秀 謹撰

(註)

東福門院=慶長十二年(1607)ー延宝六年(1687)六月十五日崩御、世寿七十二歳。

英中玄賢=寛永四年(1627)ー元禄八年(1695)八月二十三日遷化、世寿六十九歳。

*   *   *



東福門院念持仏厨子裏朱書文 訳文



慈悲をもって苦しみを抜き、喜捨をもって楽しみを与え、上は諸仏の妙なる覚りと同じで、下は迷える衆生の助けを求める悲痛な願いに応じるのが、観音菩薩というものであろうか。都と地方のいずれの一般民衆も、真の教えが広まった地域では、この尊い観音菩薩を謹み敬わないものはない。

私の師匠(光雲寺中興・英中玄賢禅師)は幼い頃から観音を信仰された。もともと頭痛の持病があったのだが、明暦三年(1657)、たまたま江戸のある修業道場に掛錫していたおり、ちょうど三十一歳のときであった。ある晩、ある仏殿にお参りした夢を見た。その仏殿は、壮麗で黄金と碧玉に飾られて燦爛として輝いており、その中にはご本尊の観音菩薩が厳然として坐しておられた。

私の師匠が、心を込めて五体投地の最敬礼をしたところ、気と血流の流れがよくなったのを感じ、身心の底から清涼な境地になられた。その心地よい悦びというものは言葉では表現できないほどであった。眼が覚めるにいたって、長年の持病が一挙に快癒したが、それはちょうど雲霧がたちまちのうちに消え去ってしまったようなものであった。それ以後は、師匠はこの頭痛を患うことはなくなった。

寛文四年(1644)、東福門院様がご自分の菩提寺として光雲寺を再興されるにあたり、仏殿などの諸堂や仏像などを造営することを私の師匠は命じて、次第に出来上がった。道場の規矩を定め、五十人の修行する雲水たちを導き、唐代の名僧百丈懐海禅師の作成された清規を提唱し、大明国師・無関普門禅師(南禅寺・光雲寺開山)の挙揚された仏法をかかげられた。ここにおいて、東福門院様は、大悲の菩薩である聖観音像一体(坐像、左手に蓮を持つ、六尺五寸の高さ)を寄進されて、光雲寺の安泰を祈願された。

私の師匠が恭しくこの観音像をお迎えして拝して見れば、まさにその昔、自分が夢の中で見たとおりの観音菩薩像であった。その容貌には、いささかの違いもなかった。非常に感激してこのお像を道場に安置した。聞くところによると、この尊い御像は名工・運慶の彫刻で、妙なる容姿に厳かな面持ちをされ、その霊験は格別にぬきんでている。

東福門院様は、女院御所において、いつもお香とお花を供えられ、心を込めてこの観音様を供養された。寛文元年(1661)、ある正月、美しい玉で飾られた御所が火災に遭遇したが、東福門院様は、自らこのお像を御輿のうちに保護され、火災の災いを逃れられた。東福門院様のこの観音像に対する至誠心の切なることは、ちょうどこの通りである。

そうして今、私の師匠に感応道交してこの光雲寺にこの観音像がやってこられた。これは、めったにありえないほどの思いがけない巡り会いであった。まさに光雲寺は観音菩薩の妙なる光明の台であり、東福門院様も私の師匠も、同じように観音菩薩の再来といえるのではないだろうか。

傍らに客がいて言うには、「あなたは非常に立派なことを言われるが、その真意を今しばらく詳しくお聞きしたく思います」と。そこで私が言った、「観音菩薩の霊感は、月が数限りない川面に映るように、あまねく色々な衆生の機根に応じて、同一のことをもって助けるものである。東福門院様こそは女性の中の観音菩薩、私の師匠こそは僧の中の観音菩薩であるといってよい。先に述べた、上は諸仏の妙なる覚りと同じで、下は迷える衆生の助けを求める悲痛な願いに応じるものにほかならない。

観音菩薩が衆生を済度する絶妙の対応は、一般に言われるように観音菩薩が衆生済度のために行う三十二応身にとどまる、というどころではあるまい。達磨大師や宝誌和尚(梁の武帝の側近、418ー514)も、いずれも観音菩薩の再来である。さらには、水鳥や草木や人間や動物にいたるまで、すべて円通三昧・帝網重重・主伴無尽である。あなたはこの私の説明を聞いてどう思われるか」。

客は納得して引き下がった。そこでこの顛末を記すものである。

今年、延宝七年(1679)六月十五日、東福門院様の小祥の御忌(一周忌)に遇い、侍女らが東福門院様の遺金をあてて、この観音菩薩の御厨子を作らせた。そこで、私の師匠の英中和尚は、私に命じてこの記を作り、御厨子の裏に書くことによって、後の世の人々に告げ知らせるものである。

光雲寺書記 玄秀 謹んで撰す

(註)

円通三昧=円通は仏菩薩の悟りの境界で性体周遍なるを円といい、妙用なるを通という。

帝網重重主伴無尽=帝釈天の、網羅座の珠と珠とが相映じて、互いに主となり伴となって限りのないのをいう。華厳の法界観の意。

「人人具足、箇箇円成」(月刊コラム【No.89】2010年11月)

光雲寺では毎月二回の月例坐禅会(ただし今年の11月は14日の第二日曜日のみ)と毎週の土曜夜坐禅以外にも、「南禅寺禅センター」という看板を掲げて、大本山南禅寺との連携のもと、多くの人々の坐禅研修を受け容れている。多い月には二千人以上の人が来ることもあり、来訪者の中には、最先端医学研究者の集団なども稀ではない。また坐禅研修を通じて地方の若者たちのお見合いを企画するという斬新な試みをしたグループもある。

その中でも、最近経験した七人の青年たちの坐禅研修は、長年にわたり坐禅希望者に接してきた小衲にとっても、初めての異色な体験となった。少人数の参加者の場合には弟子たちに任すのが普通なのであるが、その時には巡り合わせで小衲が指導することになっていた。

彼らと出会った弟子のひとりは、「頭の髪の毛を茶髪にして、どうもバンドなどをやっているグループのように見えますが、どうされますか」と尋ねた。茶髪おおいに結構、もとより異論のあろうはずがない。ということで、仏殿での坐禅指導の段になったわけであるが、どうも音楽のバンドをやっているような雰囲気の青年たちではない。そこで職業を尋ねると、即答するという風ではなかったが、ひとりが「ホストです」と応じた。

ホストという職業は女性のお酒と話しの相手をするのが仕事と聞いている。以前に偶然見たテレビの番組で、ナンバーワンの座を得るべく、体調の不調を無理をしてアルコールを飲んで、それこそ自分の命を削って勤務している青年のことが採り上げられていた。一見華やかな職業のように見えるが、実際はいろいろと心の安らぎを必要とするような過酷な現実に直面しているであろうことは、想像に難くない。

さて、こうして坐禅を始めて見ると、みんななかなか真剣に坐るではないか。線香一本の時間の坐禅が終わり、抽解と呼ばれる小休止があるが、彼らのうち誰ひとりとして脚を解くことなく、そのまま微動だにせずに熱心に坐り続けている。十五年以上続いている月例坐禅会ではこうしたことは普通ではあるが、初めての坐禅研修グループが、全員組んだ脚を解かなかったという例は経験したことがない。以前、東大生がハーバード大の学生を連れて三十人ほどでやって来たことがあるが、その時よりも真剣である。これには一驚せざるを得なかった。

法話の時間が始まると、これまたこちらを見すえてうなずきながら、実に真剣に聴いている。小衲は、「皆さんたちは女性を相手にするお仕事をしておられると思いますが、私のところへも大勢の女性たちが坐禅や相談に見えられたりします。その場合には、打算など考えずに、本当に親身になってその人のためにお話をし、アドヴァイスをします。そうすると、どの人も例外なく明るくなり笑顔になって帰って行かれます。どうせなら人を幸せにし、楽しくさせる仕事をしませんか。皆さんたちもきっと真心から対応してあげられれば、お客の女性たちだけではなく、自分自身が楽しくなってくるはずです」という内容の話をした。

法話のあとで特別に、東福門院の念持仏の聖観音像を開帳して見せてあげたが、全員感激した面持ちで下山していった。当方もまた、なんともいえぬ一陣の薫風を経験したような心地良さを感じた。人は職業などで偏見を持ってはならないという教訓を得た思いがする。まことに、「人人具足、箇箇円成」(にんにんぐそく、ここえんじょう)(どの人も例外なく仏心仏性を具えて円満成就した身である)ということを実感した一日であった。

「秋の特別公開」(月刊コラム【No.88】2010年10月)

七代目小川治兵衛(植治)作の京都市指定の名勝庭園である光雲寺の中庭は、昨年より二年がかりで、池の護岸工事・排水路・築山・植栽・杉苔植えなどを行って修復を試みてきたが、ようやくひとまずめどがつき、来たる11月20日(土)から12月5日(日)まで、「秋の特別公開」を開催することとなった。京都市と京都市観光協会との協賛であり、JRの各駅や京都の主要ホテルに張り出される予定だということである。

金戒光明寺(黒谷さん)と同時公開となるが、京都市指定の名勝庭園でも、一部の庭園改修はこれまであったものの、光雲寺の場合のように全面的改修をした例は極めて稀であるということで、京都市観光協会との話し合いの中で紅葉の時節の公開を決定した次第である。江戸時代には光雲寺の加藤清正公ゆかりの手水鉢を見てから黒谷さんの方に参詣するという人が多かったという記録があるので、何か今回の同時公開には奇しき因縁を感じるのである。

もっか、詳細な「庭園改修報告書」を京都市文化財保護課の専門職の方に依頼して作成して頂いているところであり、池の護岸修復や庭園改修の過程のパネル展示も予定している。拝観に見えられた方々には、通常の拝観だけではなく、庭園の改修過程をもご覧頂き、日頃の喧噪を離れてゆったりとした安らぎのひとときをお過ごし頂く機会を提供できたらと願っている。

中庭の本格的な整備をする前に、これも手つかずになっていた前庭の池の整備と杉苔植えと疎水からの導水設備工事とを、住職を初め光雲寺のメンバー総出で造園業者と一緒に行い、すでに完了している。池は積年の泥をさらえることから初め、水漏れを防ぎ、また石を敷き詰めて錦鯉が動いても水が濁らないように工夫した。取り出したすさまじい量の泥は栄養十分なので、畑の土に利用したところ、作物の出来映えがよくなったのは嬉しいことであった。

池の護岸工事はまず詳細な調査から始め、泥ざらえをして、護岸の石をひとつひとつ丁寧に復元しながら設置する護岸工事を終えたあとで、版築と呼ばれる専門的工法で聚楽の土を階段状に突き固めて土が雨などで流出しないようにした上で、苔植えを行ったのである。この間、造園業者さんは実に根気強く取り組んで頂いた。特に護岸の石の設置は周りの土を突き固めながらする必要があり、傍らで見ていても難しい施工であることが感じられた。この工事を引率する庭師さんはそのために体重が10キロ以上減ったということである。

苔を植え、園路ができて砂利石が敷き詰められると、ますます庭の風情が好くなった。これからもう少し杉苔を植え、竹垣を作る予定であるが、どうか大勢の方々に新たになった光雲寺の庭園をご覧頂きたいものである。

なお、11月の月例坐禅会はこの特別公開のため第4日曜日の28日は休みとなり、14日のみとなります。

「ガンとの闘病」(月刊コラム【No.87】2010年9月)

今月はいささかこれまでとは相違したテーマについてお話ししたい。「ガンとの闘病」といっても、小衲自身が現在罹患しているわけではないが、昨年以来、何人もの親しい知人や、知人に関わりのある人たちが、ガンに襲われた。中には治療空しく亡くなった方々もいる。相国寺僧堂の師家をしていた小衲の実弟も、二年数ヶ月前に前立腺ガンで遷化した。

皆さん方の回りにもきっと何人かのガンと闘病中の知り合いがおられるはずである。それほどこの病はわれわれの身近になってきており、自分がいつガンになっても不思議ではない。ガンとの闘いは情報戦だといわれている。手術・放射線・抗がん剤といういわゆる三大療法にのみ頼っていては、かえって免疫力の低下を招き、助からないことになる。

弟の場合、大阪の実家近くにある病院の人間ドックを毎年のように受けていたのだが、一度小衲が受けている「日赤のドックを受けては」と勧め、その結果、オプションの前立腺ガン腫瘍マーカーの検査で六百という異常に高い数値が出て、発覚したのである(四以上あるとガンの疑いで、精密検査の必要がある)。以前から患部の異常を感じていたとのことであるが、先の病院では腫瘍マーカーの検査がなく、不調を訴えたのだが、担当医は「別に異常はありません」と断言していたという。まことに憤りを通り越して痛恨の極みであった。

それからは、京都にある大学病院へ通いホルモン療法を受けたりしながら、食事療法など色々と試みたのであるが、二年で効かなくなり、ついにはかなり強い抗がん剤を十三クールも投与するに到ったことをあとになって知った。抗がん剤の副作用に関しては、以前から弟とはその危険性について再三話しあっていたのではあるが、担当医の勧めで受け容れることになったわけで、「この抗がん剤がこれほどひどい副作用があるとは分からなかった。こんなきつい薬は決して使うべきではない。このことを君はほかの人たちにどうか伝えてほしい」と、弟は辛い体調のなか、介護していた人に依頼したという。

西洋医学は病根を縮小させることに急なあまり、身体全体のことを顧慮することが少ないという問題点はつとに指摘されるところであるが、明らかに抗がん剤の副作用が免疫力低下を招き、遷化を早める要因になったと思われるのである。これに対して、自然療法や代替療法を選択した人たちは、末期ガンの人でも実に多くの人がガンを克服しているのである(東城百合子著『自然療法が体を変える』、船瀬俊介著『病院に行かずに治すガン療法』、参照)。

安保徹氏、船瀬俊介氏、東城百合子氏などの著書を読むと、ガンは決して不治の病ではなく、これまでのライフスタイルを根本から変え、肉食を避けて玄米菜食にし、ガンに対して恐怖を持たずに「必ず治る」と確信して、笑顔で適度に運動をして過ごせば(笑えば、ガンを攻撃するNK細胞が六倍も増える)、自然治癒に至るという。「ガンがそんなに簡単に治るなら医者は苦労しない」と小衲にいわれた医師もいたが、それは彼らが三大療法に固執して、「生活」と「食事」と「運動」と「心」を変えるという自然療法の本質や意義を見ようとしないがためである。

自然療法としては、ビワの葉温灸・里芋パスタ・コンニャクの温湿布などがよく知られている。温泉や温熱治療をして身体を芯から温めるのも、熱に弱いガンに対して効果がある。色んな体験談を読めば読むほど、末期ガンの人でも奇跡的な治癒を遂げている人が数多くいることが分かってくる。

名古屋市にはガン患者の集まりである「いずみの会」があり、その生存率は何と九五%だという。名古屋大学の医学部も注目して追跡調査中であるという。これを各地のガンセンターや大学病院の生存率と比較してみればよい。三大療法一辺倒の医療機関の生存率はおそらく驚くほど低いと思われる。末期ガンから生還した体験者たちこそ、一番の良医というべきであり、「いずみの会」ではそうした体験者から色々アドバイスを受けることができるという。それがどれほどガン患者にとって免疫力を向上させることになるであろうか。

しかも、こうした自然の民間療法は安価である。高額の医療費を要求する先進医療や高価な薬を買わせようとする医者には要注意である。小衲もガン保険には入ろうといったんは考えたが、以上のような実情を知るに及んで、その愚を悟るに至った。

とはいえ、弟を含め、こうした情報を十分に集めきれなかったがために、図らずも十分にガンとの闘いのお力になることができなかった方々が、小衲の回りにはおられる。衷心より深くお詫び申し上げると共に、ご冥福をお祈り申し上げます。

「跼天蹐地」(月刊コラム【No.86】2010年7月)

表題は、中国の五経のひとつに数えられる『詩経』小雅という、周の宮廷の賀歌を収録した篇にある「正月」と題する詩中の句である。「天、けだし高しといえども、あえて跼(せぐぐま)らずんばあらず。地、厚しといえども、あえて蹐(ぬきあし)せずんばあらず」(天が高くても遠慮がちに身をかがめ、地が厚くても遠慮がちに抜き足して歩かねばならぬ)という、戦々兢々としてわが身に何か落ち度がないかを恐れ慎むさまのことである。

現代人の中にはこういう言葉を聞くと一笑に付する人もあるかも知れないが、われわれ禅の修行で鍛えられ苦労したものにとっては、まことに有難く、身に沁みる言葉である。東京の白山道場の名僧・南隠老師は蚊帳を吊るされる際に、いつもご自分の顔につかんがばかりに低くされたが、それを怪訝(けげん)に思って「高く釣った方が気持ちが良いではありませんか」と尋ねた弟子に対して、南隠老師は上述の一句を引いて、「そんな了簡(りょうけん)ではいけぬ」と戒められたという話を読むと、名僧の行履(あんり)の気高さに身の引き締まる思いがする。

さて、先月のコラムは「作務の法悦」と題していたが、どうも弟子たちには今ひとつよく浸透していないようで、大いに反省することがあった。「植治(七代目小川治兵衛)の庭」を復元するべく、庭師さんたちが入って中庭の築山や苔張りをしていた時のことである。梅雨に入ってからますます雑草が伸びて除草の必要が増大したが、植えたばかりの苔の中に生える草を除くには、細心の注意がなければ苔を傷めることになりかねない。そこで、小衲が一人で中庭の除草をし、他の五、六人は境内内外の掃き掃除のあと、墓地の除草に専念してもらった。

四、五日たって中庭の除草がひと通り終わったので、墓地の方ももうほとんど終わっているだろうと思い、出かけて見ると、何と、「一体どこをやったのか」と思われるほど、あちこち雑草だらけでさっぱりできていないではないか。さっそく厳しく訓戒し、率先垂範して三日でやり終えたのである.

禅の専門道場では、「働きがある」かどうかということがよくいわれる。不器用な小衲などは、最初の道場では、なかなか働きができずに苦労し怒られもしたのであるが、次の道場では、自分自身の工夫と法悦も格段に進み、それに比例して自分なりに働きが自然についてきたという経験がある。

よい働きができるためには、その場所全体の状況を見て、どこからどういう手順で行えばよいかを瞬時に判断できなければならない。全員が思い思いのところを漫然と除草しているようでは、たいした成果が上がらないのも無理からぬことである。毎回注意しているのではあるが、それがまだ弟子たちに身についていないのは小衲の指導の不徹底である。

「戦々兢々」の配慮が必要なのは、たとえば人のお宅に訪問する時などでも同じことである。約束の時間に遅れることはあってはならないことであるが、さりとてあまり早く着くのも迷惑なことである。どんぴしゃりの時間が理想的であるが、そうはいかない場合もある。時間が遅れたり早まったりする時には、当然のことながら相手方に電話して了承を得るのが常識であるが、中には非常識と思えるほど約束を違える人も稀にいるものである。

少し前のことであるが、以前に施工をお願いした工務店の支店長が工事責任者を伴ってこちらの問題の箇所を見に来るという約束をして、当日の二時間前に、「では午後四時に二人で参ります」という電話があった。冬場のこととて、当方では三十分前には暖房を入れ、十分前には線香を立て、抹茶と菓子を準備して待っていたのであるが、いつまで待っても一向に来る気配がない。結局、その日は何の連絡もないままであった。こんな無礼なことはない。

小衲はそれで彼を見限って、「これ以後は出入り無用」の伝言を携帯電話の留守電に入れておいた。翌日早朝に彼はやってきて玄関に背広のまま土下座して無礼を謝したが、小衲はけんもほろろに応対して決して許すことはなかった。人によれば、このような応対振りはあまりにも非情に見えるであろうが、約束を守らない人物と信頼関係を築けという方が無理である。特に禅寺では時間厳守が厳格で、そうした現場を見聞したことが小衲には一再ならずある。連絡なしに十五分遅刻した或る本山の管長が、先輩格の僧堂の老師から痛烈な一喝を喰らった場面は、いまでも眼に焼きついている。

ただこの支店長の場合、救いなのは、「何というひどい仕打ちだ」などと当方の対応を恨むより、自らの非を悟って、それ以来連日、出勤前の早朝にやってきては郵便ポストに挨拶代わりの名刺を入れ続けたことである。彼にとってこの苦い経験が良薬としてこれからの人生の糧になることを願ってやまない。

それにしても、われわれはいかなる順風満帆・得意絶頂のときでも、戦々兢々たる「跼天蹐地」の念を忘却せぬように心がける必要があるであろう。「天、けだし高しといえども、あえて跼(せぐぐま)らずんばあらず。地、厚しといえども、あえて蹐(ぬきあし)せずんばあらず」である。

「作務の法悦」(月刊コラム【No.85】2010年6月)

春寒の季節も過ぎたというのに、今年は天候不順で先月末には最低気温が十度をわずか超えたくらいの日が続いた。さらに追い打ちをかけるように、雨の日が多く、畑の野菜の成長も芳しくない。農家の方々はさぞかし大変であろう。それでも雨のお蔭で、昨年植えたばかりの前庭のスギゴケが一面に芽を吹いて新緑の鮮やかな色を見せ、泥ざらえをし敷石を入れて改修した池の水が雨水で浄化され、錦鯉が気持ちよさそうに泳いでいる様は、見る人の心を和ませてくれる悦ばしい光景である。

この時期にぜひともやらねばならぬ、庭の十数本ある松のみどり摘(つ)みは雨で中断しながらもようやく終了したが、今度は墓地・前庭・中庭・畑の草引きが立て続けに待ち構えている。まことに中国唐代の名僧・百丈懐海(えかい)禅師が言われたように、「一日作(な)さざれば一日食らわず」の実践がなければ、清浄の伽藍を維持するお寺の生活はやって行けるものではない。しかし、みどり摘みにせよ草引きにせよ、一心不乱に打ち込んでやっていると、朝のお粥の知らせで中断するのが惜しいほどに楽しくなってくるから妙である。

松のみどり摘みや古葉摘みは松の一番高い部分からやっていくのが常識である。でなければ、上から落としたものが下の枝に引っかかるので、下を先にしていると今一度振るい落とすという余計な手間がかかるからである。光雲寺では一本の松を六、七人ほどでやるのであるが、いつも頂上の危険な箇所での仕事は住職である小衲の役目で、弟子たちや他の者には決してさせることはない。それは少しでも気を抜くと命にかかわる危険な作業であるからである。

知り合いの中には「そんな危険なことを住職がするなどもってのほかで、庭師さんに任せればよい」と忠告をしてくれる人もあるが、庭師さんにはまた別に、専門家でなければできない箇所をやって頂いており、我々は自分たちでもでき、手間もかかる松をするのである。実は三年前にこの光雲寺に住職として入山してしばらくは、経費節約のためにほとんどの庭仕事を自分たちでやっていたのであるが、京都市指定の名勝庭園を修復するに際して、京都市や専門家の先生からの推薦を受けたすぐれた庭師さんの仕事ぶりを見てからというもの、やはりその道のプロにやってもらった方がよいと反省したのである。

専門の庭師さんに教わりつつ一緒にするというのが、一番の理想であるが、この光雲寺は「南禅寺禅センター」として多くの人々の坐禅研修を受け容れており、多い月には1700人を超えることがあるので、多忙のためなかなか毎回理想通りには行かないことが少し残念である。

さて、こうして松のみどり摘みを済ましたある朝、仕事に来られた庭師さんに、「みどり摘みをしていると朝ご飯の知らせが残念で、あとせめて一時間でも続行したいという気持ちになります」と苦笑しながら話しかけると、その熟練した庭師さんは、「いや、そういうお気持ちだと危険が少なくなります」と真顔で応(こた)えてくれたので、なるほどと感じるところがあった。

或る造園業者のところに勤めていた若い庭師が光雲寺に先頃まで下宿していた。彼の仕事はほとんど休みももらえないほどの非常に過酷な日々が続くので、みんなで心配していたところ、高い木に登っていた職人で木から亡くなった者がその業者のところで二人出たということである。いくら仕事をあちこちから依頼されるからとは言え、労働基準法からは到底認められないほどの長時間を極端な低賃金で働かせるとは、従業員を取り替え可能な歯車のようにしか考えていない浅はかな会社であるという他はない。

食品業界でもそういう話はよく見聞するところである。不況であるからとはいえ、雇われている人を大切にしない会社は早晩衰退するのは目に見えている。利害得失に拘泥して一喜一憂していては心が乱れて足元がおろそかになる。法悦どころか不満が生じて我見が増長し、他人(ひと)のことを思いやる余裕もなくなり、充実した日々が送れなくなる。

禅寺での生活はそうではない。作務にせよ坐禅にせよ、衣食(えじき)のためにするのではなく、利害得失のみならず一切の雑念を放下(ほうげ)し成り切って楽しみながらするので、えもいえぬ法悦が醸成されてくるのである。

このことで思い起こすのは、妙心寺僧堂から鎌倉の建長寺僧堂に転錫して寸暇を惜しんで工夫三昧だったころの思い出である。あるとき雲衲三人で畑の畝作りをしたことがある。小衲は坐禅のみならず作務の最中もなるだけ公案工夫に心がけていたので、何をしても楽しい思いがした。その折りも畝作りを乗りに乗って一番手早くしたので、それを横で見ていた高単の先輩雲水が、「園さん(建長寺ではこう呼ばれた)、まるで百姓の子みたいだな」と思わずいってくれたが、その言葉を聞いて、嬉しかったこと嬉しかったこと。田舎とは無縁の都会(大阪)育ちで不器用な小衲がそのように見られたことが、忘れることのできぬ嬉しい思い出として心に焼きついているのである。

小衲は西洋の哲学を専攻していたが、「画餅、飢えを充たさず」という如く、単なる理論的詮索に飽きたらず、足実地を踏む実参実究の道である禅の修行をするべく出家した。この道に入ることがなければ、かかる法悦を経験することは非常に難しかったであろう。今の青年たちも禅修行がもたらすこの法悦の醍醐味を味わい尽くして、充実した楽しい人生を送って頂きたいものである。

「利他行」(月刊コラム【No.84】2010年5月)

先月初めのことであるが、佐賀県の唐津市で、魚釣りをしていた四歳の弟が足を滑らせて海中に落ちたのを救おうとして、十歳の兄が海に飛び込んだが、救助できずに自分が溺死してしまったという、何とも切ない出来事があった。弟は別の男性に救助されたが、この十歳の兄は弟を常日ごろかわいがり、弟の方も兄にとてもなついて、あとを絶えず追いかけていたという。

小衲が感心したのは、その兄が学校で、「どんな人間になりたいか」という設問に対して、「人のためにお役に立つ人間になりたい」という希望を述べていたことである。子供の道徳教育に親が比較的熱心だった戦前ならいざ知らず、いまどきの十歳児がこのような気高い見識を持っているとは驚嘆したのである。わが身の同時期を思い起こすと、恥ずかしながら格段の違いがある。それにしてもこのような志をもつ子がなくなってしまったのはまことに残念なことであった。

人のためにするというのは「利他行」と呼ばれる。利他行の人は潤いがあるので、「徳は孤ならず」で、人が集まってくる。これに対して、自分中心の生き方に固執して他人のことを何ら思いやる余裕がなければ、人も離れていくであろう。利他行を実践する人には必ず心に悦びが生まれ、それが自分のためにもなり得るのでないだろうか。

これは或る病院の院長先生からお聞きした話であるが、ガン患者の人がひとのために行動を起こせば、免疫力が増加してガンが縮小したり消滅する場合があるということである。また別の或る先生は、宗教に対する敬虔な心持ちにより難病を好転させることも可能であると説かれた。

江戸時代に創業され今に続く大企業を築いた商家の家訓を見ると、共通しているのはいずれも「顧客本意」の理念を掲げていることである。むやみに暴利をむさぼることなく、誠実な商売をして顧客に喜んで頂き、それが結果的には自分の利益になるという仕方で商売を発展させていったのである。

たとえば、高島屋を創業した飯田家の家訓には、「もって客を欺かず、薄利に甘んじ、客を利し、あわせて我も利し、いわゆる自利利他は古来の家風なり」とうたわれている。まことに商売の極意はここにあるであろう。京セラの稲盛会長は「利他行」をもって自己の経営理念としておられるということを聞いたことがあるが、もっともなことである。

仏法では、道元禅師の有名な「愚かなる我は仏にならずとも、人を渡す、僧の身なれば」という道歌に歌われたような、さらに高邁な「自未得度先度他」の教えがある。世の多くの人たちが日々苦しんでおられるのは、自分本位の生き方から脱却できないがためである。

徳川家康公は孫の竹千代君(のちの三代将軍となる家光公)に対して。「なんじは天下の主(あるじ)ぞ、天下は慈悲ぞ」と肝心かなめの一句を言われたという。世の人々が無縁の人に対しても思いやりや慈悲をもって対してわが身の法悦の醍醐味を味わうとともに、潤いのある世の中が到来すればと願うものである。

Powered by Wordpress