先月のコラムでは「子弟の教育」に触れたが、毎回新たな参加者が何名かいる月例坐禅会や土曜ごとの夜坐禅、また修学旅行生や一般の人たちがまとまって参加する南禅寺禅センターの坐禅研修も、ここ光雲寺では盛んであり、参加者も増加の一途をたどっている。
最近初めて月例坐禅会に参加した若者がいた。彼は大学院の博士課程で政治学を専攻する学生で、光雲寺に二年半以上寄宿している先輩の人徳に感化されて坐禅を志したという。「先輩が光雲寺に住むようになってから、人格が円満になってみんなの尊敬を集めるようになった経過を目の当たりにして、坐禅の必要を感じました」と彼は心中を披瀝した。
実際、彼の先輩は、大学教授をしておられたお父さんが亡くなってから、光雲寺の檀家になって墓地に建立した墓石の前で、連日ひそかにお経をよんで供養していたのであるが、これは生前の父親に対する彼の気持ちを聞かされていた小衲にとっても、大いなる驚きであった。
学者の中には自分の研究本位で、あまり家庭のことを顧みない人がいるということを聞いている。高名な学者の中にも、奥様がずいぶんご苦労されたという逸話をもつ方もいる。そういう父親に、子息や子女が反発するのは無理からぬことである。小衲のところに相談に来る若い女性の人の中には、教育者である父親との関係がうまくいかずに悩んでいる人がことに多い。
とはいえ、お父さん自身も仕事の上で家族にいえない悩みを抱えながら、黙黙として家族のために日々頑張っておられるという面もあることを分かってあげなくてはならないのではないか。家庭の中での不和は、決してお互いのために幸せなことでも賢明なことでもない。
彼の先輩は多忙な研究生活の中で、夜坐や早朝坐禅を自発的に行っていたが、それだけではなく境内の内外の掃除や作務も厭うことなく参加した。それによって自分でも意識しない間に、いつのまにやら自我が薄紙をはがすようにとれていったということであろう。
自我のとらわれが苦しみのもとである。それから解放されて無我の自分が次第次第に感得されてくるから、心が柔軟になって真心が養われ、ひとの身になって考えられることができるようになるのである。博士論文を刻苦して書き上げ無事に博士号を授与された彼は、亡父の一周忌に際して、古くなってほころびが目立ってきた門幕を、御尊父の菩提を弔うために新調し、それを大学に奉職する自分の初任給をもって充てたい旨、申し出てくれた。亡き御尊父に対する何よりのご供養になるであろう。
この先輩の影響を受けて坐禅会に参加するようになった前述の学生は、外国語の文献を読み、論文執筆に精を出すだけであったこれまでの生活を一変させて、土曜の夜坐禅を含めて、週に四回は坐禅に来訪している。そのお蔭で、彼の顔つきは一見して分かるほど柔和になり、光を放ってきた。おそらくは、本業の学業の方もさぞかし進展してきたことであろうし、何よりも心に法悦が育ってきていることは間違いない。うれしいことである。
さらに、先日、以前坐禅会に参加したり、小衲と一緒に中江藤樹の『論語郷党啓蒙翼伝』を会読したりしてのち、東京の官庁に奉職した男性が久しぶりに訪ねてきた。彼は奥さんが早産で、お子さんが十日ばかりで亡くなられたにもかかわらず、「小さな大切な命を一つ失ってしまいしましたが、悲しいばかりではなく、喜びももらえました。天から何か特別なものを授かった気がします。仏道についてもまた異なる気持ちで考えました。久々に坐禅をして無になれました」と述べ、「こういう心境になれたのも坐禅に出会ったお蔭です」とお礼を言ってくれた。そして非常に辛い経験をしたにもかかわらず、彼の顔つきが以前よりはるかに円満になって耀いていたことに感動したのである。
以上述べたのは、小衲が身近で経験した「坐禅の功徳」の一端である。南禅寺禅センターの坐禅研修で修学旅行生が先生がたに引率されて来るのも、何か学業だけでは足りないものを感じておられるからであろう。明治時代以降、わが国では「行的実践」という側面が次第に軽視されてきたが、いま一度その必要性を反省して、ひとりでも多くの人が坐禅を実践して、心からの法悦を得られんことをお祈りするものである。
光雲寺の弟子の一人がいま臨済宗の専門道場(僧堂)で修行中である。ようやく三年が過ぎて四年目に入ったところであるが、安居(あんご、修行期間)が変わる半年ごとに暫暇(ざんか、休暇)を頂いて、光雲寺に帰山させている。つい先月も二週間暫暇したのち、また僧堂に戻っていった。
修行中の雲衲を弟子としておられる尊宿の中には、「うちの弟子は三年間無暫暇でやり通させる」と堅固な決心を抱いている方もおられると聞く。だが小衲は、自分自身の経験から、弟子たちにはこれまで僧堂にお願いして暫暇をさせてきた。
専門道場は規矩厳然としているのが確かに長所ではあるが、道心のある者は、時として規矩に束縛されることなく思う存分坐り込んでみたいという思いの起こることもあろう。独摂心(ひとりで坐禅三昧の工夫をすること)もこの時にこそ可能である。
また、僧堂での在錫年数が高くなると、老師や高単の役位からでなくてはなかなか注意を受けることがないので、どうしても自分が何か偉くなったように勘違いして増上慢になりがちであるから、厳格な本師の点検を受けて自らの到らぬところを指摘してもらわねばならぬ。また弟子の方でも師匠の親切心を感じ取って、我見を捨てていわれるがままに従っていく素直さが肝要である。
僧堂では書見はできないから、暫暇した時には越格底(おっかくてい、ずば抜けた境涯)の古人の行履(あんり、行状)を学んで道情を養うことを忘れてはならない。かの臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師でさえ、修行の合間に祖録を拝読することにより幾たびも大歓喜を得られたと伝えられる。「禅堂裡に坐禅弁道し、明窓下に古教照心する」というのが車の両輪の如く必要であるのは、白隠禅師の一番の法嗣である東嶺禅師も述べておられる通りである。
禅的生活の醍醐味を味わうためには、なんと言っても願心をもって日々修行に励むことである。全身全霊を打ち込んで四六時中公案工夫に没頭していると、えもいえぬ法悦(すべてを空じ尽くした無所得の法悦)が自然(じねん)に感得されてくるから妙である。法悦が育ってくれば、僧堂生活はますます充実してくるから面白い。
住職資格を取るだけのために不本意ながら僧堂修行をする者は、できるだけ修行を短期間で終えようとする。それではせっかくこの上もなき道に入った甲斐がないというものである。父親が師であるのは息子にとってよくないと思われ、他の有徳の尊宿にわが子を預かり弟子として托される和尚様もおられるのは貴いことである。
いずれの尊宿方もご自分の子弟の教育に日夜腐心しておられることであろう。小衲は暫暇してきた弟子に向かい、「ここは僧堂とは違い、自由時間が多い。こういう時にこそ道心ある者とそうでない者との差がはっきりする。ぬかりなく坐禅弁道し、古教照心に励むように」と訓戒した。
日常の一挙一動に関しては至らぬところがまだまだ目につくので、その都度再々にわたり注意した。僧堂の老師にはなるだけ長く下積みをさせて頂き、できるだけ長く僧堂に置いて頂くようにとお願いしてある。雲水の在錫年数が短いのを嘆かれる僧堂師家方は多いのである。
とはいえ、半年ぶりに彼を見た坐禅会の旧参の人の中には、「風格が出てきた」と彼のことを認める者もいた。毎回暫暇のたびごとに二、三日の休暇を取らせて実家に帰らせるのであるが、そうすることで実家や親戚に法の潤いが生じて、一族の希望の星となっていくのが如実に見てとれる。これが上求菩提即下化衆生(自らの向上の道がそのまま他を教化することになる)ということではないか。済度しようと思わないのに、期せずして済度になっているのが好い。
この弟子に対して僧堂に掛搭する前に読み聞かせた『雛僧要訓』の序には、「能(よ)くこれによって行いて怠らざる則(とき)んば、後日必ず明眼の宗師も崖を望んで退く底(てい)の妙高峰と成らん」とあった。この要訓をぬかりなく守り行っておれば、他事異日、悟りを開いた名僧ですら、その威風を見ただけで後ずさりするような高峰の如き妙(たえ)なる禅僧になることができるというのである。
このことがいかに困難であるかは身をもって知ってはいるが、師匠としては弟子の大成を祈らずにはおられないのである。「少なくとも師匠勝(まさ)りの弟子になれよ」というのが、小衲の口ぐせではある。「見、師と等しきときは師の半徳を減ず、見、師に過ぎて初めて伝授するに堪えたり」であり、「投げられて親方喜ぶ、相撲取り」である。
龍牙居遁(りゅうげきょとん)禅師という、中国唐代の名僧がいる。曹洞宗の開祖である洞山良价の法を嗣いだ禅僧であり、臨済禅師との問答も残っていることは、少し禅に触れた人ならばご存じであろう。
江戸時代の禅籍である『鉄笛倒吹』(てってきとうすい)の第二十八則に「龍牙古休」の話がある。「龍牙遁禅師、因みに僧問う、古人、箇の甚麽(なに)を得て便ち休し去る。牙曰く、賊の空室に入るが如し」(龍牙遁禅師にある僧が質問した、「古人は一体なんの道理をを得て大安楽の境地に至ったのでしょうか」。龍牙が答えた、「ちょうど盗賊が空室に入ったようなものだ」。)
この僧の問いに対する風外禅師の、「汝、什麽(なに)を得てか、恁麽(いんも)に休せざる」(かくいうお前は、一体なにを得てそんなに心安らかならずに質問するのか)という下語(あぎょ、禅的ヤジ)が面白い。これが下語の妙味である。龍牙の「賊の空室に入るが如し」に対しては、風外は「ただおそらくこの僧はこの空室という宝を捨て去ることができないであろう」と下語している。
盗賊が空室に入ることが、どうして大安楽につながるのか。また空室がどうして宝物といえるのか。しかもこの宝を捨て去らねばならぬとは、一体どういうことか。
盗賊は部屋の中にはさぞかし素晴らしい宝物があるに相違ないと思って進入するのだが、しかし期待に反して何もない空き家であった。修行に骨を折って悟れば必ずや目を見はるような境地に至るに相違ないと思いこんでいた者(盗人根性のある修行者)が、現に悟ってみれば、これといって所得はなく、本来無一物であることを知り、求め回る心がやんだのがちょうど同じようなことであると龍牙はいうのである。
この則に対する奥龍禅師の偈頌は格調高いものである。「幾たびか剣刃上に之(ゆ)き、また曾て薄氷を履んで猜(うたが)う。入得すれば是れ空室、偸心(ちゅうしん)死して灰となる。帰り来たって晨夕(しんせき)分に随って送れば、恰(あたか)も平地に徘徊を打するに似たり。清風明月、何の極まりか有らん。自家の宝蔵、ここに到って開く」(何度も剣の刃の上を歩くような苦難を重ね、また目指す境地をいろいろと推量して、薄氷を履む思いで疑った時節もあった。だが、悟入してみれば、空き部屋に入ったようなもので、所得とすべき一物もない。かくして、何とかして悟ってやろうなどという妄想分別は灰の如くに消え失せてしまった。そうした境地になれば、ただ腹がへれば飯を食らい、疲れたら眠るという、何らの造作も計らいもない淡々とした毎日である。悟ったならば思う存分に衆生済度をしようと思っていたが、悟ってみれば迷える衆生というのも見あたらない。自分自身も本来無一物(空)という宝物であることが分かった。)
臨済禅の修行では一則の公案に取り組んで、文字通り目の色を変えて工夫三昧になることが求められる。といっても、師家がいくら力説しても、やるか否かは本人にかかっている。自分の境地を顧みることなく、また悟りすらも求めることなく、四六時中ひたすら馬鹿になって真一文字に工夫を続けていると、知らず知らずの間に分別がこそげ落ち、八面玲瓏となってえもいえぬ法悦の境地が現前してくるから面白い。たとえ短時間でも真剣に工夫すれば、ただちに佳境に入ることが可能である。
禅の修行を格別にする人でなくても、あれこれ悔やんだり先のことを取り越し苦労したりせずに、眼前のことに心を込めて対処していれば、そのうちに道が開けるものである。たとえ不遇であっても、不満の念を起こさず、足るを知って日々を楽しんで過ごす人に、憂いの起こりようはない。
安楽の道がこの方向にあるということをお話すると、たちまち見違えるように顔を輝かせる人がほとんどである。どうかご自分の中にこそ真の宝物があるということを信じて、自信をもって生活して頂きたいものである。
新年明けましておめでとうございます。今年が皆様方にとってよい年でありますようにご祈念申し上げます。
回顧すれば、この光雲寺では昨年も色んな出来事があった。11月22日から一週間行なった「東福門院と光雲寺」展には一千人に上る方々のご来訪をかたじけなくしたことは、まことに有り難いことであった。心から御礼(おんれい)を申し上げたい。
年末には、2004年10月の円山川の氾濫による大水害で商売が壊滅的大打撃を受けられ、ついには廃業に追い込まれた丹後の豊岡市在住のご婦人(この方は弟子の一人の親戚にあたる方である)が、「お台所で皆さん方に使って頂ければ」というお手紙とともに、丹精込めて編まれた布草履を何足も送って下された。素足でその布草履をはくと、何ともいえないやさしい温かい感触が足の裏に伝わってくる。ご自身の逼迫(ひっぱく)した境遇にもかかわらず、お寺で修行している人たちに使って頂こうと思われて一心に編まれたその気高いお心持ちを思い、感激一入(ひとしお)であった。
また月例坐禅会や毎土曜の夜坐禅を通じて、多くの仏縁ができたことも本当に嬉しいことである。その大勢の方の中で、東京から月例坐禅会に参加された或る一流大学の理系教授がおられる。この方は一度参加されて大いに感激され、ふた月に一度の割合で来られる決心をされたということであるが、東京に戻られてからも実に真剣に工夫され、何度か法悦あふれるメールを頂戴した。「道心のある人は、わずかな策励によっても大いに修行が進むこと、この通りである。旧参の諸大徳も後れを取ってはなりませんぞ」と提唱で力説することしきりである。
普段でも小衲のところには、色んなことで面会に見えられる方々がいる。海外からの来客も多い。まさに嬉しい悲鳴である。たとい超多忙な日でも、面会を希望される方にはできるだけ時間を取ってお目にかかるようにしている。
特にこのところ真夜中に起きて、難解極まる南院国師(南禅寺創建開山)語録に取り組んでいるので、睡眠時間がだいぶ少なくなって、日中には疲れが出ることが多い。しかし、疲労困憊していても、来客とお会いしているうちに実に気分爽快になってくるから、まことに妙である。その法悦たるや、あたかも坐禅して三昧境に入って感得されてくる、えもいえぬ法悦に似ている。それは小衲がそうした機縁を厭うことなく、むしろ歓迎しているからでもあろうか。来客に対しては歓待(hospitality)ということをモットーとしているが、そのきっかけは撮影と取材に来られた米人監督一行が別れ際に、”Thank you for your hospitality”.と挨拶された思い出があるからである。
真宗の大安心を得られた妙好人の因幡(いなば)の源左さんのいうように、くたびれたらお茶にしたり一服したりすればよい。何も悩む必要がないから、まことに気が楽である。後悔の念や取り越し苦労があって相談に来られた人々に、「そういう思いを引きずっていては、今がおろそかになりますよ。眼前のことに心を込めて対処され、時々刻々を楽しみながら過ごされますように」とお話ししているうちに、例外なく、いつのまにやら前向きに変わられて、満面の笑顔になって帰られるのが、小衲のひそかな楽しみである。
今年一年も皆様方が日々を楽しんで充実しながら過ごされることを切にご祈念申し上げるとともに、この光雲寺もまたよき法縁に恵まれることを期待してやまない。
10月のコラムでお伝えしたように、この光雲寺では去る11月22日(日)より28日(土)まで、「東福門院と光雲寺」展と題して光雲寺紅葉展示会を開催した。幸い、紅葉の時節でもあり、予想以上の方々にご来訪頂き、光雲寺の総力を結集して行った甲斐があったというのが、正直な感懐である。お越し頂いた皆様方には衷心よりお礼を申し上げたい。
もともと今回の展示会は、耐震改修や新築などで色々とお力添えを戴いた方々に対して、多少なりともご恩返しをしたいという気持ちで当初企画したものであるが、日頃は「南禅寺禅センター」として数多くの坐禅研修者を受け容れている都合上、拝観希望者があってもお断りすることが普通なので、一般の方々も来訪されやすい紅葉の時節を選んだのである。
結果的にこの展示会は、開山・大明国師と中興・英中禅師、また特に、光雲寺をご自分の菩提寺として再興された東福門院様(徳川秀忠公のご息女で、後水尾天皇の皇后)を顕彰することになったのではないかと思う。木造東福門院像・伝運慶作の東福門院念持仏の聖観音像・伝聖徳太子作で足利尊氏の守り本尊と伝えられる弘誓(ぐぜい)観音像などは、いずれもこのたび新たに修復された姿でお参りして頂けることになり、解説担当者の詳細な説明により、「一層よく分かる」と好評であった。
また京都市指定の名勝庭園も、展示会に間に合うようにとほとんど休日もなしに池の護岸工事を敢行して頂いた造園業者の人たちや、剪定や境内整備をやって頂いた庭師の方にもひとかたならぬお世話になった。多くの来訪者が見事に色づいた紅葉を愛でられながら、庭や池の周囲を散策されているのをみて、展示会にご招待した庭師の人たちに、「皆さんとてもきれいだといって喜んでおられますよ」と報告すると、「嬉しいです」という正直な答えが返ってきた。
実は名勝庭園の整備はまだ中途段階なのであるが、今回の展示会の様子を見て、植栽や苔植えなどの追加工事もできるだけ速やかに行いたいという念願を強固にした次第である。そうして光雲寺を訪ねる方々が一歩足を中に踏み入れるだけで心が清浄になる、そういうお寺になるのが理想である。
ともあれ、今回の展示会の盛況はひとえに、開山・中興禅師と開基の東福門院様のご遺徳と、縁の下の力持ちになって頂いた方々のご尽力の賜物(たまもの)にほかならない。これにより、ますます仏縁が増加し、ひいては仏法が興隆すればと念ずるばかりである。 合掌。
ある方からのご招待で、四国の宇和島にある伊達美術館の「戦国武将伝ー信長・秀吉・家康・政宗ゆかりの品々ー」展(9月1日より10月4日)を拝見することができた。特に大徳寺総見院所蔵の信長像(重文)や南禅寺金地院所蔵の武家諸法度草稿(重文・本光国師筆)が圧巻であった。
聞けば、仙台の伊達家などは政宗公以来の名宝の数々を明治時代に売り払ってしまったが、宇和島の伊達家は今に至るまで先祖伝来の家宝を大切に護持して、その管理を伊達美術館に寄託しているということである。宇和島の伊達家十万石といえば、「幕末の四賢侯」といわれた伊達宗城(むねなり)公が有名である。
この際にぜひということで、松山の道後温泉にも招待されたが、さすがに日本屈指の伝統を誇る道後温泉の泉質は抜群であった。ご存じのお方も多いと思うが、この11月末から司馬遼太郎氏原作の「坂の上の雲」のテレビ放映が始まるということで、松山はなかなか盛り上がっていた。
いうまでもなく、この著作は、愛読書の筆頭にあげる人が最も多いといわれる司馬氏の代表作である。日露戦争の功労者であった秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟や正岡子規などの松山出身者を中心として、明治の近代日本の勃興期を生き抜いた青春群像が前半の主題であり、後半は日露戦争の詳細な描写が続く。「乃木大将愚将論」など問題となりうる部分もあるが、明治を生き抜いた人々の気概と当時の時代状況を知る上で格好の読み物であり、テレビ放映が待望されているのは当然のことであろう。
この松山行きで、「晩年の秋山好古と周辺のひとびと」という副題の『秋より高き』(片上雅仁著、アトラス出版)という好著を一読する機会を得た。弟の真之は日露戦争の際に連合艦隊司令部参謀として東郷平八郎司令長官から「智謀湧くが如し」と称賛されたほどで、日本海海戦の頭脳となった人であるが、大正7年に現役の海軍中将のまま49歳で逝去している。兄の好古は日本最初の騎兵部隊を設立し、日露戦争でその当時最強をうたわれたロシアのコサック騎兵団を独自の奇想天外な戦法により撃破した。
秋山騎兵団の参謀を務めた森岡大将という人は、また好古をこう評している。
「秋山将軍の性格は、乃木大将の性格によく似た所があり、非常にまた乃木大将を崇拝していられたと共に、乃木大将もまた将軍を信ずることが頗(すこぶ)る厚かった。そうした両将軍の関係は、日露戦争の末期、敵を奉天から北に追撃してから後の対陣中、乃木将軍が騎兵集団司令部に将軍を訪ねられた時、お二人の交情まことに濃かなものがあったことなどから見ても、それを推測するに難くないのである」。英雄、英雄を知るというべきか。
好古は日露戦争直後、自らの国家観・人生観を次のように述べている。「国家の衰退は常に上流階級の腐敗より起こらないものはない。一家一族は国家の実利を挙げたならば、名利を放棄して、速やかに閑居する必要がある。これが私の多年の宿論だ。それゆえ、その素志を果たそうとしたことは一再にとどまらない。しかし、いまは事変のため、戦場に赴くことになるだろう」「勝ち戦に驕(おご)り功名を追えば、敗れる」。さすがはと思わせる見識の高さである。
前掲の書は、功なり名をとげて退役してのち、陸軍大将としての肩書きを持ちながら、好古がこの自らの信念に違(たが)わず、郷里松山の中学校校長として赴任してから昭和5年に71歳で亡くなる半年前まで6年2ヶ月にわたり、無遅刻無欠勤で校長としての勤めを果たした、その交友録である。名利をなげうったこの驚嘆すべき椿事(ちんじ)に関して、全国紙が「秋山大将、錦を捨てて郷里の中学校校長に」などと書き立てたという。
この好著の読後感を一言でいうならば、秋山好古を取り巻くひとびとには高邁な見識と実行力を兼備した人格者が多い、ということである。それらのひとびとにはある共通点がある。それはいずれも漢学の素養が深いということである。漢学とは中国の伝統的学問であるが、それは聖人賢者の経書(けいしょ)の素読を基本とする。儒教というのは単に聖賢の教えを学ぶだけではなく、それを実践躬行することを主眼とする。
コラムの表題は、秋山兄弟と親交のあった正岡子規の「松山や、秋より高き天守閣」という俳句からとった、その著作の表題を拝借したものである。松山の人たちのみならず、幕末から明治初頭に生を受け、明治・大正・昭和初期を生き抜いたわが日本の先人たちは、「秋より高き」高邁な人格を東洋的薫陶によって身につけられたのであろう。この誇るべき伝統がほとんど地を払ってしまったことは、まことに残念でならない。
この光雲寺では2年前に「東福門院と光雲寺」展を開催したことがある。好評ではあったが、何分にも南禅寺禅センターとして修学旅行生はじめ多くの坐禅希望者を受け容れていたので、三日間しか期間がとれず、苦情を頂戴した次第であった。
今回は多くの皆様方のお力添えにより修復がなった、木造東福門院像・伝運慶作の東福門院念持仏の聖観音像に加えて、光明皇后が印度僧から譲り受けられた仏舎利を祀る舎利塔(菊と葵の御紋入り)・伝聖徳太子作で足利尊氏所有と伝えられる弘誓(ぐぜい)観音像・金光明最勝王経の版木・中興英中禅師自筆の「光雲門下訓誡十條」など、初公開のものも多数含まれる。
期間は平成21年11月22日(日)より28日(土)までで、時間は午前9時から午後5時まで(ただし最終日は午後4時まで)である。日頃は一般公開をせずに拝観希望をお断りすることがほとんどなので、このたびはなるだけ多くの人たちにもお越し頂けるようにと、ちょうど紅葉の時節に合わせて特別展示会を開催することにしたのである。どうぞお誘い合わせの上、この機会にぜひ光雲寺の寺宝をご覧頂ければと願う次第である(志納料500円。ただし、お力添え頂いた方々にはご招待状をお送りする予定です)。
また、80歳になられる出雲焼の名工・長岡空権(くうごん)師が、庫裏の耐震補強計画中のわが光雲寺のために、伊羅保茶碗を百碗ばかり作成して下さる予定である。試作品のいくつかを拝見するに、誠に見事な出来映えである。興味のある方は展示会の折りにご覧頂き、ご注文頂ければ幸いである(志納金、一碗につき8万円)。
前庭はすでに整備が終わり、京都市文化財保護課の指導により、植治作の中庭がいま池の護岸工事の最中であるが、これも11月22日の展示会初日の当日までは、何とか水を張って形を整えることができそうである。
とはいえ、いくら伽藍が整備されようが、それだけでは「仏造って魂入れず」になりかねない。この場合、伽藍が造形物としての「仏」(仏像)であるとすれば、人材の育成こそが寺院の「魂」ということになるであろう。禅寺における「人材の育成」とは、在家出家を問わず、真に道心のある人物を育てることである。道心とは菩提心のことであり、自分ひとりの安心立命をこととせずに、ひたすら仏道に精進をする人である。仏道との出会いによって、いかに充実した人生が送れるかということは、小衲のような者でも自信をもって断言できる。
光雲寺中興の英中玄賢禅師が寛文6年(1666)に制定された自筆の「光雲門下訓誡十條」には、仏弟子としての心構えが一条一条ごとに説示され、それに背く者は光雲寺から「出院すべし」と、まことに厳格に規定されている。寛文4年の光雲寺中興当時には、50人の英霊漢達が5300坪の境内の中で切磋琢磨していたと伝えられているが、その大人数ではおそらく本筋を逸脱するようなふらちな輩もいたことであろうことは想像に難くない。
たとえば、「訓誡」の第3条では、「仏弟子としてはつとめて師命に従うべきである。仏陀の戒律には父母と師匠である僧に孝順でなければならぬとある。孝順こそは至極の大道の法である。・・・師匠の恩はもっとも大なるものであるから、いちいちの教示訓誡に四六時中背くことはあってはならぬ。ましてや師匠の訓誡と衝突するなどもってのほかである。そのような者は仏弟子ではない。光雲寺を下山すべきである」と厳しく規定してある。
「光雲門下訓誡十條」の全文はいずれまたお目にかける予定であるが、それにしても、光雲寺山内修行者の基本的心構えが説かれた、光雲寺にとって一番大切なはずのこの中興禅師自筆の文書が、無造作に丸められて長持ちのなかに放置され、虫食いだらけになっていたことは(このたびはもちろん修復して、巻物として展示するが)、近年の光雲寺の法燈がいかに下火になっていたかを物語っているのではないか。この「光雲門下訓誡十條」の五条までが彫られた扁額も、廃屋同然の納屋の屋根裏から発見されたが、それも目下修復中である。
庫裏の耐震改修完了まではまだまだ遠い道のりであるが、伽藍が整備されてからは、いよいよ光雲寺の法燈の再興の仕事をしなければならない。皆様方の越格(おっかく)なるご支援・ご法愛をお願いする次第である。
願わくは、われらと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを。
(なお、10月の月例坐禅会は、本山行事のために、4日の第1日曜日と25日の第4日曜日になります。11月は上記展示会開催のために、8日の第2日曜日と29日の第5日曜日になります。土曜日の夜坐禅は変更はありません。)
中国宋代の黄龍祖心禅師(1025-1100)は晦堂(まいどう)祖心ともいい、建仁寺開山栄西禅師がその法脈に連なる名僧であり、その嗣法の弟子には死心悟新禅師や霊源惟清禅師などの卓越した禅僧がいる。有名な黄庭堅(山谷)も在俗の身で祖心禅師の法を嗣いでいる。
十歳にして出家得度され、長じてのちに雲峰文悦禅師に参じること三年、何らの所得もなく辞去せんとしたところ、文悦禅師は「必ず黄檗山に住する慧南禅師の道場に行ってご指導を受けよ」とさとした。そこに弟子の大成を願う、法に対する古人の大悲心が感じられる。
祖心禅師は黄檗に至って慧南禅師のもとで刻苦すること四年、しかもなお開悟することはできなかった。この道場は自分には機縁がないと思われたのか、また辞して文悦禅師のところへ戻られた。文悦禅師が遷化されたのち、石霜山にとどまって修行に専心した。
或るとき、中国の禅宗史である『景徳伝燈録』を読んでいて、「僧が多福(無字の公案で有名な趙州の法嗣)に、『多福の竹林とはどのようなものか』と問うと、多福は『一本、二本は斜めの茎だ』と答えた。僧が『分かりません』というと、多福は『三本、四本は曲がっている』と応じた」という箇所に出くわした。竹に託して多福の家風をたずねた僧に対して、実際の竹の光景をもって答えたのに妙味がある。この一段に至って祖心禅師は開悟して、自分がいままでついた二人の老師の作略(さりゃく、修行者を導く手法)の何たるかを徹見した。
ただちに黄檗に戻り、慧南禅師に対して礼拝の坐具をのべようとしたところ、慧南禅師がすぐさま見抜いて、「お前はすでにわしの宗旨を会得したわい(わが室に入れり)」というと、祖心禅師は跳(と)んで踊らんばかりに歓喜して、「仏法の一大事は本来このようなものなのに、どうして老師は公案などを使ってあれこれと探索させられたのですか」と問いただすと、慧南禅師は、「もしわしがお前をそのように究め尋ねることをさせて無心の境地に到らしめ、みずから見て、みずから納得するような体験をさせなかったならば、わしはお前を台無しにしたことであろう」といった(『五燈会元』巻第十七、黄龍祖心禅師章)。
祖心禅師の見性開悟の機縁をながながと述べたのは他でもない。ここに公案修行の意義が如実に言い表されているからである。黄龍祖心禅師のような名僧でも、真の開悟までは並大抵のご苦労ではなかった。今日の修行者たちも中途で挫折することなく道心を保持して骨折りを続けていけば、必ずや光明盛大なること明白である。工夫三昧の法悦を味わうことなく過ごせば、道場に長くいる甲斐があるまい。
これまでこのコラムで何度も触れたことのある七十七歳の米人哲学者から数ヶ月ほど前に、「私は父母未生以前の本来の面目ということがどうもまだ合点が行きません。どうかこの問題を解決するための公案を与えて下さい」というメールが来た。彼自身はこの問題を解決するためにふさわしいと思われる公案の名を挙げてきたが、小衲はそれよりも『碧巌録』第一則の「達磨廓然無聖(かくねんむしょう)」の公案を見るように勧め、「くれぐれも頭で考えられることなく、ただ廓然無聖の公案三昧になって四六時中過ごされんことをご祈念致します」とアドヴァイスした。
二週間ほどして送られてきた法悦あふれるメールからは、彼がじつに真正直にこの公案に分別なしに取り組み、大歓喜を得たことがうかがえた。「達磨も悦峰(The Peak of Joy、小衲が付与したこの老哲学者の居士号)であることがよく分かりました」とは、彼の悦びの叫びに他ならない。それにしても長年ギリシャから近代に至る哲学の研究に専念してきたこの老哲学者が、膝が悪いがために椅子坐禅しかできないにもかかわらず、かくも分別を放下(ほうげ)して素直に工夫し、遂には大歓喜に達し得たのは感心する他はない。坐禅会の提唱でこの米人老居士に言及して諸氏を策励すること再三である。
小衲が雲水修行に出る前に師匠から頂戴した一枚の墨跡の絵葉書がある。中国南宋時代の名僧、虚堂智愚禅師(1185-1269)の「秋風の偈」を大徳寺開山・大燈国師が書かれたものである。「秋風浙々(せきせき)、秋水冷々、千辛萬苦、笈(きゅう)を負い簦(とう)を担う」というのは、夏安居(げあんご)の修行期間が終わり、これから行脚雲水修行の旅に出る弟子たちに向かい、虚堂智愚禅師が、「夏安居の解制になり、秋風がざわめき、流水も冷たさを感じる昨今であるが、これから諸大徳は笈(おい、書物などを入れて背に負うもの)や簦(かさ)を担って測り知れぬ苦労の旅にでるが、どうかその辛苦に負けて挫折するすることなく、工夫三昧で大器を成就してもらいたい」と餞別の偈頌を唱えられたものである。愛弟子たちに対する名僧の切なる親切心が感じられる。
この葉書を頂いた師匠は小衲にとっては実際にその座右に近侍して仕えた方でなく、他からの指示によりやむを得ずそうなったいわば名義上の師匠であり、またご自身も長い雲水修行をした方ではなかったが、この葉書を下さった時の光景が今でも忘れられない。ときおり思い出しては懐かしさと感謝の念がこみ上げてくる。餞別として頂戴したのはこの葉書一枚であったが、小衲にとっては何よりの餞別であった。
いずれの師匠も弟子の大成を願わぬ人とてない。在家出家を問わず、禅の修行を志す方々は、思う存分工夫に打ち込んで、痛快な法悦を得て報恩の実を尽くして頂きたいものである。
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わが光雲寺では近ごろ耐震補強に加えて庭園整備も順次行なっている。東福門院が寄進された仏殿の前庭整備が終わり、今年から来年にかけて京都市指定の名勝庭園である植治(七代目小川治兵衛)作庭の中庭の復元を予定している。
この庭園整備計画会議の中心となっておられるのは「植治の庭」の最高権威である尼崎先生であるが、この先生と京都市文化財保護課からご紹介頂いた二人の庭師の方が中心になって実に熱心に仕事をして下さり、前庭が以前とは見違えるほどになったのはありがたいことである。
墓参の檀家さん方や訪問客も「きれいになりましたね」と大いに喜ばれるのは住職としてうれしいことで、長年放置されていた前庭や池を思い切って整備してよかったとつくづく思う今日この頃である。無論、光雲寺からも住職を初めとして弟子たちなどもできる限り荷担したのであるが、この経験を通して色々と反省するところがあった。
寺院というのは元来「清浄の伽藍」であるべきものである。修行に出る以前に雛僧(すうそう)が学ぶべき『雛僧要訓』にも、「総じて阿蘭若(あらんにゃ、出家の住居)の境は平生清浄にして、俗家の来詣(らいけい)する者をも浄心を起こさしむること、法中の教えなり」とある。門前を毎朝掃除し境内や墓地の除草をするのは寺院生活者として最低限の務めであろう。
しかし、「清浄の伽藍」を維持するのは「言うは易くして行うは難し」で、そんなに簡単なことではない。特に雨が降り続く梅雨どきなど、雑草は抜いた後から瞬く間(またたくま)に成長する。前述の庭師さんらが、「私らは最初に作るだけで、日々の維持管理はお施主さんの方でやって頂くことになります」という通り、作庭は一端のことであるが、清浄を維持していくのは毎日の隠れた努力の継続が必須となる。
しかし、有り難いことに、雑草が生えるから除草の作務ができるのである。小衲の経験から言えることは、草引きをしながらの公案工夫ほど乗るものはない。「公案工夫」とは禅の名僧が悟りを開かれた機縁に一心不乱の三昧になることにより、名僧と同じ境地に到ろうとするものである。そのうちもっとも有名で基礎的な公案が「無字の公案」である。早朝掃き掃除をした後で、庭や墓地の除草をするのは無上の喜びである。
弟子たちには「四六時中、作務(さむ)をしながらでも無字三昧の工夫をせよ」と始終言っているので、掃きながら草を引きながら「無ー無ー無ー」とやって法悦境を育てているようであるが、師匠である小衲の眼から見れば、またまだ工夫の真剣味が足りない。第一、師匠に言われなくても目の色を変えてやるというのが本当である。公案工夫や禅の生活における日常の一挙一動はいくらでも向上洗練の余地がある。どこまでいっても、「未在、未在」(まだまだ)である。そこが実に有り難い。
先述の二人の庭師さんたちは、お一方(ひとかた)が三十五年の、もう一方が二十年の経験のある大ベテランであるが、一方は独りで仕事をうけおい、いま一方は造園会社に勤務中であるが、実に息の合ったコンビのように見える。小衲が感心したことは、二十年の経験のある方が、庭の整備について三十五年の大先輩に逐一聞かれて指導を仰いでおられたことである。しかし、三十五年の経験のある方も決して増上慢になることなく、「結局、毎日をそこで暮らしておられるお施主さんのご意見が一番尊重されなければなりません」と言われる。小衲の意見を取り入れてもらって、結果的に「よかった」と言われたことが何度もある。
弟子たちには、「見ろ、庭師さんの修行も、十年、二十年でもまだまだ不十分だと感じておられるぞ。まだまだ向上の余地があるということだ。禅の雲水修行が、たかだか三年や五年で済むと思ったら大間違いだ」と忠告したことである。名僧の行応禅師が前述の『雛僧要訓』の中で、「小年より(若い頃から)住院は遅く、修行の間は長きように祈るべし」と訓戒されているにも関わらず、近年ますます雲水の修行期間が短くなりがちであり、僧堂の老師方も苦慮しておられる。これは雲衲の師匠方も心せねばならないことであろう。
禅の修行は雲水時代が一番の華である。工夫三昧の毎日を送っていれば、これほど充実して楽しいことはない。法悦の醍醐味を日々味わって過ごすのが雲水生活の何よりの悦びでなければならぬ。
小衲も二十五歳の折りに、長岡禅塾で学徳兼備の名僧であられた五十歳年長の森本省念老師の薫陶を頂いたが、いまもし老師がご健在ならば、いまこそご指導を仰ぎたく思う。
小衲が亡き弟の拈華室(ねんげしつ)芳州老師と共に、相国寺前管長の梶谷宗忍(止々庵)老師から印可証明を頂戴したとき、お願いして「更に参ぜよ、三十年」の墨跡を揮毫(きごう)して頂き、「この気持ちを忘れぬように致します」と申し上げたが、果たしてその後、真に研鑽の日々を積んだかはなはだ心もとない。
出家在家を問わず、禅に志す方々は思う存分工夫三昧に徹せられて、のちにほぞを噛むことのないように無上の法悦を得て頂きたいと願わずにはおられない。
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東京藝大美術館で行われていた「尼門跡寺院の世界ー皇女たちの信仰と御所文化」展が盛況裡に終了した。小衲が訪れた最後の週になってからは特にご婦人方が大挙して来られ、主催者側も、「あと2週間展示期間が延長できれば嬉しいのですが・・・」などと喜んでおられた。
皇族方も天皇皇后両陛下を初めとして多くの方々がお見えになったが、特に皇后様は、「宮内庁にはすでに伝わっていないものが、門跡寺院には伝わっていて、なるほどこういうことでしたかと分かったことがあります」と感想を述べておられたということである。
この光雲寺からも、門跡寺院の有力な外護者であられた東福門院の木造お像と肖像画を是非とも出展させて頂きたいという依頼があり、14歳で江戸から京都の朝廷に入内された東福門院をせめてお像なりとも切望されていたお国帰りをさせて差し上げたいと念願して出展を快諾したことは、すでに以前申し上げた通りである。
幸い多くの方々からのご喜捨と財団からの補助により、木造東福門院お像もきれいに修復されて歴代徳川家の墓所のある上野の寛永寺に至近距離の美術館で展示されることとなったのは、まことに奇しき因縁を感じる。これも公武和合に腐心された東福門院様のお徳の故であろう。皆様方のご支援に深く感謝申し上げる次第である。
それにしても、今回の展示に際して蔭ながら漢文の語録の読みなどのお手伝いさせて頂いた経験から、門跡方の中に道心堅固で力量のある人がおられたということを知り得ることができた。たとえば、天龍寺開山・夢窓国師の『夢中問答』の相手である足利直義(尊氏の弟)の妻女であった、京都西山の本光院開山無説尼のごときは、夫の直義が尊氏に暗殺されたためであろうか、発心して夢窓国師のもとで(生れてきて死んで行くこの自分は一体何ものかという人生の一大事)を解決せんがために、馬祖大師ゆかりの「即心即仏」の公案に必死になって取り組んだようである。
夢窓国師の法嗣の普明国師は無説尼のことを、「晩年になって深く浮世の空しさを嘆いて、自ら髪を断って出家した。禅門に入ってからというものは、苦楽や順境逆境に遭遇してもいささかも心を動じて念を起こすことなく、その道心は禅の修行に習熟したと自称する久参底の禅僧に比べても、何らの遜色がなかった。」と称賛しておられる。
また光照院中興で後西天皇の皇女であった大規尼は、わが光雲寺の中興の英中玄賢禅師の法嗣で相国寺の別宗祖縁禅師の指導のもと痛快に見性されたが、その力量のほどはその「下語(あぎょ)」(禅的ヤジ)を見ればよく分かる。
先日の月例坐禅会へも女性お二人が新規に見えられたが、どうも男性よりも女性の方が熱心のように見受けられる。そのことはまた女性の方がより心の安らぎを求めておられるということかも知れない。お二人は坐禅が終わった後の小衲との対話が済んで、輝くような笑みをたたえて帰っていかれた。
禅に参ずると確かに心境がよくなり、悩みが解消するということがある。一人でも多くの方々が禅に参じてその法悦を知って頂きたいものである。
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先頃、大学教授を殺害した容疑でその教え子が逮捕されたが、その手口はきわめて残忍であった。どうやら思い込みの激しい性格の学生がその後の自分の就職がうまくいかないので、進路指導をしてくれた教授をむやみに逆恨みしたものらしい。こんなことで殺されてはたまらぬと、先生方の中には動揺が広がっているという。
時おり光雲寺に訪ねてくる博士課程の大学院生との間で先日この話題が出た際に、彼は驚くべきことに、「自分のゼミではほとんどみんな精神状態が異常で、後輩の中にいかにも今回の容疑者に似た者がいます」と告白した。思わず、「そんなことではいったい何のために学問をしているのか」という言葉が口をついて出たほどである。
単に学術文献や洋書の原書を読むだけでは心の平安は得られるものではない。心を陶冶するとか修養するとかいうことがなければ、足実地を踏んだ充実を得ることは難しいであろう。奇(く)しくも最近拝読した、「明治・大正・昭和…親子で読みたい」と銘打たれた『精撰 尋常小学修身書』(八木秀次監修 小学館文庫)の読後感を「非常に有益だった」と伝えると、かの院生は「やはりそうでしたか」と応答した。
「修身」などというと、すぐに国粋主義者よばわりされかねないが、それは明らかに偏向的な戦後教育の弊害と言ってよい。小衲の弟子の一人は、「学校の先生が日本のことを悪い国だ悪い国だと繰り返すのが嫌で嫌でたまりませんでした」と述懐している。人間でも、「お前は駄目なやつだ」と言い続けられれば、「自分は駄目な人間なのだ」と自信を喪失するのは当然である。国家に関してもしかりである。中国や韓国の顔色をうかがう昨今のわが国の政治家やマスコミの自信のなさは情けないほどである。
これに対して、たとえ重度のうつ病の人でも、「あなたは決して駄目な人ではない」と自信を持たせるようなことを言えば、自分で作り出した病であるからいつのまにやら雲散霧消するという事実は、小衲がたびたび経験したところである。「日本は決して駄目な国ではない。素晴らしい国だ」と言って職を逐われた田母神前航空幕僚長(公式サイト)が矢つぎばやに刊行されている一連の著作がAmazonなどで圧倒的評価を受けているのは、これまで左翼的な教育や報道にさらされてきた人々が、わが国の現状を憂うる国防現場トップ経験者の捨て身の告発に、「目からうろこ」の感を深くしたからに他ならない。
貝原益軒は、「人の道というものは教えられなければ分かるものではない」と述べている。明治天皇の勅願により元田永孚により編纂された『幼学綱要』を全訳した経験から申せば、あのような高邁な「人の道」と偉人たちの逸話を知るならば、若者たちの人格形成に好影響を及ぼすであろうことは疑いない。道徳や修身を排除した戦後教育がどんな悲惨な結果となったかはわれわれのつとに知るところである。
前掲書の監修者の八木氏によれば、米国でもデューイなどの影響により自由放任や個性重視の教育を行なった結果、風紀の悪化や著しい学力の低下をきたしたため、レーガン大統領は就任早々に「基本に返れ」という教育改革を行ない、「古き良き教育」を取り戻すことに努めたという。
「禅の生活」ではさらにその上に、我見を放ち捨てていかなる作務をも厭(いと)うことなく心を尽くして取り組みながら、一則の公案を四六時中命がけで工夫するという尊い伝統がある。それによって、思わず知らず真空無我の境地が培われて、えもいえぬ法悦が育っていくから有り難いことである。
最近も米人老哲学者からメールが届いた。「ここ二回の摂心の坐禅中に以前ご教示頂いた、あなたがご自分の無相の自己にまみえるまで、いかなることにも断じてとらわれてはなりませぬ、というお言葉を味わい尽くして感激しております」という法悦に溢れたメールの内容である。「彼に悦峰(The Peak Of Joy)という居士号を与えたのはまことに正解であったな」と弟子たちに話しかけた次第である。
どうか一人でも多くの人たちが「東洋的教育」の、ひいては「禅的教育」の醍醐味に触れて充実した日々を送って頂きたいものである。
(なお最後に、「大切なお知らせ」でご報告しましたような事情から長い間ホームページを中断せざるを得ませんでしたことを、皆様方に深くお詫び申し上げます。)
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