「保福長慶遊山」2016年4月【No.154】

「保福長慶遊山」というのは宗門第一の書といわれる『碧巌録』の第二十三則の公案です。小衲は京都近郊の長岡禅塾で、40年以上も前にこの古則を森本省念老師が提唱された際の印象をいまだ忘れることができません。そのとき老師は『槐安国語』の提唱をしておられました。この書は大徳寺開山大燈国師の語録に、五百年間出の名僧の誉れ高い白隠禅師が著語評唱されたものですが、頌古評唱の第六則がこの機縁です。

森本老師の迫力のある格調高い提唱と共に、大燈国師の「妙峰孤頂、人到り難し、只だ看る白雲の飛んで又た帰ることを、松檜蒼蒼、幾歳をか藶たる、莫教(さもあらばあれ)巌畔、鳥声の稀なることを」という偈頌のえもいえぬ風韻も強く印象に残っています。

保福と長慶は共に中国唐代の雪峰義存禅師の法を嗣いだお歴々の名僧です。このお二人がまだ雪峰の道場で修行時代のことでしょう。連れ立って山に登った際に、保福があたりを指さして「只だ這裏(しゃり)便(すなわ)ち是れ妙峰頂(みょうぶちょう)」といったのです。妙峰頂とは華厳経入法界品にある言葉で、善財童子が発心して五十三人の善知識を歴訪したときに、妙峰山にいた徳雲比丘に相見しているのですが、妙峰頂は尽大地塵ひとつないという悟りの頂き、絶対無の本分のところを指しています。それを道友の長慶が聞きとがめて、「是(ぜ)なることは是なり、可惜許(かしゃっこ)」(それは貴公のいうのはもっともなことだが、そんなところで有頂天になってはいかんではないか)と釘を指しました。

眼の色を変えて坐禅工夫をしておりますと、色んな体験をすることがあります。有頂天になってそれを「自分は悟った」などと自惚れますと、鼻持ちならない天狗になって周りの人たちから疎まれるようになりかねません。そうした例を小衲は見聞したことがあります。師家はそうした者を作り出さないように、生半可な許可は厳に慎むべきだと思いますが、修行者達自身もくれぐれもそのような増上慢に陥らないように心がけることが肝要となります。もとより保福はそんな浅はかな思いなどなく、ただ道友の長慶の境涯は如何と探りを入れたのでしょう。しかし百錬千鍛の長慶はそんな手に乗るはずはありません。かえって保福に注意をしました。

雪竇(せっちょう)禅師は著語して「今日、這(こ)の漢と共に遊山して、箇の什麽(なに)をか図る」(二人とも道場での修行から抜け出して遊山して一体どういうつもりか)と保福・長慶の二人を叱責した上で、「百千年の後、無しとはいわず、只だ是れ少なし」(この二人のように、道場の中のみならず、遊山していても仏道を問答商量するような修行者は、百千年の後もおらぬとは言わないが、少ないであろう)と今度はおおいに持ち上げておられます。

圜悟(えんご)禅師も評唱の中で、「古人は行住坐臥においてただ道のことだけを問題としていたので、一言でもそれが道の問答商量となる」とたたえておられます。道心のある人には真の道友ができるでしょうが、果たして昨今は道のためだけに出家して弁道するという人はいるでしょうか。

あたかも本年3月には臨済禅師の1150年大遠諱と白隠禅師の250年大遠諱が大本山東福寺で臨済宗と黄檗宗の師家・雲衲勢揃いで厳修されました。こうした本物の名僧の心から追慕して一人でも真の道心をもった雲衲が現れてほしいものです。

「涓滴も施さぬ」2016年3月【No.153】

標題に掲げた「涓滴(けんてき)」という言葉は、「水のしたたり、しずく」の意味で、転じて「極めて少ないものの喩え」として使われます。従って、禅宗で使われる際の「涓滴も施さぬ」とは、「一点の妥協も人情も入れない」という意味になります。

現在の臨済宗では、修行者は「公案」といわれる祖師方の大悟の機縁を師家(しけ、参禅指導する老師)より与えられ、その公案に対する見解(けんげ)を呈するべく入室参禅するのですが、頭で考え出された分別ではなく、四六時中その公案三昧となり、自己を忘じ尽くして始めて到達できる境地が要求されるのですから、生半(なまなか)な骨折りでは到底この見解は出てくるはずがありません。

それで修行中の雲衲は、それこそ寝る間も惜しんで夜坐に精を出し、日中の作務の最中にも公案三昧に取り組むようにならざるを得なくなるのです。しかしこのとき、その修行者にまだ充分に三昧境が育っていないにもかかわらず、公案の透過を中途半端に許可されると、せっかく醸成されつつあった境地が台無しになってしまいます。それで、師家はそういうことがないように、「涓滴も施さぬ」という無慈悲の慈悲を行ずることが、本当の親切ということになります。

小衲の師事していた或る大悟徹底された老師が、「公案とは透っている時には透ってない、透ってない時に透っている、そういうものだ」と言われたことがあります。まことにその通りです。しかし参禅者の中には、えてして自己の本心本性を徹見することなしに公案を透過させられて、かえってそれを悦ぶ人が多いのも事実です。とはいえ自分に正直であれば、たとえ師家が許しても、「肯心自ら許す」ということがなければ、納得できるものではありません。小衲も雲水修行時代の当初に、見性(自性徹見、本心本性に目覚めること)してもいないのに初関(最初に与えられる基本的公案、無字や隻手音声の公案)を許された際、「どうかまだ透さないで下さい」と室内で懇願したところ、老師は「別の基礎的公案をそのうち与えるので、そのときに骨を折れば良い」といわれたことがあります。雲衲や在家の修行者のほとんどが見性することなしに公案を許されているのが現状ではないかと思います。

臨済禅では、公案を集大成した白隠禅師以来、それぞれの師家が自分独自の(公案)を創始して付加したがために、時代を経るに従って次第に修行者が透過すべき公案の数が増えて行き、その結果、公案体系を早く消化して印可証明を貰うことが目的となってしまい、自我を破産して肝心の自己の本心を明らめることがかになってしまったのは、本末転倒といえるのではないでしょうか。

「涓滴も施さぬ」ことの必要性を身をもって痛感したことがあります。初掛搭の僧堂から別の僧堂に転錫(てんしゃく)してからの話です。長年の骨折りの末に大悟徹底されていたその僧堂の老師は、「容易なことでは公案を許可しない」という噂を聞き及んでいましたので、その僧堂を目指したわけです。果たして期待に違わず、まことに素晴らしい老師で、初めての参禅で「私もあなたと同じ道を歩いてこの禅門に入ったものです。もう一度生まれてきてももう一度雲水になりたいと思っております」と仰せられたのを聞いて、バットで殴られたような衝撃を受けました。師弟の息もぴったりと一つになり、日々法悦のただ中で過ごすことができたのは、本当に有難いことで、感謝に堪えません。転錫後のこととて背水の陣で臨んだその道場での日々は、夜坐にも骨を折り、目の色を変えて作務の最中も工夫三昧に励んだ結果、それまで体験したことのないような深い禅定を幾度となく経験することができました。

それでも公案の数が多い臨済禅では、公案の調べを済ますのに年月がかかるので、学人の見性を待ちくたびれた老師は公案を透されるようになりました。『碧巌録』第一則の「達磨廓然無聖(かくねんむしょう)」の公案を与えられた小衲は、南禅寺・妙心寺両方の管長を経験された近代の名僧・高源室毒湛老師の嗣法の師である柏樹軒潭海老師がこの則で痛快な大悟をされたことを『近世禅林僧宝伝』で知っていましたので、何とか自分もこの則で大悟したいものだと思い、真一文字に公案三昧に取り組みました。その結果、雪達磨式に三昧境が醸成され、「今度こそは」と確信するほどの境地に到達しました。ところが、こちらの工夫がある程度充実しつつあることを見て取られたためか、突如として老師が公案を許されてしまったのです。せっかく乗りに乗っていた工夫はこれによって、まるで極限まで膨らませられた風船に穴が空けられたように、一瞬でしぼんでしまいました。

こうした経験から、師家として学人の参禅を聞くようになってからは、小衲は決して容易には許可しまいと誓いました。公案の数を数えたい人や老婆親切な対応を期待する人は、わが坐禅会には不向きでしょう。道心のある人は自ら進んで工夫に邁進するはずです。小衲が隠侍をさせて頂いた建仁寺管長の竹田益州老師は、名僧・竹田黙雷老師に参じられること十七年の間、ほとんど「チリンチリン」と鈴(りん)を振られて追いかえされ、一言二言いわれることも稀であったと述懐しておられますが、黙雷老師に比べれば、小衲も多言であり、不親切であることを免れません。

「投げられて親方喜ぶ相撲取り」という世語もあります。どうか小衲の禅体験を凌駕するような工夫三昧の方のご参加を切望したいものです。

「若者たちの心の荒廃とその打開」2016年2月【No.152】

拙寺に坐禅に通っておられる教職員の人たちから最近うかがって、本当に驚いたことがあります。今どきの小学校などでは、授業中に窓から出入りしたり、ゴミ箱を蹴飛ばしたり、子供たちの好き勝手し放題が蔓延しており、ベテランの先生方も如何ともし難いほどの荒れようの学校があるそうです。これも道徳などの「徳育」をおざなりにした戦後の自由放任主義的教育の当然の帰結であるとは言えないでしょうか。

学校教育ばかりではなく、家庭でもそうです。親子が友だち感覚で暮らしていて、昔のように両親が子供を厳格にしつけている家庭はあまり見かけなくなりました。その結果として、禅の修行道場ですらも、以前では考えられないくらいの勝手気ままな振る舞いをする雲水もいるという話をよく聞きます。まことに嘆かわしい時代になったものです。

ただこうした状況に対処するには、問題のある生徒をただ単に頭ごなしに否定するのではなく、彼らがそういう行動に走らざるを得ない理由を胸襟を開いて理解してあげ、もっと楽しく充実して他人からも悦ばれる生き方があるということを教えてあげることが大切なのではないでしょうか。これまで家庭でも学校でも生き方の規範を教わってこなかったがために、若者たちはどのように生きるべきかが分からなくなっているのではないでしょうか。

拙寺は本山からの委託のもと、「南禅寺禅センター」という看板を掲げて年間一万五千人以上の坐禅研修者を受け容れておりますが、その多くは修学旅行の生徒さんたちです。小衲が現今の小学校の悲惨な状況を聞いて心から驚いたのは、これまでの小学校・中学校・高等学校などの生徒さんたちの坐禅指導をしてきた経験からは、そのような気配は生徒さんたちからいささかも見て取れなかったからです。荒れた生徒さんたちを相手にしている先生方は、逆に生徒さんたちがそのように規律正しく坐禅研修を行うということに驚きを禁じ得ないようです。

坐禅研修の法話で、禅寺の修行体験などを話すと、全員が眼を耀かせてこちらの方を見ます。彼らも自分たちの生き方を模索して、「どのように生きたらいいのか」を知りたいと求めているように感じます。現在は一流大学に在籍しているものの、小学生の時には0点を取るほど荒れていた学生さんに、当時の心の状況を聞きますと、「勉強するということが一体どんな意味があるのかということが分からなかったので」という答えが返ってきました。彼は「好成績をとるようになってからも、その解答がなかなか見つかりませんでした」と述懐しています。

その答えを得るための一つの方法は「温故知新」です。優れた先人が歩んだ人生の軌跡を謙虚に学ぶことです。最近、江戸時代中期の神澤杜口(かんざわとこう)の『翁草』について聞いてこられる人があり、色々と読み返しました。原著そのものは非常に大部のものですが、参考文献としては立川昭二著『足るを知る生き方 神澤杜口「翁草」に学ぶ』という本が優れているように思われます。杜口を「人生の達人」として敬慕する立川氏は、丹念に『翁草』を読んでそこから杜口の心のひだに触れるような達意の文章をものされています。是非一読をお勧めしたい本です。

杜口は「若い頃から養生をもっぱらにすべきである」といい、殊に内面の病に関しては、「思の一字さえ工夫すれば、煩うことはない」といっています。「気を養うのを養生の第一とする」という杜口は、「すべての人は物に深く執着するがために気が休まる暇がなく、そこから色んな病や災いが起こる」と指摘して、気を養うためには何よりも物事に執着しないことを力説していますが、これはまさしく私たちが禅の修行において常日頃生徒さんたちに対して申し上げていることです。

私たちは通常は外にばかり目を向けているから、色んな喜怒哀楽の感情を起こし、それにとらわれます。そしてそれが悩み苦しみのもとになります。ところが真剣に数息観なり随息観なり公案工夫なりをしてみると、まわりの物事がまったく気にかからず、八面玲瓏の心境になってきます。自分の心境などを他人に対して自慢げに話す人がありますが、それもまた執着に他なりません。本当に呆(ほう)けて、人様に馬鹿にされるくらいの、良寛さんのような「大愚」の境涯が望ましく思われます。

明治天皇が元田永孚(もとだながざね)に命じて編纂させられたわが国最初の修身の書というべき『幼学綱要』という本があります。「人として生きる道」に関して色々と大切なことが述べられています。
若者たちが生き方の指針を見つけるための一助となるかと思い、前述の先生方と共に現代語訳を校正する予定です。暗中模索してもがき苦しんでいる生徒さんたちが、一人でも多く光明を見つけられるようにしてあげたいものです。

「坐禅の工夫について」2016年1月【No.151】

新年明けましておめでとう御座います。旧年中は、あいつぐ火山噴火や「激甚災害」に指定された鬼怒川の堤防決壊などの自然災害がありましたが、今年は何とか大きな天変地異などのない平穏な一年になってほしいものです。

「一年の計は元旦にあり」と申しますが、皆さん方はこの一年を迎えるに際してどのような抱負を持っておられるでしょうか。拙寺での月例坐禅会は、お蔭様で継続して来られる方々が増えて、ますます充実して参りました。中にはかなり遠方からこの坐禅会に参加するためだけに来られる熱心な参加者もあり、こちらが感心させられます。そうした坐禅に関心のある人たちの願いは、何よりも、これからの人生を有意義に過ごしたい、そのためには禅に参じて真の禅定の三昧境を体験してみたい、ということではないでしょうか。

特に初心の人たちは、どのようにすれば禅定に入ることができるのかが問題となります。「色んな雑念が出てきますが、どうしたらよろしいでしょうか」という質問をよく受けるのですが、それに対して、「それは本当に数息観を行なっていないからです」と答えることにしております。小衲の経験から申せば、四六時中、眼の色を変えて数息観を行じていけば、思わず知らず自然に三昧境にはいれるものだからです。

禅宗で一番厳しい修行期間といえば、12月1日から8日の鶏鳴(明け方)まで横にならずに坐禅三昧を修する「臘八(ろうはつ)大摂心」があります。臨済宗では、五百年間出の大禅匠である白隠慧鶴禅師の「臘八示衆」を老師が連日提唱することになっております。その朔日(ついたち)夜の示衆では、「禅定を修しようと思うものは、まず厚く座布団を敷き、結跏趺坐してゆったりと衣帯を着けて背すじを伸ばし、身体を整えた上で、数息観をなすべきである。無量三昧の中には数息が最上である」といっておられます。

曹洞宗の道場に行って来た人から聞いたところでは、永平寺などでは数息観を勧めないそうですが、それではどういう工夫をすれば三昧境に入れるというのでしょうか。「呼吸に集中せよ」とは指導されるようですので、或いは「随息観」を念頭に置いておられるのかも知れません。いずれにせよ、指導者自身がそのやり方で禅定に入ったという確固たる体験がなければ、それは説得力をもたないでしょう。

数息観や随息観などというと、坐禅中にのみ行うものと思っている人が多いようですが、四六時中の工夫をしなければ、なかなか三昧境は現前しません。動中の工夫を続けていると、静中(坐禅中)の工夫も相乗的に円熟して、短時間の中に禅定にはいれるようになるものです。

白隠禅師は臘八朔日夜の示衆で、前掲のご垂戒に引き続き、「気を丹田(へそ下にある気海丹田)に満たして後に、一則の公案を拈じて、断命根(だんみょうこん)をする必要がある。そのように歳月を積んで怠らなければ、たとい大地を打って打ち損じることがあろうと、見性は必ずや成就されるはずである。どうして努力しないでよいものか、努力しないでよいものか」と赤心を披瀝しておられます。

「断命根」とは祖師方の機縁である公案に成り切ることによって分別心や自我を根こそぎにすることで、「死に切る」ともいいます。確かに四六時中の工夫をする場合には、公案工夫の方が三昧境に入りやすいと思います。「ひとーつ、ふたーつ・・・」と十数えることを繰り返すよりも、無字の公案のように「むーむー・・・」とやるほうが単純で無意識の境涯になりやすいでしょう。それで小衲のところでは、旧参の人たちには「四六時中無字三昧」の工夫を勧めております。

熱心に拈提する人の中には、応分の所得を得て、法悦に包まれて報告してくる人もありますが、それに対して小衲は必ず、「どんないい境涯が現出しても、それに尻を据えていては小成に安んじることになるので、駄目です。得ては捨て、得ては捨てです」と申し上げることにしております。

参禅をする人の中には公案を何則透過したかを何よりも重視する人もありますが、公案の数を数えるのが目的ではなく、公案の恩力によって心地を開発することが根本です。せっかく修行するなら本末転倒にならないようにしなければなりません。それで参禅の師とするのなら、安易に許可しない厳師につくことが望まれます。

坐禅に関心を持ち、人生を充実させたいと念じられる方々は、ご縁のある坐禅会に参加して大いに三昧境を養ってみられてはいかがでしょうか。真剣に工夫に没頭すれば、きっとこれまでの人生で経験したことのないような大歓喜を得られることでしょう。「一年の計は元旦にあり」です。皆さん方は一体どのような抱負を持たれたでしょうか。

「笑いと禅と免疫力」2015年12月【No.150】

最近よくガンにかかった有名人の人たちのことが話題になります。罹患した人の大多数が、どうやら手術や抗がん剤などの化学療法や放射線治療といったいわゆる「三大療法」に救いを求めているようです。ガン以外にも、病気になれば多くの人はすぐに病院へと走ります。こうした旧来の西洋医学一辺倒の治療に関しては、色んな問題点が指摘されているのは周知の事実でしょうが、それにもかかわらず大きな病人へ行けば、待合は大勢の患者さん(特にお年寄りたち)でいっぱいです。結局は自分の身を守るには、日頃から身心の健康に留意して、よく勉強して調べ、いざとなってもたじろがないだけの心構えが必要ではないでしょうか。

実は拙寺の檀家さんに江戸時代の漢方の名医といわれる中神琴渓翁の児孫のお宅があります。つい最近の十一月末に、琴渓翁の百八十回忌大遠忌法要を執り行ったばかりです。今ご依頼を受けて弟子による伝記である漢文の『中神氏獨語』の書き下しと註釈に従事しているのですが、琴渓翁がその門弟の疑問に答えた講義録が小田慶一氏によってすでに翻訳されております。小田氏はご自身が「現代の琴渓」と崇敬する山本巌先生のご指示により、この翻訳を行われたそうです。この山本先生というお方は、漢方でガンを初めとした難病・奇病の人たちを次々と治癒された実績をお持ちです。琴渓翁も同様です。その翁が寛政十年(1799)に著された主著ともいうべき『生生堂雑記』の冒頭には、昔、京都に住んでいた病人が十三年の間に色んな医者にかかって治療を受けたが、ますます身体の具合が悪くなって、とうとう薬を飲むのが嫌になり、或るとき勝手に薬を飲むのを止めてしまいましたが、そうするとかえって身体の具合が良くなり、長年の病気が二ヶ月ほどですっかり治ってしまった、という話をして、「やたらと医者にかかるべきではない」と戒めておられます。小田氏が「桁(けた)はずれな人物」(あとがき)と呼ばれて驚嘆されている正真正銘の名医がかくいうのですから、まさに痛快ではありませんか。薬漬けの人が多くみられる現代の私たちにとって、とても教訓となる逸話ですね。

現代の私たちも、医者や薬にむやみに頼らない養生法を心がけることが大切なのではないでしょうか。松本光正氏の『笑いと健康・君子医者に近寄らず』という書物があります。中村天風の最晩年の弟子である松本氏は、人間のもつ自然治癒力の強さを天風先生から叩き込まれ、私たちの健康にとって何よりも「笑い」とプラス思考が重要だと説いておられます。その文章たるや、まことに痛快で笑いに満ち満ちています。

俗に「笑う門には福来たる」と申しますが、現在ではそのことが化学的に証明されているそうです。笑うと、脳内麻薬(ドーパミン)が脳の中に出て末梢血管に広がり、血行が良くなります。すると新陳代謝が活発になり、老化や病気を防ぐようになり、悪いところを治そうと自然と体が張り切るという仕組みになっているそうです(同上書、20頁)。ひとたび笑うだけで、毎日5000個以上作られるというガン細胞が一瞬にして100個も消失するといいますから、笑いの効果たるや、とてつもなく素晴らしいものです。

二十年以上前に米国のカリフォルニア大学で行われた実験では、面白くないマンガを作り笑いしながら読むと、面白くなかったはずなのに、10分ほどして脳からドーパミンが出て、今度は本当に楽しくなってくるそうです。このことで思い出しましたのは、江戸時代の黒住教の創設者である黒住宗忠の次の逸話です。長く肺結核で寝ていた人の家に招かれた宗忠は、病人に向かって次のようにいったそうです。「長いご病気で、さぞお困りでしょう。しかし、このように陰気になってはおかげは受けられませんから、今日からつとめて笑う修行をして下さい」。

しかし当時では重病の最たるものといわれる肺病にかかって陰気になっていたので、そう簡単に笑えるはずがありません。懸命に笑う修行をしていると、ふと燈火の明かりでふすまに映っている自分の影が目に入りました。「いま、このしょげ面をもし誰かが見ていたらどんなにおかしいことだろう」とその有様を想像すると、思わずおかしさがこみ上げて腹の底から笑い声が出てきました。この声を聞きつけて家人が駆けつけ、笑い転げていた理由を聞いて、家族中が大笑いをしました。その結果、それまで重病人のいるせいで陰気だった家中がにわかに陽気になって、いつのまにやら重病であるはずの肺結核が治ってしまったということです。

手遅れになってはいけないなどを病を恐れ、人間ドックを生真面目に受け、ドックの結果に一喜一憂して陰気になって自然治癒力を低下させるよりも、お金のかからない「笑い」に満ちた日々を送る方がどれほど楽しいことでしょう。実を申せば、小衲も長年人間ドックを受けていた一人ですが、一緒に受けていた弟がそれにもかかわらず前立腺ガンになって逝去した頃から、西洋医学に疑問を持つようになりました。まじめ人間だった弟は律儀にも医者の勧めるがままに、コレステロール値を下げる薬を十年にわたり服用していたのです。おそらくこの病気になった最大の原因はこの薬の服用ではないかと推測できます。

小衲も実は高血圧なのですが、医者が測定を指示しても馬耳東風で、「血圧測定器など捨てしまう方がよい」という松本先生のご意見に「わが意を得たり」とほくそ笑んでおります。もっと深刻な病気の兆候(具体的には血痰です)があったときにも、病院に行かずに身体を温めて免疫力を高めることによって治しました。「そのように放置して、もし重病になったらどうするのか」という人もいることでしょう。結局、これはその本人自身の決断にかかっています。小衲の場合には、その結果、手遅れになろうが別に構いませんし、後悔は致しません。世の中には必要以上に神経質なほど体のことを気にかけて、病院に行ってかえって病気になっている人たちを何人も見ているからです。松本光正氏の『高血圧はほっとくのが一番』(講談社+α新書)を読むと、製薬会社と一部の医者とが結託して、私たちの体に悪影響を与える降圧剤などを普及させた事情がよく分かります。実態を知って唖然とする方も多くおられるのではないでしょうか。

さて、笑うことはもちろん素晴らしい免疫力向上の方法であることは確かですが、坐禅工夫を通して禅定に入ることによって得られる法悦の醍醐味は、それ以上の喜びです。自分の呼吸を「ひとーつ、ふたーつ」と数えることに専念して三昧境に入り、自己を空じ尽くす爽快さは、何ものにも代えがたい喜びだと言えましょう。

皆さん方も「笑い」と「禅定」で楽しい充実した日々を過ごして見られませんか。

「幽谷深山、華自ずから紅なり」2015年11月【No.149】

今年も二人の日本人研究者によるノーベル賞授与が続いたことは、誠に喜ばしいニュースとして日本中を駆け巡りました。生理学・医学賞の北里大学・特別栄誉教授の大村智(さとし)氏と、物理学賞の東京大学教授の梶田隆章(たかあき)氏です。お二人とも山梨大学と埼玉大学という地方大学の出身者です。特に大村氏に関しては、「2億人を病魔から守った科学者」とか「産学連携の先駆けで、それによって得た250億円を北里研究所の発展のために寄進した」というニュースが流れましたので、氏のことをもっと知りたく思い、馬場錬成氏による大村氏の伝記(中央公論新社刊)を取り寄せて拝読しました。

「大村先生の業績を広く知ってもらうため」という願いをもつ元特許庁長官の荒井寿光氏に伝記の執筆を依頼された著者の馬場氏が、大村氏に長時間インタビューしてその生涯と業績とを細部に到るまで克明に調べあげ、力作と呼んでしかるべき実録伝記を完成される原動力になったのは、初めてお目にかかった際に「大村先生の識見とお人柄に触れ」て感激されたからでしょう。テレビで拝見した大村氏には確かに他人を魅了する風格が感じられました。しかし事ここに到るまでにどれほどのご苦労と研鑽があったのかを、伝記を拝読して思い知った気がします。

大村氏の受賞理由はブユが媒介する寄生虫病であり、網膜に入り込んでしまうと失明するに到る熱帯地方のオンコセルカ症(河川盲目症)という感染症の特効薬であるイベルメクチンの開発でした。微生物や細菌が身を守るために産生する化学物質の中には人間や動物に有用なものが少なくありません。しかも大村氏はその開発を米国の大きな製薬会社であるメルク社と共同で行い、その特許で生まれた製品があると、その売り上げ高に応じてメルク社は北里研究所にしかるべき対価を払います。こうして支払われた対価の総額が250億円を越えたということです。単に研究者たるに留まらず、「研究を経営する」という辣腕の経営者としての才覚があったからこそ、経営不振に陥っていた北里研究所を見事に建て直すことができたのでしょう。

馬場氏が伝記を書きたいと申し出たとき、大村氏は「生まれ故郷の土地を見てもらいたい。自然と接して育った少年時代を抜きにして私の研究人生は語れない」と話されたということです。昭和10年(1935)に甲府盆地の豊かな自然の中で育った大村少年は農家の長男として野良仕事を手伝うと共に、父親から家長となるべく厳しい教育を受けました。農作業を手伝うことによって様々な自然現象への興味が身についたということです。大村氏はこの子供時代の経験について、「農作業の計画と実行は、化学における実験や作業計画とよく似ている。どちらも、将来を見越して計画を立て、臨機応変に変更していく。農業とは自然を学ぶことであり、農民は自然科学者であると思う」と言われたということです。足実地を踏んだ人の堅実な言葉ではないでしょうか。

父親は成績が極めて優秀だったのですが、18歳の時に父に死なれ、長男であったので進学を断念しました。大村少年が中学生の時に部屋の片付けをしていて、教科書とノート類からなる30冊以上の「高等講義録」を見つけたのですが、それは父親が多忙な農業の仕事の寸暇を惜しんで通信教育で勉強していたもので、大村少年は感動して、怠けていたわが身を反省したそうです。

また母親も20年間の教師生活をした後、農業や養蚕などに従事しましたが、特に養蚕の手法や結果が克明に書かれた日誌を見せられて、大村少年は非常に感銘を受けました。母親の教師時代の日誌の最後の頁には、「教師たる資格は、自分自身が進歩していることである」と書いてあるのを見つけて、大村少年はこの言葉を肝に銘じて生きるようになったといいます。

こうしてみますと、大村氏の今回のノーベル受賞の一番の土台となったのは、古き良き時代の日本人を彷彿とさせるご両親の生きざまであるとは言えないでしょうか。大分県国東半島出身の孤高の自然哲学者・三浦梅園(享保八年—寛政元年、1723−1789)に「人生恨む莫(なか)れ、人識る無きを。幽谷深山、華自(おの)ずから紅(くれない)なり」(人生莫恨無人識、幽谷深山華自紅)という漢詩があります。「他人が自分のことを知って評価してくれなくても嘆くには及ばない。深山幽谷に咲く花は、誰に見てもらおうという思いもなく、また誰からも顧みられることなくとも、精一杯見事な花を咲かせている」という意味でしょう。甲府盆地のただ中で実直に愛情を込めて子息を育てられ、将来のノーベル賞受賞者になられた下地を作られた大村氏のご両親に、「幽谷深山、華自ずから紅なり」の句を捧げたいと存じます。

「彼岸に到る」2015年10月【No.148】

拙寺の光雲寺は秋の紅葉で有名な永観堂の近くにあります。永観堂は南禅寺より古くからある浄土宗の寺院で、本来の名は禅林寺というお寺ですが、南禅寺本山への行き帰りや朝夕の柴犬を連れての散歩の際に、その前を横切ることが良くあります。

秋のお彼岸頃にその前を通り過ぎると、何やら書いてあるようなので、近寄って拝読してみますと、「先立たばおくるる人を待ちやせん、華のうてなの半ば残して」という法然上人のお言葉でした。意訳すれば、「皆さん方の近しい方が亡くなってあの世に行かれたら、きっとお浄土で蓮の華の台(うてな)の半分の場所を空けて、皆さん方のことを待っておられることでしょう。」という風になりましょうか。さすがはと感服した次第です。通常わたしたちは「自分が死ぬ」ということをとても恐れます。しかし亡くなってあの世に行った人から見れば、「こんなに素晴らしいところに来れることも知らずに恐れている」ということになります。

越後の良寛さんは長年の禅修行でお悟りの境地に達した方ですが、七十歳を過ぎて恐らくは直腸がんで亡くなられる前に、「われながら嬉しくもあるか、弥陀仏のいます国へ行くと思えば」と詠まれています。「弥陀仏のいます国」は悩み苦しみのある娑婆の「彼岸」であり、涅槃(ニルバーナ)というお悟りの世界です。良寛さんはご自分がおもむくであろう極楽浄土の存在を確信していたのだと思われます。法然上人も遷化される直前に、弟子のひとりが不躾(ぶしつけ)にも「お上人ほどの方ならば、お亡くなりになられた暁には、さぞかし極楽往生されるのでしょうね」と尋ねたのに対して、平然と「わしは日頃から極楽浄土に暮らしていたので、さぞかし極楽浄土へ行けるであろう」と応じられたということです。

映画の「おくりびと」の原作者であった青木新門さんという方は、職業柄、数多くの人の臨終に立ち会われたということですが、どの人も亡くなる直前には本当に仏のような安らかな顔になられるということを証言しておられます。実際に臨死体験をした方々のほとんどが「安らかな気持ちになって、蘇生後も死ぬことが怖くなくなった」といわれています。死に際しては、生物学的にもモルヒネの6.5倍の鎮痛効果のあるといわれるベータエンドルフィンのような脳内麻薬が出て、非常に心地よい陶酔感の中で死んでいくことが可能となることが分かっております。

そして他人やペットに対して愛情や思いやりの気持ちをそそいだときにも、その当の本人が一番恩恵を受けて、心地よくなることが科学的に明らかになっているそうです。来客に対して心をこめて歓待して帰られたあとは、何とも言えない心地よさを感じるのは、なるほどそのためかと合点した次第です。うつ病などで相談に来られた人が満面の笑顔で帰って行かれる姿を見るときには、わが身もえも言えぬ幸福感に包まれます。

しかし生きながらこの陶酔感の極致を味わうには、何といっても禅定に入ることに越したことはないでしょう。数息観でも随息観でも、あるいは公案三昧でも、丹田に気を込めて工夫三昧になれば、期せずして佳境が現前します。「到彼岸」の法悦の時節です。光雲寺の坐禅会には在家の方でこのような法悦を体験した方がいます。皆さん方も生きながら「蓮華のうてな」の上の住人になりたいとは思われませんか。

「真心再論」2015年9月【No.147】

先月のコラムには「真心を育てる」と題して、TBSテレビの『天皇の料理番』という番組を取り上げ、主人公の秋山徳蔵氏の言葉を引用しながら、真心をもって行うことの重要性をお話し申し上げましたが、よくよく考えてみまするに、「真心を行ずる」というのは申すまでもなくそんなに簡単にできることではありません。

日本近代の剣・禅・書の達人といわれた山岡鉄舟は、明治天皇の侍従をした功績を認められて叙勲されようとした時に、「まだまだお尽くし足らぬと思っているのに、叙勲などもってのほかだ」と断言し、「喰うて寝て何も致さぬご褒美に、蚊族(「華族」と同音語)となってまたも血を吸う」と自嘲したといわれております。鉄舟は西郷隆盛からのたっての依頼で天皇の教育係役を引き受け、元田永孚(ながざね)と共に、天皇から最も信頼された側近であり、誠心誠意、至誠の限りを尽くして明治天皇にお仕えしたことは疑いもないことです。その彼が「まだまだお尽くし足らぬ」とか「喰うて寝て何も致さぬ」とわが身を反省しているのです。これはおそらくは鉄舟の心からの真情であり、単なる謙遜などでは断じてないように思われます。

孔子の孫の子思が著されたといわれる『中庸』には、「至誠息(や)むことなし」とあります。至誠心(真心)を尽くすことはどこまでやってもこれで良いということはないということでしょう。鉄舟の上述の言葉はそのように理解されるのではないかと思います。幕臣であった彼のもともとの主君は、徳川慶喜という最後の十五代将軍でした。将軍にとって代わって最高権力の座についた天皇に新たに仕えることになった鉄舟は、将軍の部下であった旧武士達から口さがない批難を浴びたそうですが、それでも鉄舟は一向に弁明などせずに天皇にお仕えしました。

鉄舟と無二の道友であり江戸城を無血開城した勝海舟も徳川幕府の重臣から一転して明治政府に仕えたのですが、福沢諭吉は『痩せ我慢の説』を海舟のもとへ送ってこれを公表しても良いかを問い合わせたところ、海舟は「計らずも拙老先年の行為に於いて、御議論数百言御指摘、実に慙愧に堪えず、御深志忝く存じ候。行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候。各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候。」と一蹴した返書をしたためたということです。日本の国全体のことを考えた海舟に対して、徳川の立場に固執して「どうして江戸城を枕に痩せ我慢の一戦を交えなかったのか」と迫る偏狭な諭吉は、いかにも小人の感を免れないと思います。幕末三舟の一人である幕臣の高橋泥舟が「二君にまみえず」とばかりに隠遁したのも、鉄舟や海舟に比べれば、精彩を欠くものと言えましょう。

先に「真心を行ずる」ことの難しさに触れましたが、例えば草引きひとつにしましても、本当に心をこめてすることなどなかなかできません。天候不順で雨のよく降るこの時節には、雑草は引いても引いても次から次にと生えて参ります。拙寺では表の庭・裏庭・墓地・畑と四箇所の除草を順次行っているのですが、すぐに雑草が生い茂ってきて、なかなか綺麗にはできません。取り切れていない雑草を見て、「まだまだこれでは駄目だ」と反省する毎日です。

最後に『論語』述而第七にあります孔子のお言葉を味わいたいと思います。「文は吾れなお人のごとくなること莫(な)からんや。君子を躬行(きゅうこう)することは、則ち吾れ未だこれを得ること有らざるなり」(勤勉では私も人並みだが、君子としての実践では、私はまだ十分にはいかない)。

「真心を育てる」2015年8月【No.146】

TBSテレビ60周年特別企画として『日曜劇場 天皇の料理番』という番組が7月上旬に大好評の中に全12回の放送を終えました。回を追うごとに評判と視聴率が上がっていったドラマですので、ご覧になった方も多くおられることでしょう。小衲もあまり連続テレビドラマは見ないのですが、NHKの大河ドラマ『花燃ゆ』と、この『天皇の料理番』は例外です。杉森久英氏の同名の小説が原作なのですが、原作とはだいぶ異なるところがあります。しかしそのことでこのドラマの価値が半減することはないでしょう。主演の佐藤健さん以外にも、妻役の黒木華(はる)さん、主人公が「料理人の父」と慕う華族会館の料理長役の小林薫さん、法律を専攻するも志半ばで結核のために夭折する兄役の鈴木亮平さんなど、所を得た脇役さんたちがそれぞれ熱演していて、見どころ満載でした。多くの人たちが感想を述べているように、近頃まれに見る素晴らしいドラマだったように思います。

それは主人公の佐藤健さんが実際の料理学校で料理修行に励んで、プロも驚くほどの包丁さばきを身につけ(ジャガイモの皮を見事に剥く場面を覚えておられる方も多いと思います)、妻役の黒木華さんもプロデューサーから、「本当に主人公を愛して下さい」と言われて、佐藤健さんの日めくりカレンダーを自宅で使用したり、また鈴木亮平さんは結核のために夭折する病弱なお兄さん役作りのために20kgの減量をして、まるで本当の病人かと見紛(みまが)うばかりの見事な役者魂を発揮して、亡くなる場面では号泣する人が続出したといわれるほどの熱演をしました。うわべではなく、「本物」を目指そうとする心意気が、視聴者の感動を誘ったのは当然のことと言えるかも知れません。料理の世界も役者の世界もなかなか並大抵の気持ちでは貫徹できないことがよく分かります。

最近この光雲寺に入山下宿した大学院の学生さんが、「実家では『天皇の料理番』を家族みんなで興味深く見ていました。それで主人公の秋山徳蔵さんのことをもっと知りたく思い、その著作『味の散歩』という本を図書館で借りて読んでいるところです」といって見せてくれました。貸出期限までに全部を読み切ることはできなかったので、古書(60年ほど前の本です)を取り寄せて拝読しましたが、さすがに一芸を極めて天皇陛下の料理番を40年以上も勤め上げられた方だけあって、どの道にも通じる卓説を随処に散見することができます。

その中でも小衲が特に注目しましたのが、女性料理人の登場に期待する趣旨の「婦人のコック」と題する一段を締めくくる、「婦人は天性が料理のような仕事に向いているし、手先も器用である。味の感覚だって、煙草や酒に荒れている男子より鋭敏かも知れない。しかしなによりも、情が細かく、真心の深いのが最大の長所である。料理でも、つくるのは腕ではなく、けっきょく真心なのだから」(上掲書、53頁)という文章の一番最後の、「料理でも、つくるのは腕ではなく、けっきょく真心なのだから」という箇所です。

『味 天皇の料理番が語る昭和』という別の著作にも同様の趣旨が書かれています。「真心がつくる味」と題された一節には、「しかし、私にもしんからうまいと思って食うものがある。家庭のお総菜だ。これは、・・・(中略)専門家のつくる料理とは、全然別物なのだ。・・・(中略)何といっても、家で食べるものには真心がこもっている。しんから、うまいと思うのは、その真心のせいなのだ。」(上掲書、中央文庫版、88頁)とあります。またその次の「わが料理に悔なし」という一節には、「天皇陛下のお食事を何十年とつくられて心の安まることはないでしょうね」という問いかけに対して、「戦々兢々どころか、私は平気である。いつも気楽なものだ」と答えて、その所以を自ら考えるに、「陛下のお食事をおつくりするごとに、真心を捧げつくしていること、これだけは、世の中の誰にも絶対にヒケを取るものではない.私が自信をもっていい得ることは、これだけである。だが、そのためにこそ、私が心の平安を保っておられるのだと思う。仕事をしてしまったあとで気になることがない.悔いるところがない。」(91頁)と述べておられます。おそらく秋山徳蔵氏は、天皇陛下の日々のお食事をお作り申し上げるに際して、まるで愛しいご主人や子供たちのために真心をこめて作るお母さんのように、「家庭の味」を自然と心がけておられたのでしょう。

だいぶ以前のことになりますが、小衲は或る知り合いに招待されてカウンターで懐石料理を頂いたことがあります。結構なお値段がしたかと思うのですが、どうも心から感動できる味ではありませんでした。思わず、「幼い頃に祖母が作ってくれた琵琶湖のワカサギの煮付けの味が忘れられない」という言葉が口をついて出ました。祖母や母の作る味付けは、秋山氏がいわれるように、本当においしかったのです。

たかが料理の味付けと思ってはいけません。お寺の生活でも、一事が万事、心をこめて料理を作ることができないものに、心をこめて作務や坐禅などの修行ができるはずがないと思います。除草の作務が終わったときに、弟子のひとりに「あそこの所は草を引いたか」と聞いたところ、「ざっとやりました」という返答をしました。草引きを手抜きしてざっとしかできないものは、ろくな修行ができるはずがありません。案の定、その者には下山を命じざるを得ないような事態に至りました。これに対して、真心からする人は楽しみながらゆとりをもってできるはずです。そういう人の実践したあとは光を放って自ずから他人を感動させます。過酷な作務や厳しい坐禅修行でも四六時中の公案工夫でも、心をこめて行じていれば、愚痴や泣き言をこぼすことなく、かえって法悦に包まれるはずのものです。これは小衲が経験して、確信をもって断言できることです。

禅宗の初祖である達磨大師から六代目の六祖慧能禅師に、「一行三昧というは、一切処に於て、行住坐臥、常に一直心を行ずる是れなり」(『六祖壇経』定慧第四)という言葉があります。すべてのことに真心をつくす生き方は、六祖大師の「常行一直心」に通じるものがあると思います。

お寺に下宿している学生さんが帰郷する際に、「日頃、お寺で覚えた料理の腕前を奮ってご両親を驚かせ、喜ばせてあげたらどうか。食事の準備や洗い物をして、お母さんを手助けして差し上げたらどうか」というと、笑顔で元気よく、「やります!」といいます。こちらも若者のそうした素直な心の発露を見て、嬉しくなります。迎えに来られたご両親も彼をご覧になって、「以前とは見違えるようになりました」と満面の笑顔で帰って行かれました。

どうせなら、地位や名誉や金銭にあくせくするよりも、ゆったりと「金剛不壊(ふえ)の宝」であるわが真心を育てる一行三昧の人生を貫いていきたいものだとは思われませんか。今月のコラムは秋山徳蔵さんご自身の言葉を多く紹介しました関係上、いつもよりつい長くなりました。皆様方がますますご自身の真心を育てて行かれんことをご祈念申し上げます。

(なお、例年の如く、8月の月例坐禅会はお盆のために第2日曜日の9日は休会と致し、23日の第4日曜日のみと致します。毎土曜日の夜坐禅は休まずに行います。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「禅との出会い・坐禅の動機」2015年7月【No.145】

光雲寺は臨済宗南禅寺派に属する大本山南禅寺境外塔頭で、「北ノ坊町」と称されるところに位置しておりますが、「南禅寺禅センター」の看板を掲げての坐禅研修では、修学旅行の生徒さんたちを初めとして、一般成人の方、諸外国の方など、年間一万五千人を超える人たちが坐禅にやって参ります。それ以外にも毎土曜日の午後八時から九時までの坐禅と、原則として第二、第四日曜日に行う月例坐禅会とがあります。毎土曜日の坐禅は始めてまだ五年くらいかと思いますが、月二回の月例坐禅会は二十五年ほど継続していて、いまだに新たな方が参加されることがあります。

坐禅会に参加される人の具体的動機は色々あるでしょうが、そのいずれもに共通しているのが、「今の自分を変えたい」という願望でしょう。小衲が二十五歳で禅に出会い、二十八歳で在家から出家したのも、「このままの自分では駄目だ。何とかして今の自分を変えたい」という切実な思いからでした。在家から出家するというのはよほどの覚悟がいると思われるでしょうが、その当時の小衲にとっては実に自然な成り行きで、二十五歳の大学院博士課程一回生の時に、京都近郊にある学生ばかりの禅の道場に入ったのですが、ほどなく自分で出家の意志を固めて、剃髪しました。実家に帰り、バリカンで髪の毛を刈る小衲を見て、母は「お前、それでいいのか」と声をかけましたが、決意は微動だにしませんでした。

三ヶ月経って久し振りに実家に帰り、母と対面した刹那に、「お前、顔つきが穏やかになったなあ」といわれて、びっくりした経験があります。勝手気ままの通用しない、これまでとは格段に異なる厳しい修行生活に入ったことで、知らないうちに自らの我が薄紙を剥がすように取れて、性格も外見も角が取れて丸くなっていったものと思われます。確かに自分自身でも充実して心が明るくなり、他の人に対しても思いやる気持ちが出てきたことを実感しました。祖父の手をつないで商店街を一緒に散歩したときの、祖父の嬉しそうな顔が忘れられません。お酒が大好きだった祖父と一緒に飲む機会がなかったことが、いまは悔やまれます。

坐禅会に参加を希望する人たちも、職場などでストレスを感じて、それを何とか克服したい、自分の生き方を変えたいという思いで来られる方が多いようです。物事を否定的に受け取る生活態度を続けていると、自然に免疫力が低下するそうです。それに反して肯定的に受け取るようになれば、毎日が充実して楽しく、自然に免疫力も増進されるといいます。ロンドン大学のアイゼンク教授ががん患者千三百名を十五年間追跡調査した結果、絶望して後ろ向きの気持ちで治療を受けている人の約46%はガンで死亡しましたが、希望を持って前向きな気持ちを持続している人は、何と驚くことにガンで死亡したのはわずか0.6%に過ぎなかったそうです(野本篤志『がんが自然に消えていくセルフケア』五十八頁)。「心の持ちよう」とはよく言われることですが、そのことが私たちの身心に及ぼす影響力は想像以上のものがあるようです。

坐禅会に参加する人は一度限りではなく、できれば引き続いて参加されるのが望ましいです。その上に、「真剣に坐禅工夫をするぞ」という気迫のこもった坐禅でなければ、どうしても禅定力がついてこず、居眠りや雑念妄想に襲われます。在家の人たちは睡眠時間が足りない人は比較的少ないでしょうが、われわれ出家の修行者は専門道場では精々四時間の睡眠時間です。道心のある人はもっと睡眠時間を削って四六時中の工夫を目指してほとんど横にならずに工夫三昧に徹するわけですから、規矩坐中はよほど気合いを入れないと居眠りが出てしまいます。しかし工夫が純熟してくると、法悦がますます増大して不思議なことに疲れるような自分などいつの間にやら無くなってしまうようになります。

数息観でも随息観でも公案工夫でも、倦まずたゆまず続けていきますと三昧の佳境が育ってきます。坐禅会でもこうして工夫を持続して日々の法悦を味わっている人が何人かおられます。しかしたとえどれほどの大歓喜を得ようと、それに満足して尻をすえることなく、ますます工夫を努められるようにと、いつも申し上げております。坐禅の法悦は底無しです。皆さん方も坐禅に参加してこの限りなき法悦を味わってみられませんか。

 

 

「法縁・仏縁」2015年6月【No.144】

四月号のコラムで、南禅寺と妙心寺の両方の管長を経験された近代の名僧、高源室・毒湛匝三老師(天保十一年ー大正六年、1840ー1917)の一百遠年諱のことに触れましたが、去る五月二十二日に、南陽院での落慶法要に引き続いて南禅寺法堂での高源室一百遠年諱が執り行われ、斎座会場は本山の龍淵閣でした。僧俗含めておよそ百五十人が参加した盛大なる法要でした。

南禅寺塔頭の南陽院は、明治四十三年(1910)に毒湛老師が京都西賀茂にある南禅寺末寺の正伝寺の塔頭であった南陽院を、本山の塔頭である真乗院の地所の一部を分けてもらわれて移転再興されたお寺です。南陽院での落慶法要が最初にあったのは、毒湛老師一百遠年諱に向けて、現在の鈴木正澄和尚様が檀信徒の皆さんのお力添えのもと、本堂・庫裡・書院などの全面的耐震改修を行われたからです。最初に改修を企画されたのは十年前のことだそうです。小衲の光雲寺でも、四年前に大檀越東福門院三百年御忌と晋山式に向けて境内建造物の新築や修復を行い、落慶法要を含めて三種の法要を執り行いました。

先代の和尚様が四十歳代初めで早世されてから、現和尚様のご母堂様は質素な毎日を送られてお寺の経済を支えられたと聞き及んでおります。現和尚様には、相国寺僧堂の老師になりすでに遷化した小衲の弟や小衲自身もひとかたならぬお世話になっておりますので、光雲寺坐禅会のメンバー八人に加えて、自発的に相国寺僧堂の雲衲方五名の荷担をお願いしました(光雲寺坐禅会は以前は大層長期間、南陽院で会場をお借りしておりました)。役割り分担が三箇所に分かれ、しかも小衲は大方尊宿方のお世話係という重責を担いましたので、色んな所へ目を配らねばならず、正直申し上げて自坊での四年前の法要の時よりも気をつかいました。

何よりも特筆すべきは、この法要の引き出物のひとつとして禅文化研究所の能仁晃道師に依頼されて『訓註 毒湛和尚語録』を上梓(じょうし)されたことです。小衲は恩師の建仁寺前管長・湊素堂老師から、「大智禅師偈頌(曹洞宗の名僧、正応三年ー貞治五年、1290−1366)と共に、毒湛老師の語録を是非とも勉強するように。老師の語録は平易な言葉のみを用いて深い宗旨を表現しておられ、非常に優れたものだ」とお勧めを受けたことがあります。

南陽院和尚様は相国寺僧堂の雲衲方五名のみならず光雲寺坐禅会のメンバー八人にも南陽院と本山法堂の二箇所の法要に参列する機会を設けて頂き、特に在家の坐禅会のメンバーはこのような稀有の法縁に巡り会って感激の極みだったようです。法要のあとの本山の龍淵閣での出斎(昼食)の際には、着物と袴姿で、全員がなかなか頑張って機敏に動いてくれたような気がします。後日、そのうちのおひと方から次のような御礼のメールを頂戴致しました。

「昨日は高僧の法要のお手伝いに行かせていただき、有難うございました。幸運なことに、法堂での管長様の御様子を、はっきりと拝見することが出来ました。その御所作を直に拝見して、お声を直にお聞きして、感じるものが大きく、大変、勉強になりました。その他にも、見聞きするもの、初めてのばかりで、とても刺激になりました。(中略)
私坐禅会にお邪魔するようになってから、ちょうど丸三年になりました。少し解ったような気になっていましたが、今日からは、初心に帰って、心入れ替えて、頑張ろうと思います。ム―・ム―で頑張ります、至りませんが宜しくお願い致します。」

在家の皆様方もこの様な機会があれば、ぜひご参加されんことをお勧め申し上げます。きっと心に感じられるところがあるでしょう。

「更に参ぜよ三十年」2015年5月【No.143】

大本山南禅寺第二世住持の「南院国師(規庵祖円禅師)」(弘長元年—正和二年、1261−1313)は、南禅寺では「創建開山」と言われるほど、その功績を称揚されているお方です。十歳以前から禅修行の道に入られ、無学祖元(仏光国師)・心地覚心(法燈国師)・無関普門(大明国師)というその当時のお歴々の名僧方について修行されました。八十歳で南禅寺開山となられた大明国師が、入山一年に満たずして遷化される前に、ご自分の法嗣ではなく、当時二十名ほどいた修行僧の筆頭で、中国からの渡来僧であった仏光国師の法脈に属する三十一歳の南院国師を第二世として後住に指名されたのは、南院国師のずば抜けた力量を見て全幅の信頼を置いておられたからでしょう。

四月二日に五十三歳で遷化された南院国師の毎歳忌が四月一日の宿忌、二日の半斎と毎年行われます。小衲は今年の毎歳忌で初めて維那(いの)と呼ばれる法要の先導廻向役を勤めました。三年前の南院国師七百年大遠諱に際して国師の語録の編輯を本山から依頼された関係上、それまで何年もの間、こうした役配が免除されていたのです。その大遠諱が終了したのち、色んな役配が回ってくるようになりました。

禅宗の各本山ではその山独特の節回しがあります。妙心・建長・建仁・相国の各本山を経てきた経験はありますが、南禅寺本山の節回しはそれらとはだいぶ異なったところがあります。これまでも一昨年の亀山法皇忌、昨年の達磨忌の維那、そして春秋彼岸会の山門懺法(さんもんせんぼう)の鏧子(けいす、鳴らし物係)、香華(こうげ)、導師、自帰(ずき)などの役もやり終えたのですが、大明・南院・本光国師の毎歳忌の廻向はまたそれとは異なります。

そうした役配につく予定が分かれば、早い場合には半年前から山内の生え抜きの和尚様のところに通って特訓を受けるのです。今回の南院国師毎歳忌の維那は少しは廻向に慣れてきた小衲にとってはさほど難しいとは予想していなかったのですが、それでも、自分が「これでよかろう」と思っても、幾度となく間違いを指摘され、自分よりも若い和尚様の綿密な指導に感謝し、生え抜きの方々の実力に感銘したものです。二十八歳で出家して四十年、住山して足かけ九年を経た小衲が、いまだに廻向の教えを塔頭の和尚様に請うているということを知った在家の人たちは例外なくビックリされるのですが、しかし在家から出家して本格的な廻向など習ったことのない小衲にとっては、こうした習練はとても勉強になります。

本番の毎歳忌の維那の役割を何とか無事に済ませて、何人かの和尚方からは「うまくいった」と言われたのですが、戻ってから教えを受けた和尚様の先住様の廻向を聞くと、小衲とは比べものにならないほど深い味わいがあると痛感し、「自分はまだまだだ」と反省した次第です。

維那に関してはそのようにまだ新米ですが、坐禅弁道に関しては今度は教える側です。真箇の禅定に入ることができないうちは何があっても簡単には許しません。禅宗はまた日常の一挙手一投足にも抜かりがあれば厳しく指摘を受けます。そうした修行の有難味が分かる人ならば、たとえ在家の学生さんでも相手に諭(さと)すように一々指導します。掃き掃除や食事準備の折りなどには、「何をやりましょうかなどと他人に尋ねているようでは駄目で、一目見て自分が今なすべきことを察知して即座に動かねばならぬ。熟練の雲衲が数名いると実に流れるように物事が運ぶ」と、こちらが率先垂範しながら言うと、「なるほど」と合点がいくようです。もっとも学生さんにそれが身につくまではまだまだ習練が必要なことはいうまでもありません。

たとえこちらが指導する立場にあっても、それに尻を据えて満足するわけには参りません。食事の準備をする場合など、本当に動きに無駄や隙(すき)がないときには、まるで禅定に入ったときと同様の法悦や三昧境が現前します。しかしどこまでいっても「これでいい」ということはありません。向上の一路を目指して不断の研鑽を積む必要があります。「更に参ぜよ三十年」というのは、中途で安住しがちな私たちに対する恰好(かっこう)の指針になるのではないでしょうか。