「近世京都の宮廷文化展」2016年10月【No.160】

今月のコラムは「近世京都の宮廷文化」展のご紹介をしようと思います。

京都は延暦十三年(794)に桓武天皇が都として定められて以来、宮廷を中心として幾多の雅びな文化を育んで参りました。慶応三年(1867)十月十四日の十五代将軍・徳川慶喜公の二条城における大政奉還により、江戸幕府は統治権を京都の朝廷に返上してここに明治新政府が誕生したのです。若き明治天皇は江戸で直接政治をみて、関東の人心を安んずるために江戸を「東京」として行幸・滞在され、時の太政官(政府)も移動となったのですが、時の天皇が正式に都の移転を宣言されるいわゆる「遷都の詔勅」は発布されてはおらず、「行幸」である以上、京都の人々は「天皇はまた還幸される(京都に戻ってこられる)」と思い込んでいたようです。しかし天皇はそののちも京都には還幸されることなく、明治十年(1877)に京都御所の保存を命じられ、それ以降は現在に至るまで日本の首都は東京と考えられております。

京都で花開いた宮廷文化の粋を結集した最高の晴れ舞台が、天皇の大礼(即位式と大嘗祭)であることはいうを俟たないことです。明治天皇の時には、慶応二年十二月に孝明天皇が崩御され、翌年の正月に睦仁親王(明治天皇)が践祚され、践祚の後に皇位継承を知らしめんがための即位式は慶応四年八月二十七日に京都御所の紫宸殿にて行われ、大嘗祭(即位の礼の後で行われる新嘗祭のこと)明治四年十一月十七日に東京で行われました。

明治維新により東京遷都があり、天皇が国家の最高指導者に位置づけられてからは、旧皇室典範並びに登極令の制定により、天皇の践祚・即位に関する一連の儀式の様式が定められ、御大礼(即位の礼)は京都で行う旨が規定されていたため、大正天皇・昭和天皇の場合には、京都御所で平安様式により執り行われました。昭和二十二年制定の現行の皇室典範では場所については規定されておらず、平成の即位の礼・大嘗祭は皇居で行われました。このために従来は「紫宸殿の儀」と称していた儀式が「正殿の儀」と呼ばれました。

このたびの「近世京都の宮廷文化」展は皇學館大学・佐川記念神道博物館所蔵の小原家文庫をはじめ、大切に伝えられてきました江戸時代以来の大礼(即位式・大嘗祭)に関する貴重な史料に加えて、拙寺である光雲寺所蔵の東福門院(後水尾天皇の中宮・徳川二代将軍秀忠公の姫君)ゆかりの品々が展示されております。

会場は京都の伏見区にある京セラ本社の一階会場と、そこから徒歩五分の至近距離にある城南宮との二会場に分かれて展示されております。平安京の初めに都の安寧と守護を祈願して創建された城南宮は「曲水の宴」が催されることでも有名ですが、「方除(ほうよけ)の大社」と呼ばれ、方位の障りや家相の心配がないように祈願する人がお参りされるということです。

両会場とも貴重な展示品の数々が集められております。このような素晴らしい展覧会が可能となりましたのも、京都産業大学名誉教授であられる所功先生のご尽力によるところが多いと思われます。光雲寺に東福門院御像を初めとするゆかりの品々の出展を依頼してこられたのも先生です。どうか多くの方々がこの重要な展覧会にご来訪下さるようにお願い申し上げます(なお、入場料は両会場とも無料で、駐車場も完備されております。)

「呼吸法と禅定」2016年9月【No.159】

坐禅修行にとって「呼吸法」が重要な意味を持つことは、いやしくも少し坐禅を経験した人ならば、誰しも知っていることだと思います。しかし、では正しい「呼吸法」を実践して真箇の禅定に入った人が多くいるのかと言えば、長年、専門道場で修行したり坐禅会を主宰したりしている経験からありていに申せば、なかなか本当に禅定を体験した人は少ないように見受けられます。

その原因は、恐らくはその人が惰性で坐禅をするだけで、肝心の呼吸法を真剣に修していないからではないでしょうか。もとよりどの人も無意識の間に呼吸はしているのですが、それに意識的に集中することで「呼吸法」というものが成り立ちます。そして呼吸に対するこの集中があるかないかで雲泥の差が生じます。目の色を変えるほど真剣に呼吸に集中すれば、禅定に入ることは実はそれほど難しいことではありません。真剣に坐禅工夫している人には、何か犯しがたい威厳や風格が見られるはずです。

釈尊が行じておられた「呼吸法」は、「安那般那(あなはな)」、すなわち出入の息に心を集中して禅定に入る観法である「入出息念定」(アナパーナ・サチ・サマーディー)と呼ばれるものです。坐禅を組んで、脊梁骨を伸ばし、肩の力を抜いて臍下丹田に気を充実させ、「調身」ができれば、次に深い呼吸をしながらそれにひたすら意識を集中します。この「調息」ができれば、おのずから「調心」が可能となります。

仏教が中国に入ってきた二世紀後半に安世高という人により翻訳された『大安般守意経』という、「入出息念定」を論じた経典がありますが、この教えの通りに息を調えることに集中していけば、通常の意識分別による「われ」や「自分」という思い込みがいつの間にか消失してしまいます。そうして天地宇宙につながる大いなる命が実は私たちを貫いている本来の有り方であることをしみじみと味わうことができるようになります。

ただその際、釈尊も強調されているように、何よりも大切なことは出入の息を「意識する」ことです。呼吸を意識することなしに漫然と坐禅をしていても、時間の浪費になるだけで、何年経っても禅定力のつくはずはありません。工夫をしていなければ、どうしても居眠りなどが出てしまいますし、長年坐禅修行した人から見れば、一見しただけで、「この人は真剣に工夫していない」ということが分かるものです。「意識せよ」とは「集中せよ」ということでしょう。この意識や集中を欠けば禅定に入ることは不可能になります。小衲も出入の息に集中して、それこそ何時間でも坐禅可能のような佳境に入ったことが幾度となくあります。釈尊は二ヶ月の間、食事を運ぶ弟子以外は人を遠ざけられて「入出息念定」の坐禅工夫を続けられたと言われておりますが、その際の法悦たるや、如何ばかりであったかと拝察されます。

公案を工夫している方は、坐禅の時だけではなく、行住坐臥・四六時中目の色を変えて工夫三昧になることが肝要です。成果を求めず、ただひたすら公案三昧になることです。公案工夫に骨を折られた人はその三昧境の醍醐味をご存知のはずです。「坐禅は安楽の法門」と言われておりますが、その法悦を味わえるのは自分が実際に骨を折って工夫した人だけです。

くれぐれもご注意申し上げたいのは、ただ呼吸法の重要性を知っているのと、出入りの呼吸への集中を実際に行うのとは全然違うということです。公案工夫も本当にやらなければ法悦を得ることはできません。坐禅弁道によって真の禅定を得たいと思われる方は、どうぞ実際に呼吸への集中や公案工夫に専念することをお勧め致したいと思います。

「師匠看護と仏道修行」2016年8月【No.158】

今月は前回と前々回のコラムでお話し致しました青年たちと学んだ中から、ひとつの大切な問題を彼らに提起して考えてもらっていることをお話ししようと思います。(現在は彼らの中の一人は見聞を広めるために海外旅行中で、今一人は九州の自坊にお盆などの荷担のために帰省しております。)

さて、『雛僧要訓』の中に、「世尊成道の初め説きたまう華厳に、父母師僧に孝順せよ、孝順は至道の本(もと)なりと有り」という一節があります。それとの連関で小衲は、道元禅師の『正法眼蔵随問記』の中で、道元禅師が、老病のために死の床にある師匠を見捨てるような形で入宋求法(にっそうぐほう)された明全和尚のことを「真実の道心」の持ち主であると称賛されている箇所を取りあげました(岩波文庫版、百十五頁)。非常に大切な問題が含まれていると思われますので、少し長くなりますが、当該箇所を全訳させて頂きます(ただし少し分かりやすいように敷衍して訳します)。

道元禅師は或るとき、次のようにお示しになりました、「先師明全和尚が入宋されようとした時、本師である比叡山の明融阿闍梨は重病が起こり、病床でまさに瀕死の状況であった。その時にこの師は弟子の明全に向かい、わしはすでに老病が起こり死去するのも間近だ、どうか今しばらく入宋するのを待って、病を看護してわしが遷化した後に本意を遂げてはくれないか、と懇願された。そこで先師明全和尚は弟子や法類の和尚方を集めて話し合いの場をもたれて次のように言われた、私は幼少の頃から出家して両親の膝元を離れてから、この明融阿闍梨の養育のたまものでこのように成長することができた。その養育のご恩はこの上なく重いものだ、また仏法の教えを色々と学び、同輩にも越えた名誉を得たこと、また仏法の道理を知って今入宋求法の志を起こすことまでも、ひとえにこの師匠の恩でないものはない、しかるに今年すでに年老いて重病の床に臥しておられる、余命も再会も期しがたい故に強いて入宋するのを止められたのである、師の命も背きがたいが、いま私が命をなげうって入宋求法しようとするのも菩薩の大悲利生のためである、師の命に背いてまで宋の国に行くべき道理はあるであろうかと。」

この時、その場のすべての列席者は、今年の入宋は留まられて、師匠の遷化ののちに入宋した方が、師命にも背かずまた師恩にも報いる道だと意見を述べましたが、それを聞き終わって明全和尚は次のように言われました、「おのおの方の評議はみな、留まる方がよいという道理ばかりである、私の思うところはそうではない。今回たとえ私が留まったとしても、師匠が死ぬべき運命ならば、それによって命が長らえるわけでもないし、また私が留まって看病したとしても苦痛が止むはずもない。・・・ただ命に従って師の心を慰めるだけである。このようなことは出離得道のためには一切無用である。錯って私の求法の志を妨げるようなことがあれば、師匠にとって罪業の因縁となりかねない。しかしもし入宋求法の志を遂げて一分の悟りを開くことができたならば、師匠一人の煩悩の情念に背いたとしても、他の多くの人を得道させる因縁となるであろう。この功徳が優れたものならば、これこそ師恩に酬いるというものである。・・・師匠ひとりのために失いやすい時を空しく過ごすことは、仏の本意にかなうことではあるまい。それゆえ、私はこのたび思い切って入宋することを決心した」と言って入宋されたのです。

先に述べたように道元禅師は先師明全和尚のこの様な決心を「真実の道心」だと称賛し、「それであるから、現在の修行者も父母のためや師匠のためであるからといって、(看護などの)無益のことをおこなっていたずらに時を空費して、諸道に勝れた仏道を差し置いて空しく光陰を過ごすべきではない」と力説されております。明全和尚や道元禅師のような名僧方に対して批判的愚見を述べるのは恐れ多いことですが、小衲は果たして師匠看護が「無益」なことであり「時の空費」になるかどうかは一概には言えないように思いますが、皆さん方はいかが思われるでしょうか。

幼い頃から手塩にかけて徒弟教育を受けた恩師に対する言葉として、明全和尚の「今回たとえ私が留まったとしても、師匠が死ぬべき運命ならば、それによって命が長らえるわけでもないし、また私が留まって看病したとしても苦痛が止むはずもない。・・・ただ命に従って師の心を慰めるだけである。このようなことは出離得道のためには一切無用である。」というお言葉は、いささか酷薄に過ぎはしないかという気が致します。

このお二人の名僧方は、師匠看護をすることと仏道修行とを別物だという風に考えられておられるように受け取られるのですが、心をこめて師匠のお世話をすることもまた仏道修行の一環だとは言えないでしょうか。小衲も実は修行時代の絶頂期に、明全和尚と同じく、師匠看護の問題に遭遇致しました。小衲の場合には実は(そのお寺に一日たりとも暮らしたことのない)名義を拝借しただけの師匠だったのですが、明全和尚の事例をも考慮に入れた上で、「ここで看護から逃避したのでは自分は駄目だ」と決断して、師匠をお見送りした上で再度行脚修行を致しました。当時を想起すれば不充分で至らぬことばかりで申し訳なく、いま一度看護をやり直したいという思いがぬぐえません。白隠禅師の伝記を拝読して、禅師が心をこめて師匠看護をしながら坐禅弁道をされ、また不祥事があって放逐された兄弟子を迎え入れて面倒を見られたというのを知って感動したことがあります。師匠看護は必ずしも仏道の妨げとはなるまいと思うのですが、いかがでしょうか。

重病の恩師の懇願を振り切って入宋求法された明全和尚は、入宋三年後に病のために天童山の了然寮で遷化されることになります。建仁寺開山栄西禅師に嗣法された明全和尚のものと伝えられるお墓が建仁寺の開山堂の傍らに寂しげに建っております。曹洞宗の方々がときおり墓参に見えられるようですが、了然寮で遷化される直前、明全和尚の脳裏には自らが看護を見放してきた先師明融阿闍梨のことが去来したのではないかという思いが致します。

この明全和尚のことを若い二人に話し、小衲の見解を披瀝しましたところ、「たとえ名僧の言われることでも、そのまま鵜呑みにせずに自らの体験に照らし合わせて考えるべきだということですね。」という反応が返って参りました。こういうやりとりができるというのが『雛僧要訓』を学ぶことの醍醐味かも知れません。

「跼蹐の情」2016年7月【No.157】

標題に掲げましたのは難しい漢字ですが、「跼蹐(きょくせき)の情」と読みます。中国六朝の梁の武帝の長子である昭明太子の編纂した『文選』には、「高天に跼(せぐぐま)り、厚地に蹐(ぬきあし)す」(張衡「東京賦」)という句が見えますが、『禅林句集』などに載っているのはこちらの方です。

しかしもともとこの「跼蹐」という語は、五経のひとつである『詩経』の「小雅」という、周の朝廷の賀歌を収録した篇にある「正月」という詩中の句で、そこでは、「天蓋(けだ)し高しと謂えども、あえて跼(せぐくま)らずんばあらず、地蓋し厚しといえども蹐(ぬきあし)せずんばあらず」(大空は高いけれども,背をかがめて行かねばならない。大地は厚いけれども、足音を立てぬように抜き足して歩かねばならない)と、君子平生の万事に慎み深い様子を形容する言葉として使われております。

剣禅書の達人である山岡鉄舟居士と親交のあった南隠全愚老師(天保五年~明治三十七年)(1834—1904)は東京文京区に白山道場を建立されて坐禅指導をされた名僧です。或るとき、真夏のこととて蚊帳を使用しておられた老師が、その蚊帳をお顔すれすれになるほど低く釣り下げておられたのを見て、隠侍が「どうしてそんな窮屈なことをされずに、もっと上の方まで上げられないのですか」と不審に思って尋ねると、南隠老師は、『「天蓋し高しと謂えども、あえて跼らずんばあらず、地蓋し厚しといえども蹐せずんばあらず」という言葉をお前は知らんのか』とたしなめられたということです。

今どきの禅修行などしたことのない若者からすれれば、一笑に付すような逸話かも知れませんが、明治の中頃生まれの名僧方の薫陶を受けた私たちから見れば、この南隠老師のお言葉はまことに身の毛もよだつような有り難さが感じられるのです。南隠老師はまたお風呂などには入られずに、ただ湯桶一杯のお湯でお身体をぬぐわれるだけであったと伝えられております。

先月のコラムで言及しました『雛僧要訓』には、相国寺の名僧・大典(梅荘顕常)禅師(享保四年—享和元年)(1719−1801)のご垂戒として、「福を慎むべきこと」を述べられ、「我等従来過分に福を消(しょう)し来たることを恥ずべし、畏るべし」と力説しておられます(十六丁表)が、まさしく上述の南隠老師の気高い行履(あんり)は「福を慎むべきこと」の実践躬行です。

『雛僧要訓』や『論語』や『近世禅林僧宝伝』などを一緒に勉強している青年たちに、「福を慎むべきこと」の実例として南隠老師の逸話を披瀝し、「高天に跼(せぐぐま)り、厚地に蹐(ぬきあし)す」という句を伝えましたが、それを肝に銘じて行うのは一朝一夕では不可能です。

この言葉を伝えたあとで、ワゴン車で外出した際に、若い学生さん三人が雑談を始めたのです。しばらく聞いておりましたが、これは聞き捨てならぬと思い、「君たちはわしと一緒に車に乗っていて、そのような雑談をすることは慎まねばいかんではないか。『雛僧要訓』を読んだばかりなのに、そんなことでどうするのか。気を抜いているからそうなるのだ」とその場で叱責した次第です。同様の忠告を何人もの若者にしたのは、これで三度目になります。このように高僧の優れた行いを学んでも,それを我が物とすることはなかなか困難です。まさしく「高天に跼(せぐぐま)り、厚地に蹐(ぬきあし)す」という心持ちで常日頃を過ごす必要を感じます。

最後に、菅原道真公が太宰府に左遷された折りに詠まれた「門を出でず」と題された漢詩をご紹介致しましょう。そこには道真公の慎ましやかな「跼蹐の情」が如実に言い表されております。

「一たび謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就きしより、万死兢兢(きょうきょう)たり跼蹐の情、都府楼わずかに瓦色を看、観音寺ただ鐘声を聴くのみ」
(ひとたび罪を科せられてこの太宰府に左遷され、このあばら屋に住むようになって以来、わが身に着せられた万死に当る罪に畏れおののき、身の縮まるかのような思いで、少しも外出する気にもなれず、太宰府官庁の楼閣はわずかに瓦の色を見ているだけで行ったこともなく、観音寺はただ鐘の声を聴くだけで訪ねたこともない。)

「青年教育と禅修行」2016年6月【No.156】

最近、来年僧堂に掛搭する予定の青年が、僧堂生活に資することもあろうかと思って拙寺の坐禅会に参加してきたので、これも何かの因縁かと思い、彼に週一度ほど、江戸時代の名僧方が雛僧の心得を説き示された『雛僧要訓』や『論語』などを一緒に読みながら、小衲も再度勉強し直しております。
もとより彼にはお父上が本師としておられるわけですから、小衲のお弟子ではありませんが、これも宗門興隆のための一助となればと思い、当方に迷惑をかけてはと遠慮されるのを、「よろしければどうぞご遠慮なく」と申して行っている次第です。

そうこうしているうちに、これも奇縁というのでしょうか、特別休学制度を活用して禅寺での生活を体験したいという大学生の若者が拙寺にしばらくの間寄宿することになりました。報道されましたのでご存知のお方もあろうかと思いますが、東京の最難関大学が本年より設けた制度で、新入生が学費を払わずに休学できて、しかもその間に受験勉強では体験できないような色んな活動をすることによって、かえってその後の大学生活や自分の人生にとって有意義になるような貴重な体験をするというのが、主眼だそうです。海外の大学ではすでにそのような制度が設けられているようですが、彼の大学では実際の希望者は今のところ少ないそうです。それを思い切ってそのような英断をした彼の決意のほどを称賛したいと思います。

ちょうど臨済禅師と白隠禅師の遠諱記念の禅の特別展が京都国立博物館で開かれていましたので、先ずは二人を連れてその特別展に行って名僧方の気高い行履(あんり)について色々と話を致しました。これほどの特別展はなかなか見られないものですので、二人にとっては非常に良い経験になったかと思います。それ以後、二人一緒に勉強する機会をもつことになりました

拝読しております『雛僧要訓』は出家した雛僧のためのものではありますが、一般の青年にとりましてもまた意義深い教えが多々散見されます。例えば、「師匠のお供をしてよそに出向く時は、師匠のそばを離れることなく、万事に付けて心を配らなければならない。長旅の際には自分がお手洗いに行くなら茶店などで休憩中に行くべきで、普段は師匠のそばを勝手に離れてはいけない」と、師匠に孝養を尽くすことが色々と説かれておりますが、家庭や学校では教えることのないこうした人生の心得は、前途洋々たる若者たちにとっては、とても大切なことではないかと思います。

また、「万事に不足のないのは雛僧の身にとって大毒であると思い、ただただ仏道修行に志を励まなければならない。昔から高僧と称賛される人は多くは貧寺の弟子であった人が多い。というのもそれはひとえに不自由を忍んで自ずからその身に徳を身につけ、その上に苦行困学したからであることを知らなければならない」という一段では、「忍の徳たること、持戒苦行も及ぶこと能わざるところなり」という『仏遺教経』の有名な一節を引いて、小衲の存じ上げている或る高徳の老僧が若い頃に師匠の厳しい仕打ちに堪えながら孝養を貫かれたという実話などを話すと、若い二人は真剣に聞き入っておりました。

『論語』の勉強に際しましても、孔子の「温良恭倹譲」(おだやかで、すなおで、うやうやしくて、つつましくて、へりくだりであられる)の風格や、郷党篇にある「孔子、郷党において恂恂如(じゅんじゅんじょ)たり。言うこと能わざる者に似たり」(孔子は郷里では恭順なありさまで、ものも言えない人のようであった)という記述に、近江聖人と称(たた)えられた中江藤樹は、「夫子、徳光の影迹(えいせき)」を認められ、非常に感動された、という話をしたことです。

何しろ若い二人に話しておきたいことはそれこそ山ほど材料がありますので、あっというまに時間が過ぎてしまいます。そしてその時間は小衲にとってもまた非常に充実した楽しい時間です。しかし講説だけでは不充分です。作務をしながら、薬石(夕飯)の支度をしながら、「これが『雛僧要訓』の実践だ」といいつつ、色々と二人に注意を与えますが、素直で道心のある二人は一向に嫌がる気配を見せずに心を尽くして頑張ってくれます。

そうした若者たちがいることは嬉しいことです。こういう人たちがますます増えて育っていくことを願わずにはおれません。光雲寺では禅寺の生活をしながら大学に通う学生さんを募っております。我と思わん方や、お知り合いのある方がおられましたら、どうぞご連絡をお待ちしております。合掌。

「熊本地震と原発事故」2016年5月【No.155】

4月14日の夜に熊本を襲った震度7の地震の余震がなかなか収まりません。半月を過ぎて地震回数はすでに千回を超え、大分県などにも連鎖して地震を誘発しております。前例を見ないほどの強い余震におびえる被災者の方々のご心労はいかばかりかとお察し申し上げます。早く余震が終息に向かい、被災者の方々に平穏な日々が戻ることを願わずにはおれません。

とりわけ熊本のシンボルとして観光の中心をなす熊本城の甚大な被害は、熊本県民の方々にとって衝撃的な出来事だったことでしょう。石垣などの再建には数十年の歳月と莫大な費用がかかるということですが、復元された偉容を見て熊本の人々に笑顔が戻る日が待たれます。また土砂崩れによる阿蘇大橋の崩落は地震被害の凄まじさを如実に感じさせるものでした。これ以上、阿蘇山の噴火などが続発しないように祈るばかりです。

しかし、しばらくは余震が続くとしましても、そのうちには地震は次第に終息に向かうのは疑いのないことです。それによって地元の人々はまた元通りの日常生活を取り戻すことができるようになるはずです。これに対して、東北大震災での福島原発事故の放射能汚染が及んだ地域は廃墟のようになっており、放射能汚染によって異形の動植物が生まれているとのことです。高濃度汚染地域ではもう帰郷することができないでしょう。政府は何とか汚染の状況を隠し通そうとしておりますが、ネットには(虚実混淆しているとはいえ)色んな情報が暴露されていて、とても隠し通せるものではありません。莫大な費用を費やして除染作業をするなどというのは単なる気休めに過ぎないのではないかという気さえ致します。

福島原発事故が起こって間もない頃、小衲の知り合いの京都在住の米人教授が妻子と共に米国に帰国しました。その先生は日本に留学していた外国人や日本人の学生などを連れて、小衲のお寺を来訪して禅の話を聞く機会を定期的に開催されていたのですが、「急用ができたので」ということで突如として帰国されたのです。後になって彼の日本人学生の一人から、「原発事故があったので、日本はもう危ない」ということが本当の理由だったということが分かりました。外国の人たちの中には、私たちよりももっと深刻にこの事故を見ている人たちがいるということを忘れてはなりません。

わが日本には未知の断層をも含めて幾多の断層があり、いつどこで大地震が起こっても不思議ではないといわれています。今回の九州地方の地震の近辺には、川内原発や伊方原発などがありますが、今回の甚大な被害をまのあたりにして、なおも原発に固執しようとする政府の方針には大いに疑問を感じざるを得ません。福島のようなことが起これば、またもや「想定外のことが起きた」で済まして誰もその責任をとらないつもりなのでしょうか。

関西圏でも大飯原発や高浜原発が「想定外の」地震に遭えば、近畿の水瓶である琵琶湖は汚染されて、関西には住めなくなることは火を見るよりも明らかです。「30キロ圏外に逃げれば安全だ」などというのは余りにも楽観的な現実無視の見方に過ぎません。今回の熊本地震に際して、知り合いの和尚方の中にはこのことを危惧する人が多くいることを改めて知りました。

小衲は宗教者として責任を痛感致します。取り返しのつかないことが起こってからでは遅いのです。私たちはこれからの若い世代の人たちにこの素晴らしい自然環境の日本を、住みよいままに保持して引き継ぐ責務があるのではないでしょうか。

「保福長慶遊山」2016年4月【No.154】

「保福長慶遊山」というのは宗門第一の書といわれる『碧巌録』の第二十三則の公案です。小衲は京都近郊の長岡禅塾で、40年以上も前にこの古則を森本省念老師が提唱された際の印象をいまだ忘れることができません。そのとき老師は『槐安国語』の提唱をしておられました。この書は大徳寺開山大燈国師の語録に、五百年間出の名僧の誉れ高い白隠禅師が著語評唱されたものですが、頌古評唱の第六則がこの機縁です。

森本老師の迫力のある格調高い提唱と共に、大燈国師の「妙峰孤頂、人到り難し、只だ看る白雲の飛んで又た帰ることを、松檜蒼蒼、幾歳をか藶たる、莫教(さもあらばあれ)巌畔、鳥声の稀なることを」という偈頌のえもいえぬ風韻も強く印象に残っています。

保福と長慶は共に中国唐代の雪峰義存禅師の法を嗣いだお歴々の名僧です。このお二人がまだ雪峰の道場で修行時代のことでしょう。連れ立って山に登った際に、保福があたりを指さして「只だ這裏(しゃり)便(すなわ)ち是れ妙峰頂(みょうぶちょう)」といったのです。妙峰頂とは華厳経入法界品にある言葉で、善財童子が発心して五十三人の善知識を歴訪したときに、妙峰山にいた徳雲比丘に相見しているのですが、妙峰頂は尽大地塵ひとつないという悟りの頂き、絶対無の本分のところを指しています。それを道友の長慶が聞きとがめて、「是(ぜ)なることは是なり、可惜許(かしゃっこ)」(それは貴公のいうのはもっともなことだが、そんなところで有頂天になってはいかんではないか)と釘を指しました。

眼の色を変えて坐禅工夫をしておりますと、色んな体験をすることがあります。有頂天になってそれを「自分は悟った」などと自惚れますと、鼻持ちならない天狗になって周りの人たちから疎まれるようになりかねません。そうした例を小衲は見聞したことがあります。師家はそうした者を作り出さないように、生半可な許可は厳に慎むべきだと思いますが、修行者達自身もくれぐれもそのような増上慢に陥らないように心がけることが肝要となります。もとより保福はそんな浅はかな思いなどなく、ただ道友の長慶の境涯は如何と探りを入れたのでしょう。しかし百錬千鍛の長慶はそんな手に乗るはずはありません。かえって保福に注意をしました。

雪竇(せっちょう)禅師は著語して「今日、這(こ)の漢と共に遊山して、箇の什麽(なに)をか図る」(二人とも道場での修行から抜け出して遊山して一体どういうつもりか)と保福・長慶の二人を叱責した上で、「百千年の後、無しとはいわず、只だ是れ少なし」(この二人のように、道場の中のみならず、遊山していても仏道を問答商量するような修行者は、百千年の後もおらぬとは言わないが、少ないであろう)と今度はおおいに持ち上げておられます。

圜悟(えんご)禅師も評唱の中で、「古人は行住坐臥においてただ道のことだけを問題としていたので、一言でもそれが道の問答商量となる」とたたえておられます。道心のある人には真の道友ができるでしょうが、果たして昨今は道のためだけに出家して弁道するという人はいるでしょうか。

あたかも本年3月には臨済禅師の1150年大遠諱と白隠禅師の250年大遠諱が大本山東福寺で臨済宗と黄檗宗の師家・雲衲勢揃いで厳修されました。こうした本物の名僧の心から追慕して一人でも真の道心をもった雲衲が現れてほしいものです。

「涓滴も施さぬ」2016年3月【No.153】

標題に掲げた「涓滴(けんてき)」という言葉は、「水のしたたり、しずく」の意味で、転じて「極めて少ないものの喩え」として使われます。従って、禅宗で使われる際の「涓滴も施さぬ」とは、「一点の妥協も人情も入れない」という意味になります。

現在の臨済宗では、修行者は「公案」といわれる祖師方の大悟の機縁を師家(しけ、参禅指導する老師)より与えられ、その公案に対する見解(けんげ)を呈するべく入室参禅するのですが、頭で考え出された分別ではなく、四六時中その公案三昧となり、自己を忘じ尽くして始めて到達できる境地が要求されるのですから、生半(なまなか)な骨折りでは到底この見解は出てくるはずがありません。

それで修行中の雲衲は、それこそ寝る間も惜しんで夜坐に精を出し、日中の作務の最中にも公案三昧に取り組むようにならざるを得なくなるのです。しかしこのとき、その修行者にまだ充分に三昧境が育っていないにもかかわらず、公案の透過を中途半端に許可されると、せっかく醸成されつつあった境地が台無しになってしまいます。それで、師家はそういうことがないように、「涓滴も施さぬ」という無慈悲の慈悲を行ずることが、本当の親切ということになります。

小衲の師事していた或る大悟徹底された老師が、「公案とは透っている時には透ってない、透ってない時に透っている、そういうものだ」と言われたことがあります。まことにその通りです。しかし参禅者の中には、えてして自己の本心本性を徹見することなしに公案を透過させられて、かえってそれを悦ぶ人が多いのも事実です。とはいえ自分に正直であれば、たとえ師家が許しても、「肯心自ら許す」ということがなければ、納得できるものではありません。小衲も雲水修行時代の当初に、見性(自性徹見、本心本性に目覚めること)してもいないのに初関(最初に与えられる基本的公案、無字や隻手音声の公案)を許された際、「どうかまだ透さないで下さい」と室内で懇願したところ、老師は「別の基礎的公案をそのうち与えるので、そのときに骨を折れば良い」といわれたことがあります。雲衲や在家の修行者のほとんどが見性することなしに公案を許されているのが現状ではないかと思います。

臨済禅では、公案を集大成した白隠禅師以来、それぞれの師家が自分独自の(公案)を創始して付加したがために、時代を経るに従って次第に修行者が透過すべき公案の数が増えて行き、その結果、公案体系を早く消化して印可証明を貰うことが目的となってしまい、自我を破産して肝心の自己の本心を明らめることがかになってしまったのは、本末転倒といえるのではないでしょうか。

「涓滴も施さぬ」ことの必要性を身をもって痛感したことがあります。初掛搭の僧堂から別の僧堂に転錫(てんしゃく)してからの話です。長年の骨折りの末に大悟徹底されていたその僧堂の老師は、「容易なことでは公案を許可しない」という噂を聞き及んでいましたので、その僧堂を目指したわけです。果たして期待に違わず、まことに素晴らしい老師で、初めての参禅で「私もあなたと同じ道を歩いてこの禅門に入ったものです。もう一度生まれてきてももう一度雲水になりたいと思っております」と仰せられたのを聞いて、バットで殴られたような衝撃を受けました。師弟の息もぴったりと一つになり、日々法悦のただ中で過ごすことができたのは、本当に有難いことで、感謝に堪えません。転錫後のこととて背水の陣で臨んだその道場での日々は、夜坐にも骨を折り、目の色を変えて作務の最中も工夫三昧に励んだ結果、それまで体験したことのないような深い禅定を幾度となく経験することができました。

それでも公案の数が多い臨済禅では、公案の調べを済ますのに年月がかかるので、学人の見性を待ちくたびれた老師は公案を透されるようになりました。『碧巌録』第一則の「達磨廓然無聖(かくねんむしょう)」の公案を与えられた小衲は、南禅寺・妙心寺両方の管長を経験された近代の名僧・高源室毒湛老師の嗣法の師である柏樹軒潭海老師がこの則で痛快な大悟をされたことを『近世禅林僧宝伝』で知っていましたので、何とか自分もこの則で大悟したいものだと思い、真一文字に公案三昧に取り組みました。その結果、雪達磨式に三昧境が醸成され、「今度こそは」と確信するほどの境地に到達しました。ところが、こちらの工夫がある程度充実しつつあることを見て取られたためか、突如として老師が公案を許されてしまったのです。せっかく乗りに乗っていた工夫はこれによって、まるで極限まで膨らませられた風船に穴が空けられたように、一瞬でしぼんでしまいました。

こうした経験から、師家として学人の参禅を聞くようになってからは、小衲は決して容易には許可しまいと誓いました。公案の数を数えたい人や老婆親切な対応を期待する人は、わが坐禅会には不向きでしょう。道心のある人は自ら進んで工夫に邁進するはずです。小衲が隠侍をさせて頂いた建仁寺管長の竹田益州老師は、名僧・竹田黙雷老師に参じられること十七年の間、ほとんど「チリンチリン」と鈴(りん)を振られて追いかえされ、一言二言いわれることも稀であったと述懐しておられますが、黙雷老師に比べれば、小衲も多言であり、不親切であることを免れません。

「投げられて親方喜ぶ相撲取り」という世語もあります。どうか小衲の禅体験を凌駕するような工夫三昧の方のご参加を切望したいものです。

「若者たちの心の荒廃とその打開」2016年2月【No.152】

拙寺に坐禅に通っておられる教職員の人たちから最近うかがって、本当に驚いたことがあります。今どきの小学校などでは、授業中に窓から出入りしたり、ゴミ箱を蹴飛ばしたり、子供たちの好き勝手し放題が蔓延しており、ベテランの先生方も如何ともし難いほどの荒れようの学校があるそうです。これも道徳などの「徳育」をおざなりにした戦後の自由放任主義的教育の当然の帰結であるとは言えないでしょうか。

学校教育ばかりではなく、家庭でもそうです。親子が友だち感覚で暮らしていて、昔のように両親が子供を厳格にしつけている家庭はあまり見かけなくなりました。その結果として、禅の修行道場ですらも、以前では考えられないくらいの勝手気ままな振る舞いをする雲水もいるという話をよく聞きます。まことに嘆かわしい時代になったものです。

ただこうした状況に対処するには、問題のある生徒をただ単に頭ごなしに否定するのではなく、彼らがそういう行動に走らざるを得ない理由を胸襟を開いて理解してあげ、もっと楽しく充実して他人からも悦ばれる生き方があるということを教えてあげることが大切なのではないでしょうか。これまで家庭でも学校でも生き方の規範を教わってこなかったがために、若者たちはどのように生きるべきかが分からなくなっているのではないでしょうか。

拙寺は本山からの委託のもと、「南禅寺禅センター」という看板を掲げて年間一万五千人以上の坐禅研修者を受け容れておりますが、その多くは修学旅行の生徒さんたちです。小衲が現今の小学校の悲惨な状況を聞いて心から驚いたのは、これまでの小学校・中学校・高等学校などの生徒さんたちの坐禅指導をしてきた経験からは、そのような気配は生徒さんたちからいささかも見て取れなかったからです。荒れた生徒さんたちを相手にしている先生方は、逆に生徒さんたちがそのように規律正しく坐禅研修を行うということに驚きを禁じ得ないようです。

坐禅研修の法話で、禅寺の修行体験などを話すと、全員が眼を耀かせてこちらの方を見ます。彼らも自分たちの生き方を模索して、「どのように生きたらいいのか」を知りたいと求めているように感じます。現在は一流大学に在籍しているものの、小学生の時には0点を取るほど荒れていた学生さんに、当時の心の状況を聞きますと、「勉強するということが一体どんな意味があるのかということが分からなかったので」という答えが返ってきました。彼は「好成績をとるようになってからも、その解答がなかなか見つかりませんでした」と述懐しています。

その答えを得るための一つの方法は「温故知新」です。優れた先人が歩んだ人生の軌跡を謙虚に学ぶことです。最近、江戸時代中期の神澤杜口(かんざわとこう)の『翁草』について聞いてこられる人があり、色々と読み返しました。原著そのものは非常に大部のものですが、参考文献としては立川昭二著『足るを知る生き方 神澤杜口「翁草」に学ぶ』という本が優れているように思われます。杜口を「人生の達人」として敬慕する立川氏は、丹念に『翁草』を読んでそこから杜口の心のひだに触れるような達意の文章をものされています。是非一読をお勧めしたい本です。

杜口は「若い頃から養生をもっぱらにすべきである」といい、殊に内面の病に関しては、「思の一字さえ工夫すれば、煩うことはない」といっています。「気を養うのを養生の第一とする」という杜口は、「すべての人は物に深く執着するがために気が休まる暇がなく、そこから色んな病や災いが起こる」と指摘して、気を養うためには何よりも物事に執着しないことを力説していますが、これはまさしく私たちが禅の修行において常日頃生徒さんたちに対して申し上げていることです。

私たちは通常は外にばかり目を向けているから、色んな喜怒哀楽の感情を起こし、それにとらわれます。そしてそれが悩み苦しみのもとになります。ところが真剣に数息観なり随息観なり公案工夫なりをしてみると、まわりの物事がまったく気にかからず、八面玲瓏の心境になってきます。自分の心境などを他人に対して自慢げに話す人がありますが、それもまた執着に他なりません。本当に呆(ほう)けて、人様に馬鹿にされるくらいの、良寛さんのような「大愚」の境涯が望ましく思われます。

明治天皇が元田永孚(もとだながざね)に命じて編纂させられたわが国最初の修身の書というべき『幼学綱要』という本があります。「人として生きる道」に関して色々と大切なことが述べられています。
若者たちが生き方の指針を見つけるための一助となるかと思い、前述の先生方と共に現代語訳を校正する予定です。暗中模索してもがき苦しんでいる生徒さんたちが、一人でも多く光明を見つけられるようにしてあげたいものです。

「坐禅の工夫について」2016年1月【No.151】

新年明けましておめでとう御座います。旧年中は、あいつぐ火山噴火や「激甚災害」に指定された鬼怒川の堤防決壊などの自然災害がありましたが、今年は何とか大きな天変地異などのない平穏な一年になってほしいものです。

「一年の計は元旦にあり」と申しますが、皆さん方はこの一年を迎えるに際してどのような抱負を持っておられるでしょうか。拙寺での月例坐禅会は、お蔭様で継続して来られる方々が増えて、ますます充実して参りました。中にはかなり遠方からこの坐禅会に参加するためだけに来られる熱心な参加者もあり、こちらが感心させられます。そうした坐禅に関心のある人たちの願いは、何よりも、これからの人生を有意義に過ごしたい、そのためには禅に参じて真の禅定の三昧境を体験してみたい、ということではないでしょうか。

特に初心の人たちは、どのようにすれば禅定に入ることができるのかが問題となります。「色んな雑念が出てきますが、どうしたらよろしいでしょうか」という質問をよく受けるのですが、それに対して、「それは本当に数息観を行なっていないからです」と答えることにしております。小衲の経験から申せば、四六時中、眼の色を変えて数息観を行じていけば、思わず知らず自然に三昧境にはいれるものだからです。

禅宗で一番厳しい修行期間といえば、12月1日から8日の鶏鳴(明け方)まで横にならずに坐禅三昧を修する「臘八(ろうはつ)大摂心」があります。臨済宗では、五百年間出の大禅匠である白隠慧鶴禅師の「臘八示衆」を老師が連日提唱することになっております。その朔日(ついたち)夜の示衆では、「禅定を修しようと思うものは、まず厚く座布団を敷き、結跏趺坐してゆったりと衣帯を着けて背すじを伸ばし、身体を整えた上で、数息観をなすべきである。無量三昧の中には数息が最上である」といっておられます。

曹洞宗の道場に行って来た人から聞いたところでは、永平寺などでは数息観を勧めないそうですが、それではどういう工夫をすれば三昧境に入れるというのでしょうか。「呼吸に集中せよ」とは指導されるようですので、或いは「随息観」を念頭に置いておられるのかも知れません。いずれにせよ、指導者自身がそのやり方で禅定に入ったという確固たる体験がなければ、それは説得力をもたないでしょう。

数息観や随息観などというと、坐禅中にのみ行うものと思っている人が多いようですが、四六時中の工夫をしなければ、なかなか三昧境は現前しません。動中の工夫を続けていると、静中(坐禅中)の工夫も相乗的に円熟して、短時間の中に禅定にはいれるようになるものです。

白隠禅師は臘八朔日夜の示衆で、前掲のご垂戒に引き続き、「気を丹田(へそ下にある気海丹田)に満たして後に、一則の公案を拈じて、断命根(だんみょうこん)をする必要がある。そのように歳月を積んで怠らなければ、たとい大地を打って打ち損じることがあろうと、見性は必ずや成就されるはずである。どうして努力しないでよいものか、努力しないでよいものか」と赤心を披瀝しておられます。

「断命根」とは祖師方の機縁である公案に成り切ることによって分別心や自我を根こそぎにすることで、「死に切る」ともいいます。確かに四六時中の工夫をする場合には、公案工夫の方が三昧境に入りやすいと思います。「ひとーつ、ふたーつ・・・」と十数えることを繰り返すよりも、無字の公案のように「むーむー・・・」とやるほうが単純で無意識の境涯になりやすいでしょう。それで小衲のところでは、旧参の人たちには「四六時中無字三昧」の工夫を勧めております。

熱心に拈提する人の中には、応分の所得を得て、法悦に包まれて報告してくる人もありますが、それに対して小衲は必ず、「どんないい境涯が現出しても、それに尻を据えていては小成に安んじることになるので、駄目です。得ては捨て、得ては捨てです」と申し上げることにしております。

参禅をする人の中には公案を何則透過したかを何よりも重視する人もありますが、公案の数を数えるのが目的ではなく、公案の恩力によって心地を開発することが根本です。せっかく修行するなら本末転倒にならないようにしなければなりません。それで参禅の師とするのなら、安易に許可しない厳師につくことが望まれます。

坐禅に関心を持ち、人生を充実させたいと念じられる方々は、ご縁のある坐禅会に参加して大いに三昧境を養ってみられてはいかがでしょうか。真剣に工夫に没頭すれば、きっとこれまでの人生で経験したことのないような大歓喜を得られることでしょう。「一年の計は元旦にあり」です。皆さん方は一体どのような抱負を持たれたでしょうか。

「笑いと禅と免疫力」2015年12月【No.150】

最近よくガンにかかった有名人の人たちのことが話題になります。罹患した人の大多数が、どうやら手術や抗がん剤などの化学療法や放射線治療といったいわゆる「三大療法」に救いを求めているようです。ガン以外にも、病気になれば多くの人はすぐに病院へと走ります。こうした旧来の西洋医学一辺倒の治療に関しては、色んな問題点が指摘されているのは周知の事実でしょうが、それにもかかわらず大きな病人へ行けば、待合は大勢の患者さん(特にお年寄りたち)でいっぱいです。結局は自分の身を守るには、日頃から身心の健康に留意して、よく勉強して調べ、いざとなってもたじろがないだけの心構えが必要ではないでしょうか。

実は拙寺の檀家さんに江戸時代の漢方の名医といわれる中神琴渓翁の児孫のお宅があります。つい最近の十一月末に、琴渓翁の百八十回忌大遠忌法要を執り行ったばかりです。今ご依頼を受けて弟子による伝記である漢文の『中神氏獨語』の書き下しと註釈に従事しているのですが、琴渓翁がその門弟の疑問に答えた講義録が小田慶一氏によってすでに翻訳されております。小田氏はご自身が「現代の琴渓」と崇敬する山本巌先生のご指示により、この翻訳を行われたそうです。この山本先生というお方は、漢方でガンを初めとした難病・奇病の人たちを次々と治癒された実績をお持ちです。琴渓翁も同様です。その翁が寛政十年(1799)に著された主著ともいうべき『生生堂雑記』の冒頭には、昔、京都に住んでいた病人が十三年の間に色んな医者にかかって治療を受けたが、ますます身体の具合が悪くなって、とうとう薬を飲むのが嫌になり、或るとき勝手に薬を飲むのを止めてしまいましたが、そうするとかえって身体の具合が良くなり、長年の病気が二ヶ月ほどですっかり治ってしまった、という話をして、「やたらと医者にかかるべきではない」と戒めておられます。小田氏が「桁(けた)はずれな人物」(あとがき)と呼ばれて驚嘆されている正真正銘の名医がかくいうのですから、まさに痛快ではありませんか。薬漬けの人が多くみられる現代の私たちにとって、とても教訓となる逸話ですね。

現代の私たちも、医者や薬にむやみに頼らない養生法を心がけることが大切なのではないでしょうか。松本光正氏の『笑いと健康・君子医者に近寄らず』という書物があります。中村天風の最晩年の弟子である松本氏は、人間のもつ自然治癒力の強さを天風先生から叩き込まれ、私たちの健康にとって何よりも「笑い」とプラス思考が重要だと説いておられます。その文章たるや、まことに痛快で笑いに満ち満ちています。

俗に「笑う門には福来たる」と申しますが、現在ではそのことが化学的に証明されているそうです。笑うと、脳内麻薬(ドーパミン)が脳の中に出て末梢血管に広がり、血行が良くなります。すると新陳代謝が活発になり、老化や病気を防ぐようになり、悪いところを治そうと自然と体が張り切るという仕組みになっているそうです(同上書、20頁)。ひとたび笑うだけで、毎日5000個以上作られるというガン細胞が一瞬にして100個も消失するといいますから、笑いの効果たるや、とてつもなく素晴らしいものです。

二十年以上前に米国のカリフォルニア大学で行われた実験では、面白くないマンガを作り笑いしながら読むと、面白くなかったはずなのに、10分ほどして脳からドーパミンが出て、今度は本当に楽しくなってくるそうです。このことで思い出しましたのは、江戸時代の黒住教の創設者である黒住宗忠の次の逸話です。長く肺結核で寝ていた人の家に招かれた宗忠は、病人に向かって次のようにいったそうです。「長いご病気で、さぞお困りでしょう。しかし、このように陰気になってはおかげは受けられませんから、今日からつとめて笑う修行をして下さい」。

しかし当時では重病の最たるものといわれる肺病にかかって陰気になっていたので、そう簡単に笑えるはずがありません。懸命に笑う修行をしていると、ふと燈火の明かりでふすまに映っている自分の影が目に入りました。「いま、このしょげ面をもし誰かが見ていたらどんなにおかしいことだろう」とその有様を想像すると、思わずおかしさがこみ上げて腹の底から笑い声が出てきました。この声を聞きつけて家人が駆けつけ、笑い転げていた理由を聞いて、家族中が大笑いをしました。その結果、それまで重病人のいるせいで陰気だった家中がにわかに陽気になって、いつのまにやら重病であるはずの肺結核が治ってしまったということです。

手遅れになってはいけないなどを病を恐れ、人間ドックを生真面目に受け、ドックの結果に一喜一憂して陰気になって自然治癒力を低下させるよりも、お金のかからない「笑い」に満ちた日々を送る方がどれほど楽しいことでしょう。実を申せば、小衲も長年人間ドックを受けていた一人ですが、一緒に受けていた弟がそれにもかかわらず前立腺ガンになって逝去した頃から、西洋医学に疑問を持つようになりました。まじめ人間だった弟は律儀にも医者の勧めるがままに、コレステロール値を下げる薬を十年にわたり服用していたのです。おそらくこの病気になった最大の原因はこの薬の服用ではないかと推測できます。

小衲も実は高血圧なのですが、医者が測定を指示しても馬耳東風で、「血圧測定器など捨てしまう方がよい」という松本先生のご意見に「わが意を得たり」とほくそ笑んでおります。もっと深刻な病気の兆候(具体的には血痰です)があったときにも、病院に行かずに身体を温めて免疫力を高めることによって治しました。「そのように放置して、もし重病になったらどうするのか」という人もいることでしょう。結局、これはその本人自身の決断にかかっています。小衲の場合には、その結果、手遅れになろうが別に構いませんし、後悔は致しません。世の中には必要以上に神経質なほど体のことを気にかけて、病院に行ってかえって病気になっている人たちを何人も見ているからです。松本光正氏の『高血圧はほっとくのが一番』(講談社+α新書)を読むと、製薬会社と一部の医者とが結託して、私たちの体に悪影響を与える降圧剤などを普及させた事情がよく分かります。実態を知って唖然とする方も多くおられるのではないでしょうか。

さて、笑うことはもちろん素晴らしい免疫力向上の方法であることは確かですが、坐禅工夫を通して禅定に入ることによって得られる法悦の醍醐味は、それ以上の喜びです。自分の呼吸を「ひとーつ、ふたーつ」と数えることに専念して三昧境に入り、自己を空じ尽くす爽快さは、何ものにも代えがたい喜びだと言えましょう。

皆さん方も「笑い」と「禅定」で楽しい充実した日々を過ごして見られませんか。

「幽谷深山、華自ずから紅なり」2015年11月【No.149】

今年も二人の日本人研究者によるノーベル賞授与が続いたことは、誠に喜ばしいニュースとして日本中を駆け巡りました。生理学・医学賞の北里大学・特別栄誉教授の大村智(さとし)氏と、物理学賞の東京大学教授の梶田隆章(たかあき)氏です。お二人とも山梨大学と埼玉大学という地方大学の出身者です。特に大村氏に関しては、「2億人を病魔から守った科学者」とか「産学連携の先駆けで、それによって得た250億円を北里研究所の発展のために寄進した」というニュースが流れましたので、氏のことをもっと知りたく思い、馬場錬成氏による大村氏の伝記(中央公論新社刊)を取り寄せて拝読しました。

「大村先生の業績を広く知ってもらうため」という願いをもつ元特許庁長官の荒井寿光氏に伝記の執筆を依頼された著者の馬場氏が、大村氏に長時間インタビューしてその生涯と業績とを細部に到るまで克明に調べあげ、力作と呼んでしかるべき実録伝記を完成される原動力になったのは、初めてお目にかかった際に「大村先生の識見とお人柄に触れ」て感激されたからでしょう。テレビで拝見した大村氏には確かに他人を魅了する風格が感じられました。しかし事ここに到るまでにどれほどのご苦労と研鑽があったのかを、伝記を拝読して思い知った気がします。

大村氏の受賞理由はブユが媒介する寄生虫病であり、網膜に入り込んでしまうと失明するに到る熱帯地方のオンコセルカ症(河川盲目症)という感染症の特効薬であるイベルメクチンの開発でした。微生物や細菌が身を守るために産生する化学物質の中には人間や動物に有用なものが少なくありません。しかも大村氏はその開発を米国の大きな製薬会社であるメルク社と共同で行い、その特許で生まれた製品があると、その売り上げ高に応じてメルク社は北里研究所にしかるべき対価を払います。こうして支払われた対価の総額が250億円を越えたということです。単に研究者たるに留まらず、「研究を経営する」という辣腕の経営者としての才覚があったからこそ、経営不振に陥っていた北里研究所を見事に建て直すことができたのでしょう。

馬場氏が伝記を書きたいと申し出たとき、大村氏は「生まれ故郷の土地を見てもらいたい。自然と接して育った少年時代を抜きにして私の研究人生は語れない」と話されたということです。昭和10年(1935)に甲府盆地の豊かな自然の中で育った大村少年は農家の長男として野良仕事を手伝うと共に、父親から家長となるべく厳しい教育を受けました。農作業を手伝うことによって様々な自然現象への興味が身についたということです。大村氏はこの子供時代の経験について、「農作業の計画と実行は、化学における実験や作業計画とよく似ている。どちらも、将来を見越して計画を立て、臨機応変に変更していく。農業とは自然を学ぶことであり、農民は自然科学者であると思う」と言われたということです。足実地を踏んだ人の堅実な言葉ではないでしょうか。

父親は成績が極めて優秀だったのですが、18歳の時に父に死なれ、長男であったので進学を断念しました。大村少年が中学生の時に部屋の片付けをしていて、教科書とノート類からなる30冊以上の「高等講義録」を見つけたのですが、それは父親が多忙な農業の仕事の寸暇を惜しんで通信教育で勉強していたもので、大村少年は感動して、怠けていたわが身を反省したそうです。

また母親も20年間の教師生活をした後、農業や養蚕などに従事しましたが、特に養蚕の手法や結果が克明に書かれた日誌を見せられて、大村少年は非常に感銘を受けました。母親の教師時代の日誌の最後の頁には、「教師たる資格は、自分自身が進歩していることである」と書いてあるのを見つけて、大村少年はこの言葉を肝に銘じて生きるようになったといいます。

こうしてみますと、大村氏の今回のノーベル受賞の一番の土台となったのは、古き良き時代の日本人を彷彿とさせるご両親の生きざまであるとは言えないでしょうか。大分県国東半島出身の孤高の自然哲学者・三浦梅園(享保八年—寛政元年、1723−1789)に「人生恨む莫(なか)れ、人識る無きを。幽谷深山、華自(おの)ずから紅(くれない)なり」(人生莫恨無人識、幽谷深山華自紅)という漢詩があります。「他人が自分のことを知って評価してくれなくても嘆くには及ばない。深山幽谷に咲く花は、誰に見てもらおうという思いもなく、また誰からも顧みられることなくとも、精一杯見事な花を咲かせている」という意味でしょう。甲府盆地のただ中で実直に愛情を込めて子息を育てられ、将来のノーベル賞受賞者になられた下地を作られた大村氏のご両親に、「幽谷深山、華自ずから紅なり」の句を捧げたいと存じます。